カエル

 とても大切な人がいた。

 彼女はある日一陣の風のように私の前に現れ、親しみやすい笑顔を浮かべいつも一人だった私の心に寄り添ってくれた。琴をつまびくぐらいしか心の慰めがなかった私へ機織りの技術を教え、少しでも上達すれば優しい言葉をかけてくれた。いつか私が織った布を贈りそれで仕立てた衣を着てもらおうと思っていた。

 けれど、あの日、彼女は私の胸に突き刺さった剣を見ながら高笑いしていた。強い風にあおられ吹きすさぶ炎を従えながら。彼女はさっき私の『妹』に無残に殺され、こと切れたはずなのに。

 彼女の顔には、黒い雲がかかっていた。彼女は果たして本当に実在していたのだろうか?

 

 シャランシャランという高く澄んだ音が耳のすぐそばで聞こえる。菊が瞼を開けたらぎょろりとした丸い眼球が冷たく見下ろしていた。

 菊は絶叫したが、重い岩にものしかかられているかのような苦しさを覚えて動けなかった。

 彼女はいつの間にか床に寝かされ、あの不思議な鳴き声のカエルにのしかかられていたのだ。カエルは以前池のそばで見かけたときよりも、はるかに大きくなっていた。まるで切り立った崖から何かの拍子に落ちて山道をふさぐ巨大な岩のようだ。

 カエルは菊の頭を飲み込めそうなほど大きな口を開くとなんと言葉をしゃべった。

『オマエノマガタマ、カエシテモラウ。ソレ、モトハワレラノモノ、イザナギガウバッタ』

「菊様!」

 障子がばんと大きく開け放たれた。仕えている少女のただならぬ様子に、イチハツが長刀を携えて飛び出してきた。

 だが、同時にカエルの蛇のように長い舌が伸び、勢いよく彼女の腹へ向かい、にぎり拳のように容赦なく天井へ突き上げた。

 思い切り天井へ突き飛ばされ、イチハツは床へ叩き落された。彼女はたちまちしおれた白の花勝見に姿を変えた。

 菊は悲鳴を上げた。

「イチハツ!」

 侍女を助けようとのしかかっているカエルを両腕で力いっぱい押しのけようとしたが、カエルのぬめぬめした両の前脚が菊の細い首元へ伸びた。

『ワレラノチカラヲ、カエセ』

 幾重にも編まれた太い縄のような強い力で首をぎりぎりと絞められる。

 菊を見下ろすカエルの両目は、凍り付いた池のように冷え冷えとしていて、何百年何千年もの長きにわたって恨みがたまっているかのようにどす黒く染まっていた。カエルの前脚をどかせようとしてもびくともせず、菊はなすすべもない。

 ちらりとタケミカヅチの姿が頭に浮かんで消えた。けれど厄介払いしたかっただろうから、助けに来てくれるはずはない。

 とうとう菊の指先から力が抜けたときだ。稲妻のような紫の強い光が横一文字に走った。カエルの首が菊の視界から突如消えた。巨大な頭はごとりと床に落ちた。その拍子に辺りへ黒い血が千々に飛び散った。

 首の切断面から血の雨が菊の顔へ降りそそぐ前に、誰かが頭を斬られたカエルの胴体を庭へ放り投げた。

 剣を抜いたタケミカヅチだった。紫水晶でできた長い剣の刃についた血を一振りで払って、漆黒の鞘へ納めた。

「土を這いずり回るカエルの分際で俺の御殿へ侵入するとはいい度胸だ」

 聞いている者の背筋がぞくりと震えてしまうようなどすの利いた低い声音だった。その表情も嵐の夜のように暗いが、下賤で卑しい者に無礼を働かれて我慢ならないといった様子だ。

