月業寺は、一見すると見逃してしまうような規模の、ごく小さい寺だった。門をくぐってすぐ講堂が見える。

 横に人が住んでいるであろう瓦屋根の建物がくっついていて、『御用のある方はこちらに』という手書きの張り紙が目に入った。

 インターフォンを鳴らすと、五秒も経たずに人が出てくる。

 僧衣を身にまとった、六十代くらいの男性だった。剃髪してあって、黒目が見えないほど瞼が下がっている。

 どうされましたか、と聞かれて、私は「月祭り」に興味を持ったことを伝えた。私がかつていた大学の名前を出し、そこの民俗学研究室の者だと名乗った。

 男性はこの寺の住職だといった。

「月祭りは盛り上がっているようですが、やはり写真に映える食べ物や、催し物なんかがメインでね。由来にまで興味を持ってくださる方は珍しいですよ」

 住職は笑顔のまま、こちらへどうぞ、と講堂を指さした。

 どうも違和感があるのは、住職が敏彦を見て全く動揺していないことだ。例えば青山君のような良い人でも、敏彦のことをぼうっとした表情で見ていることがある。彼は私をないがしろにしないだけだ。老若男女、度を越した彼の美貌には逆らえない。

 それなのに住職は私と敏彦に対して全く同じような態度を取っている。よほど目が悪いとしか思えない。

「どうぞ、こちらへ」

 住職は紫色の座布団を二枚敷いて、かけるよう促した。

「月祭りそのものというより、月業についての郷土資料になってしまいますが、まとめてありますよ」

 住職はラミネート加工が施してある紙を数枚こちらによこした。

 お礼を言って受け取る。比較的分かりやすい書き文字で助かった。あまりにも達筆だと読めないし、また別の人に頼らなくてはいけなくなるからだ。


   幸光禅師、観音の示現を拝すこと

   永正年間のこと、月業一帯は、凶作飢餓あいつぎ悪疫流行し、為に人心麻のごとく乱れ、世相混乱の極みに達せり、時に出臼山月業寺幸光禅師座視するに忍びず、三十七、廿一日間の断食祈願の禅定に入る。即ち、観音の霊験ありて、月業寺境内に奉祀し大いに教化につとめた。あたえて幸光禅師を生仏という。さらに吾末永く民を火難水難より守護せんと誓願を立てて、皿を集め、それを浄めて法華経を写経し土中に並べしき、この上に端座定に入り人柱に入り給うという。

   この三年の後月業豊作となる。村里の者が誤り、灰を掘り返した。見れば幸光禅師、顔色穏やかにて、『観音示現せり』と言へり。以後御皿観音、身代観音と呼ばれん。



   左衛門篤信及九日會式

   慶長元和の頃、左衛門と云ふ修行者あり、幼き時は母と共に國を出で諸國を漂浪しけるが月業に住す。天性悧發にして儒学を好み遂には六經に通じければ塾を開いて門弟子に教授す、後年佛学に志し、其頃十一面観音眞言を授けらる。

   日々数萬遍も此眞言を唱へて信念愈々堅固となり、遂には郷を出で、三十三箇所の霊跡を巡禮するに至る。

   御皿観音は巡禮の根本にして殊に例年十月九日は三十三箇所の観音是所に集會すと言ひ傳へらる、こは彼の花山法皇巡禮興復當時十月八日より七日間大供養を行ひ殊に十日後夜には幸光僧正に観音示現ありとの説を承継するものにて、元和二年九月三十日のことなりしが左衛門も詣でて一心に誓ふらく

   年頃賴みつる観音功力にして信ならば此左衛門にも示現あらせ給へ。

   と眞言を誦して念じけるに、夜半も何時しか過ぎては神疲れ氣弛みて頻りに眠を催し来れり、既にして四邊風静まり大氣爽かなる折しも、中天明朗として光彩赫耀し、紫雲靉靆くと見る間に何れより微妙の音、雅楽を奏づるに似たり、仰ぎ見れば三十三箇所の霊観音前に在り、無量百千の菩薩前後左右を擁して其壮美譬ふるに状なし、軈て御皿観音自ら金鑰を執りて極楽浄土大殿の門扉を開き賜へば諸尊辞譲して其内に入り給ふ、左衛門も亦其後に付するを得たり、光明赫奕の日月に百倍するが如し、左衛門随喜して問ふて曰く

