糸
自由がなく、退屈をもてあました機織りの女神にできることは、やはり機織りだった。
先日、タケミカヅチから何か思い出したかのように突然琴を与えられはしたが、広い部屋で一人つまびいていると空しく思えて演奏をやめた。今まで弟たちと両親の前で演奏していたからだ。そこで、菊は板張りの床に敷く敷物でも織ることにしたのだ。
イチハツへ機織り機がほしいと頼めば、次の日には届けられた。その日は雨が降っていたにもかかわらず、広すぎる部屋が少し明るくなったようだ。
イチハツは愛想はないが気は利いているらしく、菊がすべて言わずとも、縦糸を横糸に通す杼をはじめとした機織りに必要なものをすべて用意してくれた。
糸のことも、糸をつむぐ神様であるオシラ様の下で働いている男を紹介してくれた。誰にも会わせてはいけないと主人のタケミカヅチから言いつけられているはずなのに。
こうして、菊は久しぶりにイチハツ以外の人と会った。相変わらずタケミカヅチは菊の前には現れない。オモイカネも便りはくれるが会いに来てはくれない。
菊の元へ数多の糸を運んできた男は、美しい姿かたちの神々をあまた知っている少女であってもはっと目を見張るような華やかな雰囲気をまとっていた。背はタケミカヅチほど見上げなくていいが、こげ茶の髪を高く結い、曼殊沙華の花のように赤い衣をまとっている。
菊は彼と初めて会ったはずなのに、懐かしさとともに胸が縫い針で刺されているかのようにちくちくしている。
その痛みの正体が何なのか、彼女にはこのときわからなかった。
「紅葉と申します。菊様におかれましては以後お見知りおきのほどを」
珍しい髪色だったので、「あなたはどこから来たのですか?」と菊は彼に問いかけた。
すると、彼は、人の姿をとっているが自分の本性は九尾の狐だと答えてくれた。高天原の隣にある崑崙は青丘という所からきたそうだ。人が暮らす葦原の中つ国へ西の大陸から海を渡って人が出入りするように、崑崙の仙人や神々もこちらへよく出入りしている。
紅葉が持ってきた糸はどれもこれも崑崙で飼われている蚕の繭玉から作られた絹糸だそうで、どれも手で触れずとも見るからに丈夫で艶もよく、色の種類も豊富で菊は彼の持ってきた糸をいたく気に入った。
菊は水色に染められた糸を選んだ。晴れた空のような敷物を作ることにしたのだ。
今の菊に機を織っていた記憶や誰かから習った記憶は、実はない。けれど機織り機の前に座れば、琴をつまびくようにどうすればいいのかごく自然と体が動いた。
菊は久しぶりに機を織ったのもあってか、それは熱心に機織りへ集中した。
湯あみをした後も隣の部屋で眠るイチハツに気づかれないようこっそり続けていたら、気が付いたらとっくに子の刻を回っていた。ふだんは戌の刻と亥の刻の間ぐらいに眠るのに。
すると、またシャラン、シャランと鈴を振るような例のカエルの鳴き声が聞こえてきた。
機織りがひと段落して気が抜けたのも相まって、急に眠気が襲ってきた。菊は大きくあくびすると布団には入らず、糸の張ったままの織り機へゆっくり突っ伏した。
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