「立てるか?」

 タケミカヅチに菊が助け起こされたのを皮切りに、続々と菊の部屋へ彼の配下の者たちが集まってくる。

 普段静かな御殿にこんなにも衛士がいたのかと菊は驚いた。

「イチハツは、イチハツは大丈夫なのですか?」

 衛士たちが床のしおれた花勝見を拾い上げているのをみて、菊は慌ててタケミカヅチへ尋ねた。

 もし自分のために命が散ってしまったなら悲しいことこの上ない。

「花が散ってないから霊力を奪われただけだ。安河の水に浸しておいてやれば三日ぐらいで人型に戻る」

 彼女の主はなんてことないように言った。まるでしなびた野菜の戻し方のようだが、人の姿に戻ると聞いて菊はほっと胸をなでおろした。

 菊は、タケミカヅチからしばらくは別の部屋で寝るように告げられた。死の穢れを清める必要があるそうだ。

「ところで、菊殿。あなたは俺の贈ったタチバナが気に入らないのか?」

 タケミカヅチに低い声でおもむろに尋ねられた。彼は冷たい雨のように怜悧な顔立ちに怒っているような戸惑っているような落胆しているような実に複雑な表情を浮かべている。

 思いもよらない問いかけだったので、菊は何も答えられなかった。

 菊のうろたえている反応に、タケミカヅチは自嘲気味に鼻で笑った。

「ふん、やはりお気に召さないようだな。イチハツが、あなたが全く食べないからタチバナの汁をポン酢にして膳にだしてはどうかと言い出したんだ」

 あの種類のタチバナは神通力を回復させる効果があると聞かされ、菊は目を丸くした。

 そのような妙薬に等しい食物はおそらく手に入れるのにもとても苦労するだろうことはいくら子供になった菊でもわかる。

「そんなこと、存じ上げませんでした」

 放心したように菊は言った。

 まさか、この怖い雷の神様が自分のために、それも毎日心を砕いてくれていたとは思いもしなかった。まさか彼が厄介者扱いしている自分を守ってくれるとも期待していなかった。

「ああそうか、今のあなたはあのタチバナの効力を知らなかったのか」

『以前』のあなたはあの果物がことのほか好きで育てて分け与えていたのに、そう言いかけようとしてタケミカヅチは口をつぐんだ。どうやら目の前の少女と『以前』のあの人とはやはり違うからだ。

『以前』のあの人であれば、カエルごとき――おそらくはどこぞの国津神の影だろうが、影ごときがその御身に触れることはおろか、おいそれと近づくことすらできなかっただろう。

 オモイカネから理由は不明だがあの人の記憶が大きくすり替わっていると聞いていたので、タケミカヅチは今の菊に余計な刺激や動揺を与えないようになるべく関わらないようにしていた。だが、こんなにも堂々と国津神が彼の御殿へ侵入してきたことといい、どうやらその認識を早急に改めなければいけないようだ。

「痕が残っているな」

 呪いのように細い首筋に残っている赤い痕に気づいて、タケミカヅチはふたたび眉根をよせた。

 尊い神であるはずの彼は、小さな女神にわざわざ膝をつき、その白い首筋へ手をかざした。瞬く間にそのいまいましい痕は消えた。

 彼は何人たりとも彼女に傷を与えるのは許しがたいと思った。そしてそれをやすやすと許してしまった己に苛立ちを覚えていると、心細そうにこちらを見つめている双眸に気付いた。

 彼女はこちらの不機嫌な態度に怯えているようだ。オモイカネから「菊ちゃんの前では、笑顔を大切にするんじゃぞ」と釘を刺されていたのを彼は思い出した。

 タケミカヅチは、気まずげにこほんと一つ咳払いすると華奢な肩をポンと叩いた。

「安心しろ、俺がこれからもあなたを守ってやる」

 すると今までこらえていたものが一気に噴き出るかのように、菊は泣きじゃくり始めた。

 どうやら己の表情はよほど怖かったらしい。

 タケミカヅチはひきつった笑顔を浮かべて、頼む、泣き止んでくれと思いながら、小さな剣術の指導生にそうしているように、そしてあの人に生まれて初めて会ったときそうしてもらったように、小さな丸い頭をぎこちない手つきで撫でた。すると、なんと菊は彼の広い胸へ飛び込んできた。

 その夜、二柱の神々は同じ布団で眠った。菊は安心し切ったようにぐっすり眠っていたが、タケミカヅチは小さくなったとはいえ古くから憧れの人と同衾して全く一睡もできなかった。


 菊が元の姿を取り戻し二柱の尊い神が恋に落ちるのは、まだまだ先の話だ。

 

 

 


 




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太陽と雷(いかづち)の恋事記 王八譚 @harvestmoon

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