   極楽界は西方十億土を隔たれりと云ふに今示さるゝは安養浄刹なり如何ぞやと。

   観音曰く、是ぞ汝が清浄信心中の浄土にして方便化作の土なり、是心作佛即事眞なれば一切称名のもの摂取せらる、十萬億土豈遠からんや。

   左衛門歓喜して己が妻子にも拝せしめんと急ぎ門扉を出れば閉ぢて亦入るを得ず涙雨の如くにして夢覚めたるが如し、此事冥應集の記する所にして以後左衛門は佛説の虚ならざるを信じ、即ち遂に寺僧に請ひて月業、出臼山の麓に草庵を結び妻子と共に日夜観音眞言を誦して絶たず。

   其後三年を経て又十月九日の旦たに妻子も同じく観音の示現を拝したれば、最早只浄土往生の祈願あるのみとて是より草庵の戸を閉ぢて人と面せず、貯ふる所の金数十両を村里に配分して施與し、唯我等の為めに一日一食の分を給せよと約す、里人驚きて之を辞するも聴かず、即ち左衛門の命のままに食を送るに、庵扉堅く閉ぢて前に棚を構へたれば食を送るもの日々是に置きて帰る。

   労しきかな二年の後棚上に一書あり、爾後四人の食に足れりと書す、後又半年にして三人の食にて足ると書出し、二年にして後は二人にて好しと云ふ、十一年を経て村里の人某々等の来集を請へるあり。

   行き見れば左衛門顔色麗はしく憔悴の人とも覚えず、語りて曰く我が冑子と嬢妻已に行けり、事の仔細を語らんとて日頃霊験の程残りなく物語り、年来村里の人の哀憐を厚く謝し、佛像経巻什器等悉く分ち與へ後に沐浴して日没端座、合掌して誦念高らかに遂に逝く、左衛門七十三にして實に寛永十一年十月四日のことなりし、是より毎年十月「九日會式」愈々盛んにして此日観音月業に集まると云ひ、又御皿観音は極楽浄土の鍵執りなりと傳へられて近世に及べり。

   又此九日會式を「月祭り」と名くるは三十三箇所の観音此夜月業に影響あるに當り、諸人には其姿を見ざるも恰も月の現るるが如くに拝せられたれば、之より又月祭りの異名を用ふるに至れるものになりとぞ。


 まず永正(室町時代後期)から伝承は始まっていて、飢饉の続く月業に心を痛めた幸光という僧侶が、自らを人柱にして飢饉を止めようとする。端座定というのは座禅をして生きながら火葬されることだ。その三年後、飢饉はなくなった。ある日月業の住人が誤って幸光禅師の灰を埋めた場所を掘り返してしまう。なんと幸光禅師は生きていて、「観音様を見た」と言う。幸光禅師が皿を並べた上で端座定を行ったことからか、月業の観音様は御皿観音、あるいは人柱となって飢饉を鎮めたからか身代観音とも呼ばれるようになった。

 そのおよそ百年後、元和〜寛永(江戸時代初期)に、左衛門という修験者が現れる。左衛門は信心深く、賢い男だった。色々な場所で修行をしていたが、結局故郷の月業に戻ってくる。理由は、幸光禅師が観音を見たという言い伝えを聞いたからだ。

 左衛門は幸光が観音を見たときと同じ時刻に観音様を見たい、と願うと、観音様が目の前に現れた。観音様は金の鍵を持ち出し、極楽の門を自ら開いた。左衛門は家族にも極楽浄土を見せてやろうと呼びに行くが、戻ってきたときには既に門は閉じられていた。

 その三年後、妻子も無事に極楽を見ることができるが、その後は庵を作り、家族一同で祈るだけの日々を過ごすようになった。

 左衛門は七十三歳で親切にしてくれた月業の人々に感謝しながら息を引き取るが、この伝説は語り継がれ、恐らく十月九日にあったことだからだろう、九日會式と呼ばれ、人々はその日を祝うようになった。観音様は月と共に現れるので、月祭り、とも呼ばれるようになった。

