私しかいない。

石井 行

私しかいない。

    舞台中央にスポット。

    一人座っている。

    客席を指し示しながら、


 昨日、私はそこに座った。

 一昨日はそこ。この前はその席。その前は…確か、そこ。

 今日の私は、ここにいる。

 ここにいるのは、今日の、今の私。



 世界中の人が消えて、自分だけになってしまう。

 子供のときの空想とか、映画とかフィクションでよくあるシチュエーション。

 謎の伝染病でみんな次々に死んでしまった、とか、ゾンビになってしまった、とか、宇宙人に滅ぼされてしまった、とかで生きている人間は私だけ。なんて本当映画みたいな話だったら、私だけになる過程で自分の立場や世界の状況を多少は把握できたと思う。

 でも実際はそんな親切じゃなくて、ある日、突然私以外消えていた。


 一人暮らしを始める為に引っ越してきた翌日だった。

 朝起きたら、電気が点かない、テレビも点かない、パソコンもオフライン、スマホも圏外、ガスも水道も止まってる。アパートの他の部屋はみんな留守。

 町へ出ても人の姿がない。道にも、建物の中にも。

 勿論車も走っていないから、異様な程静かだった。

 まず、夢だと思った。よくある夢だ。

 でも、ぐるぐる歩き回っても一向に覚める気配はないし、身体はしっかり疲れるし、ただ目が覚めるのを悠長に待っているわけにはいかなかった。

 次に、頭がおかしくなったのかも、と思った。

 だけど確かめようにも私以外いないので、「誰の常識と比べておかしいのか?」というなんだか哲学みたいな考えになってしまった。誰も、違うよ、ともそうだよ、とも言ってくれないし。

 それよりも何よりも、もっと考えなくてはいけない明らかにおかしなことが起こっていたので、この世界や他の人達のことを考えるのは後回しにせざるを得なかった。

 その話をしよう。


 朝起きて異常に気付いた私は、外へ出てアパートの各部屋を訪ね、町を歩き回り、どうやら私が認識できる範囲の世界から私以外いなくなってしまったようだと悟った。そしてフラフラと自分の部屋に帰ってきた夕方。

 ベッドに座りいろいろまとまらない考えを廻らせていると、ガチャリ、と玄関の鍵を開ける音が聞こえた。

「人だ!」

 それが悪人かもしれないなんて考えもせず、誰かがいたという喜びで転がるように玄関へ向かった。

 開いたドアから入ってきたのは、私だった。

 正確に言うと、昨日の私だった。

 大きな荷物はもう送っていたので、手荷物だけ持って新居にやってきた私。引っ越し初日の私。

 そうだ、昨日の夕方に着いたんだった。

 つねり飽きたほっぺたを懲りずにつねって歪んだ顔をしている私には目もくれず、昨日の私は部屋の中へ入っていった。多分見えていないんだろう。昨日の私がここへ来たとき、今日の私はまだいないんだから。

 ベッドに腰掛けて、新生活の準備をしている昨日の私を茫然と眺めているうちに、嫌な予感がしてきた。

 明日になったら。

 明日になったら、今のこの私が明日の私の昨日の私として現れるんだろうか。だとしたら、問題は今見えている今日の私にとっての昨日の私だ。

 明日になったら消えるのか、はたまた一昨日の私として残るのか。私は追加されていくのか上書きされるのか。

 不安の中、頭も身体も疲れていたのでどうにか眠ることができたけれど、翌朝早くに目が覚めてしまった私は、目を開けるのが怖くてしばらくベッドの中で悪足掻きしていた。

起きたくない。

 昨日現れた私は、音も立てず声も聞こえない、触れることもできなかった。幽霊みたいなもの。見なければいないも同然。

 なんてごまかせるわけもなく、恐る恐る薄目を開けると、背中が見えた。

 この時間にいるってことは昨日の私だ。昨日の朝、まだ寝ている私の背中だ。

 これで前日の私が現れることは確実になった。そして夕方になって誰も、というか一昨日の私が現れなければ、昨日の私は上書きされて一日毎の更新ってこと。もし現れれば…私が日毎に増えていくってこと。

 勿論嫌な予感は的中して、夕方には手荷物を持った私が部屋に入ってきた。何にも知らない顔をして。


 私は、私の残像が見えるようになってしまったらしかった。

 夢から覚めるか、正気に戻るか、元の世界に帰るまで、私以外いなくなってしまった世界に私だけが増えていく!

 世界がどうとか、人類はどうなってしまったのかなんてことよりも、目の前のこの残像こそが最も厄介な問題だった。

 一週間も経てばもううんざりだった。

 幽霊みたいに静かで触れることはないといっても、視覚的には一人暮らしの部屋はギューギューだ。鬱陶しい。

 私は別の部屋に引っ越した。

 なるべく部屋の中では毎日同じ時間に同じ行動をして残像をひとつに重ねるよう努めた。

 いっそ行ったことのない場所をどんどん旅していけば、昨日以前の私には会わずに済むだろう。でもそれはできない、というかしたくない事情があった。

 人間がいなくなった町。

 さて、問題は?

