花勝見御殿
菊が家族と暮らしていた家は『事故』のせいでぼろぼろになってしまったため、菊はタケミカヅチの社へ身を寄せることになった。
『事故』のせいで彼女の家族も療養しているらしい。彼らは傷を癒すために眠ってはいるが、肉体が滅んで黄泉の国へ降ったわけでも、魂が砕けて高天原・葦原の中つ国・黄泉の国の三界すべてから消えてなくなったわけでもない。オモイカネからそう聞かされて菊は心底ほっとしていた。時期が来れば彼らと再会できるそうだ。彼らに会うまでには元の姿に戻りたいと小さな女神は思った。
雷の神であるタケミカヅチが治める香島は、高天原を流れる安河の支流に囲まれた九つの島々で成り立っている。
いづれの島の川岸には紫や黄色、白の花勝見がたくさん植わっており、浮かない気持ちでいた小さな女神の心を和ませた。
九つある島の中でもっとも大きな島の船着き場につき、石段を登ると、黒い瓦屋根の家々が並ぶ。ここにはタケミカヅチに仕える神々や精霊たちが暮らしている。高天原の家の多くは茅葺屋根だが、ここはまるで言葉を異にする神々が暮らす隣の崑崙のようだ。
迎えに現れた牛車に乗って白い石畳の通りをゆっくり進めば、通りの突き当りに黒塗りの楼門が立ち、その両脇には高い塀が広がっていた。菊が見上げれば首が痛くなるぐらい大きな門の奥には、まるで当の主の態度のように人を寄せ付けないいかめしいたたずまいの屋敷が立っている。これが、タケミカヅチの社である花勝見御殿なのだという。
門をくぐる前からそれまで菊が滞在していたオモイカネの社よりもはるかに大きいのがみてとれた。オモイカネによると、この花勝見御殿はこれまで何度か建て替えや増改築を繰り返したそうだ。
その理由は、高天原には数多の神々が住まわっているのでいざこざはちょくちょく起きるからだそうだ。特にタケミカヅチは国生みの父神と母神の血をひいているからか、葦原の中つ国はじめあまたの神々に勝負を挑まれやすいのだという。
「そんなよく命を狙われている方にわたしの護衛を頼まれるのですか?」
驚いてオモイカネに疑問を率直に投げかけると、彼は訳知り顔でこう答えた。
「挑まれた戦にはすべて勝っておる。だから護衛にふさわしいんじゃ」
花勝見御殿で菊にあてがわれた居室は、日当たりがよく、よく手入れされた小川の流れる庭を眺められる部屋だった。けれど、一人で過ごすにはとても広いものだった。
タケミカヅチは用があるとかでこの日は現れなかった。送り届けてくれたオモイカネが帰った後、ほっとした気持ちよりも不安が押し寄せてくる。
眠れないのではないかと思ったが、どこからともなく鳥とも虫ともつかない高い鳴き声が聞こえてきた。
シャラン、シャラン……シャラン、シャラン。
鈴を振ったかのようなその不思議な鳴き声に誘われるように、最初の夜菊は眠りについた。
菊の元へは、毎日食の膳のほかにタケミカヅチの名前で新鮮な果物や木の実が届けられた。なぜかタチバナの黄色く小さな実が必ず届けられるが、これは酸味が強くてとても食べられたものではない。
早く出て行くように嫌がらせされているのではないかと菊は勘ぐってしまう。
タケミカヅチは菊の世話役にもかかわらず、彼女が花勝見御殿へ来てから一度も彼女の部屋へ顔を出さないのがそのあかしだ。
御殿へ来る前は、きっと何かにつけて気に入らないことがあれば雷が落とされるかと思っていたが、拍子抜けするほど小さな女神は放っておかれた。
けれど、身の回りの世話をしてくれるイチハツという侍女以外と会うなと命じられている。イチハツは、今の菊より少し年が上にみえるすらりとした立ち姿の花の精霊だ。主人に似てか、こちらもつんと澄ましていて話しかけやすいとは言えない。
おまけに、なるべく部屋から出るなともイチハツを通して、タケミカヅチから菊は言いつけられている。
おそらくは彼には敵が多いからだろうが、あまりに自由がない。これではあの日まで眠っていた洞窟にいるのと何ら変わらない。
そう思った菊は、タケミカヅチの言うことを聞かずに、朝目覚めるとこっそり広い御殿の敷地を散策するようになった。
おかげで、ある日とうとう虫とも鳥ともつかない鳴き声の持ち主はカエルだったのを彼女は知った。
鳴き声を手がかりに小川をつたって歩けば、花勝見が咲く大きな池があった。その池のそばに植わっていたツツジの根元でカエルは鳴いていた。
一風変わった鳴き声のカエルは土のように茶色く、小さな両手からはみ出すほどの大きさで、満月のように丸い瞳は月も星もない夜空のように黒い。初めて見る種類のカエルだ。
菊は、変わったカエルになぜか首にかけている青い勾玉をじっと見つめられているような気がしたが、カエルにそのような意志があるはずもない。
「また会いましょう」とカエルに声をかけたこの後、彼女は花勝見御殿へ滞在して初めてタケミカヅチと遭遇した。
花勝見御殿には剣術の道場がある。タケミカヅチは剣術の神様らしく、そこで彼は毎日多くの神様に剣術を指南している。
菊も『以前』は剣をふるっていたそうだが、今は剣一本を持てる力もないぐらい非力だ。おそらく神核がまだ傷ついているせいだ。
今ようやく持てているのが赤い瑪瑙でできた小刀だ。それも護身用ではなく果物を切るためだった。
タケミカヅチは、剣術道場のそばで桶に張った水に手拭いをつけて、身体の汗をぬぐっていた。朝の鍛錬をしていたのだろう。
菊は彼に見つからないように、さっと近くにあった大きな松の木陰に隠れた。
剣の神様らしく、さぞ筋肉隆々かと思いきや、思いのほか細身の体だ。それなのに父神から授けられた長剣を竹の棒のように軽々と振り回せるというのだから、よほど神通力は強いのだろう。
彼が手にしている青竹色の手拭いを、菊はどこかで見た覚えがある。さてどこだっただろう。
「何をじろじろ見ている。早く部屋へ戻れ」
離れた木陰から様子をうかがっていたはずなのに、タケミカヅチはこちらを振り返りもせず、背中から激しい稲光を今にも発しそうだった。
見つかってしまった。菊は踵を返すと急いで走り出した。
何もこっそり覗いていただけであんなに怒ることはないのに。
やはりあの方は苦手だと、菊は部屋で深いため息を吐いた。
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