 両方ともどこかで聞いたことがあるような話だが、それにしても「皿」というのは何の意味があるのだろう。私の記憶の中には皿と共に埋まる宗教的儀式はない。

 私が考え込んでいると、

「どうでしたか?」

 住職が静かに声をかけてくる。

「すみません、あまり古文が得意ではないから、読むのに時間がかかって」

 資料から顔を上げてそう言うと、住職は笑みを浮かべた。

「実は、他にもエピソードはありますよ」

「そうなのですか? 差し支えなければ、それも見せていただきたいです」

 住職は首を横に振った。

「ええと、謝礼も……」

「いいえ、もったいぶっているわけではなく、お見せできるものがありません。聞いた話なのです」

 住職はそう言って滔々と語った。

「宝暦に一度、こちらは失火で焼失しているのですが、その時の話です。ある男が消火の手伝いに来てくれましたが、火の回りが早く、男が到着したころには全て燃え落ちたあとでした。男がこれはもう仕方ない、と帰ろうとすると、燃え残りが熏ぶっている場所がありました。そこから誰かが、ほうほうと、女のような声で男を呼びました。不審に思って見回してみた男でしたが、誰もいなかったので、ふたたび帰ろうとしたのです。帰ろうとすると、また男を呼ぶ声がしました。こんなことが何度も繰り返されたので嫌になってしまった男は、鋭い鎌を焼け跡に振り下ろしました。すると、なんとその場所から、皿が何枚も出てきましたとさ」

「また、お皿……」

 敏彦が言う。

「お皿に、仏教的な意味ってあるんでしょうか」

「ううん、私も月業でしか聞いたことがないですね。お皿に関してですと、こんなエピソードもあります。明治から大正にかけてコレラが大流行した折に、夜陶器の皿に水を汲み、月を映し、それを飲み込むとたちまち快癒する、なんていう話がまことしやかに流れたそうですよ」

「なるほど……貴重なお話を聞かせてくださって、ありがとうございます」

 私は住職に頭を下げた。敏彦も同じようにしている。

「一つだけ、気になったんですけど」

 敏彦が口を開いた。マスクを外し、微笑んでいる。

「月業寺さんが、今年から九日會式を地域のイベントとして盛り上げようと決めたのはどうしてですか? 何百年もひっそりと続けていた伝統なんですよね」

「うーん、どうして、と言われても。若い人からお話があったので、地域活性の一助になればと」

 敏彦は住職の右手を取り、両手で包み込んだ。

「若い人っていうのはどういう方ですか? 大学生? それとも」

 笑みを張り付けたような住職の口元が、わずかにひくついた。

「ちょっと、距離が近いのでは……」

「だって、本当のこと、言ってくれないから」

 敏彦は住職の手を大切なもののように撫で擦った。そして嫋やかな動きで、右耳を住職の顔に寄せる。

「小さい声で、俺だけに教えてほしいです」

 住職のほぼ開いていないような瞼が震える。

「外国人の……男性でした。最初は勉強に来た人かと……とても、詳しかった。九日會式のことも知っていて、それで──祭りの夜に皆で集まればいいと。祈ればいいと。集まればいいと。祈ればいいと。集まればいいと。祈ればいいと。集まればいいと。祈ればいいと。集まればいいと。祈ればいいと。集まればいいと。祈ればいいと。集まればいいと。祈ればいいと。集まればいいと。祈ればいいと」

 自然に手が出た。敏彦を引っ張り、引き摺るように住職と距離を取る。

 住職の目は互い違いの方向を見てぎょろぎょろと動き、同じ言葉を繰り返している。

「かたやまとしひこ」

 異界の言葉のように敏彦を呼ぶ。

 口を開こうとする敏彦の口を手で塞ぐ。応えてはいけない。

「わるいもの。いてはならないもの。かたやまとしひこ。なにもあたえず、うばっていく。いてはならないもの。はんしたもの」

 げう、というカエルを潰したような音が聞こえる。

 敏彦だった。目が充血して血走り、口が開閉を繰り返して酸素を求めている。敏彦は、渾身の力で自分の首を絞めている。そう気付いた瞬間に、私の手は思い切り敏彦の側頭部を叩いていた。間髪を容れずにもう一発、二発。三発目に敏彦は昏倒し、どさりと床に倒れ込んだ。

 顔の前に手を当てる。呼吸はしていた。敏彦を立ち上がらせようと中腰になった時、

「ささきるみ」

 住職の口から女のような声が出ている。

「あわれなこども」

 哀れな子供。

 そう言われた瞬間、かっと目の前が熱くなる。

 右手を大きく動かし、右に払う。

 私の押し入れだ。

 目の前の何かの気配を今ははっきりと感じる。正体は分からない。だが、

「お前の正体は分からなくても、お前が弱いものだということは分かりますよ」

 目を瞑る。あの少年が、目を見てはいけないと言った。

「他人の口を借りないと話せませんか? 弱者のやることです」

 目の前の何かに集中する。

 頭に、観音像を思い浮かべた。きっと、中身はどうあれ、こういう姿をしている。木彫りで、女性的な優しい顔。手も繊細で、神々しいのに何故かすべて受け入れてくれるような温かさを感じる。

