その10
人間はあるがままの自己を受容することが大切である。善悪の勝手な判断によって自己の内部にあるものを抑圧すべきではない。それは不自然であり、不自然は必ず自然から復讐される。それが神経症や異常行動だ。従って自然が一番いいのであり、正しいのだ。
人間を動かしているのは感情だ。愛憎、喜怒哀楽、嫌悪、恐怖といった感情だ。決して客観的な理性というものではない。理性はむしろ感情の後から、感情を正当化するために働き出すものだ。だから人間が自然であるというのはこの感情を抑圧しないということだ。抑圧すると心内に葛藤が起こり、様々な心理的障害が起きる。自然に任せれば自然は必ず調和を持ち来たらすのだ。だから自己の感情を先ず受容することが大切だ。
感情を受容せよということは、即、感情のままに行動せよということではない。眼目は自己の心内に生じてくる感情を抑圧しないことである。抑圧しなければ心内に葛藤は起きず、心に葛藤がなければ理性は自ずと十全に働く。理性が十全に働いておれば適正な行動が取れるのだ。
ブッダの教説ではこの感情に当るものは五蘊のうちの受、想、行であろう。ブッダはこれらについてその本性は無常、無我、苦であると説く。だからそれに執着せず捨てよと説く。ブッダの教説によって感情を「捨てる」ことは感情の抑圧になるのだろうか。抑圧するとはその感情を消してしまおうとして闘うことだ。ブッダの教えではどのような感情も無常、無我、苦を本性とするものと観て捨てるのである。
つまり感情を相手にせず、それから離れるのだ。そこに争闘はなく、心内の葛藤は生じない。従って抑圧とは違う。とは言っても、その「捨てる」とか「離れる」ということ自体に抑圧的なものを見出すことも可能だろう。なぜなら通常の場合、人間は自己の感情から離れることはできないからだ。まさに人間は感情の動物だからだ。それなのに感情を「捨てる」とか「離れる」とか言うのは無理がある。人間の本性を抑圧するものがあると考えるのはもっともだ。しかしその感情の実相が無常、無我であり、苦でしかないと真に知る者があれば、その人にとってそれを「捨てる」ことはさほど困難ではないはずだ。いや、苦でしかないものを捨てるのはむしろ当然と言えるだろう。悟りの智慧が確立されてくるにつれて、「捨てる」ことや「離れる」ことは容易になってくる。逆に言えば智慧がまだ確立していない者にとって「捨てる」ことは苦行であり、抑圧と感じられるだろう。それらの人にとってブッダの教説は一つの禁欲の体系であり、人間の本性の抑圧であるとも思えるだろう。しかし、ブッダは『捨てる』ことを説いたのであり、「何々するな」という禁止項目を並べたのではない。彼が繰り返し説いたのは「捨てる」前提となる智慧である。そしてその智慧を得た者は強制されずとも自ずと「捨てる」のだ。そこには心内の葛藤は少ないだろう。あるいは全くないだろう。感情を受容することも、ブッダの教説によって『捨てる』ことも、心内に葛藤を生じさせないという点では共通すると言えよう。
ブッダとの出会い 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711
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