 水や食べ物なんかはこの広い世界で私一人の分だけ考えればいいからそんなに深刻でもない。電気がなくてもなんとかなる。私は。

 なんとかならないのは、町の方だった。

 電気で動くものは全て止まっている。冷蔵庫も冷凍庫も。食べ物はどんどん腐っていく。片付ける人はいない。

 住宅はドアが閉まっているからまだ大丈夫。だけど町なかは最悪だった。八百屋、肉屋、魚屋のある商店街には近付けなかった。離れたところまでヤバイにおいが漂ってくる。スーパーなんて巨大な生ゴミだ。

 なるべく腐敗臭のしない家を探し、まわりの家をできる限り掃除して片付けて、無理なところはダクトテープで封印した。

 …腐ってるってことは微生物はいるってことだ。

 人間はいなくなったけれど他の生き物はいるってこと?今のところ犬猫や鳥は見かけていない。鳴き声も聞いていない。私はいるから、人間全てが消えたわけでもない。どういう基準でいなくなったんだろう。場所によっては動物がいたりする?野生化してたら怖いな。

 いろいろ調べたいけれど、それは全部腐りきってにおいがマシになってからだ。

 今は少しでも居心地のいい場所を作る為に動かないと。

 何をするにしても、安心できる場所がないと。

 思ったよりも忙しい毎日が続いた。

 もうこれは夢だとか気が狂ったんだとか考える暇はなかった。考えても埒が明かないし。

 生きる為にはいろいろしなきゃいけない。それだけじゃなく、明日以降も増えていく昨日の私達のことも気に掛けつつ行動しなきゃいけない。

 二ヶ月もすると、ルーティンが決まってきた。

 同じ時間に起き、同じ時間に家を出て、同じ時間に帰ってきて、同じ時間に寝る。残像を重ねる為に。

 この部屋の中だけは落ち着いて休める場所にしたかった。

 外に出たら、毎日なるべくバラバラの場所に向かう。食べ物や消耗品を探しに。

 ホームセンターは探索に時間がかかったので、というか単純に楽しかったので、何日か通ってしまった。後で覘いてみたら、ざっと二十人程の私がうろうろしていた。

 それを見てちょっとした遊びを思い付いた。残像を使った遊び。

 時間を一歩分ずつずらして何日か同じところを歩いて大行列を作ってみた。思いのほか面白い出来だった。

 今度は歩く場所を横にずらしていって、服の色がグラデーションになるように着替えて、一週間でレインボー!なんて。

 毎日いろんな仮装をして通りを行ったり来たりして、活気ある町の景色を作ってみたりもした。

 パターンを変えればいろいろできる。

 オープンカフェで女子会。

 駅前で殴り合いのケンカ。殴るのも殴られるのもそれを止めるのも全部自分。合わせるのが難しくて、町のあちこちに作りかけの失敗作が放置してある。それもまたシュールで面白い。

 文字通りの一人遊びはなかなか楽しかった。



 ある日。ちょっといつもより遠出した日だった。

 見慣れないものを見て心臓が跳ね上がった。

 子供だ。

 小学校低学年くらいの女の子が歩いていた。

 自分の残像以外の人間を見たのはどれくらい振りだろう。

 無意識のうちに考えないようにしていた希望が、頭をもたげ始めた。私以外の人間がどこかにいるかもしれない、という希望。

 とぼとぼ歩く女の子に近付いて、声を掛けようとした。肩に触れようと手を伸ばして一瞬躊躇った。何て言おう?どこから来たの?お父さんやお母さんは?まず名前から聞こうか、それともこちらから名乗るべきか。

 女の子はパッと顔を上げると、怯えた表情で走り出した。

 しまった、怖がらせてしまった!

 見失ってはいけないと後を追ったけれど、更に逃げられても困るので今度は尾行するようにこっそりついていった。

 きっとこの先に誰かいるだろう。小さい子が一人で何ヶ月も生きられる筈がない。

 もしかしたら思ったより多くの人がいるかも。たまたまこの町は私一人だけだったのかも。

 女の子は迷っているのか、同じ通りを行ったり来たりしつつも、少しずつ進んでいった。見覚えのある道なのか、ぐんぐん進むところもあった。

 焦らずについていこう。この先には希望がある。

 いろいろ考えながら歩く。

 私以外の人も自分の残像が見えているんだろうか。私の残像は私以外にも見えるのか、逆に私以外の残像は私にも見えるのか。

 薄暗くなってきた。

 懐中電灯は持っているけれど、夜になったらあの子を見失ってしまうかもしれない。

 まだ着かないのか。まだ。

 女の子の後ろ姿をずっと追っていて、不意に思い出した。小さい頃、迷子になったときのこと。あの子と同じくらいだったかな。迷って知らない町にたどり着いて、大人が怖くて道も聞けず、ひたすら歩いて歩いてなんとか夜になる前に家に帰ることができた。すごく怒られたっけ。あの子も心配されているんだろうな。


 …この道。この道だ。

 ギクリとした。

 見覚えがある。

 この道の先には、私が生まれてから引っ越す前日まで暮らしていた町がある。

 ふと、これは、残像が現れるのは、引っ越した日から始まったことなんだろうかと疑問に思った。

 住むところが変わったからその日からの残像しか見えないだけで、生まれてからの私の残像はずっとあるとしたら。

 残像は私の過去だ。

 私はある日突然この姿で現れたわけじゃない。生まれて、育って、今に至る。

 過去は切り取ったり消したりできない。

 ということは、残像も。

 目の前の女の子が進む先、誰かが駆け抜けた。見覚えのある制服を着ていた。

 引っ越す前、約三十年間私が住んでいた町。そこには、つまり、三十年×三百六十五日+閏年分の私の過去がある。残像がいる。

 目の前の子は私だ。あの日迷子になった私だ。駆け抜けたのは中学生の私だ。

 この先には、私以外の人間なんかいない。

 私しかいない。

 私しかいない。

 私しかいない!


    暗転。


    舞台中央にスポット。

    一人座っている。

    客席を指し示しながら、


 昨日、私はそこに座った。

 一昨日はそこ。その前はその席。その前は…確か、そこ。

 今日の私はここにいる。

 ここにいるのは、今日、今の私。

 ここには、私しかいない。

 

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