「御皿観音」

 名前を呼び、「入りなさい」と言う。私の汚い押し入れにしまい込む。そしてそのまま、忘れる。それでいい。

 それでよかったはずだった。

 私は、入りなさいと言えなかった。


 顔に優しい衝撃を感じて、目を開ける。その瞬間、攻撃的な美貌が視界に入った。敏彦が私の顔を優しく叩いているのだ。目を逸らす。眼鏡が外れていてよかった。私は手だけで体の側に置いてあった眼鏡を探り当て、かけなおした。敏彦が頭を押さえながら、大丈夫? と聞いてくる。

「なんか、頭が死ぬほど痛い。住職に話聞いてたとこまでは記憶あるんだけど……」

「すみません、私が殴りました」

 敏彦は怪訝な顔で私を見た後、「まあ、そうしなきゃいけない理由があったんでしょ」と言った。

「それで、片山さん。さっきどうしてあんな娼婦のような真似を……」

「明らかに噓を吐いていたから。いや、噓、って言うのも違うね。誰かに言わされてる感じ」

 敏彦は未だ目覚めない住職の肩を優しく揺すりながら言う。

「ずっとおかしかった。だから、ああすれば、あの変な感じがなくなって、きちんと話してくれると思ったんだ」

 敏彦は溜息を吐く。

「結果は返り討ちだね」

「いえ、素晴らしい成果ですよ。やはり、この事件にはまた、同じ人間が絡んでいるということが分かりましたのでね」

 敏彦がならいいけど、と言ったのとほぼ同じタイミングで、住職が突如がばっと体を起こした。

「大丈夫ですか?」

 すかさず敏彦が肩を抱く。

 住職はわっと大きな声を上げて、敏彦の腕を振り払った。

「何をするのですか!」

 顔は紅葉のように赤く色を変えている。先程までの張り付いたような笑顔は影も形もなく消え失せていた。敏彦はもう一度住職に体を寄せて、

「お話の最中に気絶されたので、介抱していただけですよ。ご不快なら、申し訳ありません」

「い、いや……」

 住職は伏し目がちに落ち込んだような演技をする敏彦を見て、しどろもどろに言った。

「何が何だか……」

「先程まで、ご住職のお話を伺っていたのですが、それは覚えていらっしゃいますか?」

「ええ……随分綺麗な人だなと、ちゃんと覚えて……すみません、何を言ってるんでしょうね。ごめんなさい」

「構いませんよ。ご住職、念のため、この後病院へ行った方が良いかもしれません。その前に」

 敏彦は続けた。

「色々、月祭りの伝承について、貴重なお話をいくつも聞けたのですが」

「月祭り、はい……月祭り、不思議なんですよ。私も父や祖父から聞いていただけで、言ってしまえば、ただ、月に向かって祈るというだけの日だったんですが。今年は商店街でイベントをやるということに決まってね」

 住職はちょっと待ってくださいね、と言ってどこかへ行き、数分も経たないうちにまた戻ってきた。

「これはきっと、まだ見せていないですよね? 何かの参考になりますか?」


  有かたや月日の影ともろともに身は明かになるそうれしき

  あはれみの大慈大悲のちかひにはもらさてよよそてらす月かな

  くわんおんのしひのきんやくうゑぬれはくちぬ宝を身にそおさむる

  法によく命をかけてひたすらに願ひは罪も消えてこそ行け

  おさらさまいまは何処にをられるかまつ引き連れむ極楽浄土


「これは一体?」

「こちらに残っている『月祭り』の歌ですよ」

 子供たちが歌っている歌はこれだったのか、と思う。

「メロディはどんな感じですか?」

「いえいえ、歌と言っても本当に歌うわけではありません。もしかして、歌っていたのかもしれませんが、残っていませんよ。今は本当に、ただ月を見て、祈るだけなので……おかしいな、なぜ、こうなったのかな」

 住職は同じところをぐるぐると歩き回っている。

「おかしいな、確か男の人が来て──金髪の若い男の人が。いや、女の人だったかな? 思い出せない……」

 敏彦が目配せをしてくる。私は黙って頷いた。

「それでは、私たちはお暇させていただきます。今回は、貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました」

 まだ怪訝な顔をしている住職を残して、私と敏彦は寺を出た。

 帰り道で敏彦は言う。

「言わなくてもいいことかもしれないけどさ」

「言わなくてもいいことは言わないのが一番ですよ」

「聞いてよ、真面目な話」

 敏彦はこちらを見ずに言った。

「身内贔屓は、駄目だよ。間違っているときは間違っていると言わないと」

 敏彦が倒れ、救急車で運ばれていったのは、事務所に着いてすぐのことだった。

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聖者の落角 芦花公園 @kinokoinusuki

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