玻璃の手紙
えんねい
第1話 万屋の青年
薄暗い森の中を、一人の青年がただ駆ける。艶やかだった黒髪は乱れに乱れ、美しく輝いた金の瞳は暗く濁っていた。服もボロボロに破け、血と泥と煤に汚れた肌が所々露出している。時折背後から怒声が聞こえ、数歩先の木から火の手が上がり、枯れ葉を巻き上げて地面が隆起し、穏やかだった川が荒れ、真昼の世界が暗くなる。これも全部、あいつらの攻撃だ。
(あいつら……? あいつらって誰だ……)
既に意識が混濁し、彼の思考はまとまることを知らない。それでも、捕まってはいけないという感覚だけを頼りに、ひたすら走る。
「……っりゃァ!」
突然横合いから男が飛び出し、炎を纏った拳で殴りかかってきた。瞬間青年は高圧の水を発射し、炎ごと男の腕を切り落とす。男が悲鳴を上げて倒れ込み……
「がッ⁉︎」
同時に青年の左腕に激痛が走った。驚いて身体を見下ろすが、相手の攻撃は当たっていない。目に入ったのは、透き通った白い石が皮膚を突き破って「内側から」生えている光景だった。
(あぁ、そうか……これのせいで……)
彼はそれを見て自分の状況を思い返す。青年は、その石のせいで命を狙われていた。半透明で時折七色の輝きを放つその石を、人は魔石と呼ぶ。彼はまるで他人事のように自身の状況を思い返した。
この青年は、ある病気にかかっていた。原因不明、治療不能、症例なし。そして、下手をすれば死に至る。そんな重い病気。すでにその病気のせいで彼は体の動きが悪くなり、記憶も多くを失っていた。彼を診たとある医者は、その病気をこう称した。
「魔石病」
この世界で人々を支える技術、魔法。それは空気中に大量に存在する魔力を体内に取り込み、活性化させる事で様々な超自然的現象を発生させるものだ。そして彼の場合、魔法を使った際に体内を通り抜ける魔力がなんらかの原因で体外に出ず、それが原因で体内に魔力の高密度結晶体である魔石が発生してしまうのだという。今彼を苦しめた腕の激痛もそれが原因だ。
そんな病気に罹患しているなどと露ほども知らない彼は、幼少期から頻繁に、というより世間一般と同程度に、当たり前のように魔法を使用してきたらしい。……らしいと言うのは、もう当時の記憶が彼にはないせいで本当のことがわからないからだ。恐らく頭蓋の中にも魔石が発生し、脳を傷つけているのだろう。出身も両親も名前も忘れた今、かつて自分が「レタ」と呼ばれていたこと以外、自分の来歴についての記憶はない。
そして恐ろしいことに、魔石というのは自然界でも稀に見つかる鉱石なのだが、その発生条件などは一切分かっておらず、見つかる数も実に少ないのだ。しかも魔力の高密度結晶体である魔石は大規模な魔法の使用を助ける力があり、大きな力を求める国や個人が常に探し求めている。となれば市場では超高額で取引されるようになるのも当然のことだ。そしてそんなものが体内に発生する病気にかかった彼の存在が知れ渡ったら? 起きることは一つ、襲撃である。そしてそれが現実となったのが、今なのだろう。全身に広がった魔石は一歩踏み出すたびに痛みをもたらし、反撃のために魔法を使うほどその数を増やしていく。痛みで足が遅くなり、追いつかれては魔法で凌いで痛みが悪化する。
(ここで……死ぬのかな……)
ふとそう思ったが、それすら自分のことではないように遠く感じる。記憶がどんどん薄れ、自分が生きているという事実すら朧になった。ここで死んだとして、それを知って悲しむ人間がいるのかも彼には分からない。
足が絡れ、魔法によって光を奪われた暗い泥濘の中に倒れ込む。その衝撃で全身の神経が一生分の仕事をやりきろうとするかのように膨大な痛覚をもたらした。きつく引き結んだ唇から人のものとは思えぬ低い呻き声が漏れる。
「止まったぞ!」
足の方から野太い声が響き、それに多数の声が応じる。歓喜に弾む声、怒りに揺れる声、憎悪に染まる声、恐怖に支配された声。多様な声が向く先は、ただ一人。満身創痍で地に突っ伏した、黒髪の青年のみ。
「ようやくか、派手に暴れてくれたな」
先頭に立つ大柄の男が青年の頭を鷲掴みにし、ギリギリと締め上げた。頭蓋骨から嫌な音が響き、周囲を取り囲んだ男たちがやや怯む。そのうち痩身の一人が一歩踏み出し、落ち着いた声で諭した。
「殺さないでくださいよ、生きたままの方が役に立つ」
「これだけ仲間を殺されたのにそんなことを言うのか? お前は。生かしといたらあと何人殺されるか分かったもんじゃねぇぞ」
「一時の憎悪と恒久的な富の確保、どちらを優先すべきかは分かるでしょう」
充血した鋭い視線と冷たい視線が交錯し、その間で火花が飛び散る。比喩ではない、仲間を殺され怒りに燃える大柄な男が無意識に魔法を発動させているのだ。男に頭を掴まれた青年も無事ではいられず、こめかみの肉が焼けて煙を出す。
「……お前が一人でこいつを抑えられるならそれも構わねぇ」
「出来るわけないでしょう」
あっさり言ってのける痩身の男に、刺さった視線が圧力を増す。それに伴って空中の火花も激しさを増し、気温が僅かに上昇した。男たちの輪が更に広がる。
そのやり合いを、青年は薄れた意識の中で聞いていた。痛覚は消え去り、焼けるこめかみにもややむず痒いような感覚があるだけだ。それでも、自分の周囲に渦巻く殺意と憎悪だけは不思議と明確に感じることができ、その色すら見えようかというほどだった。
「聞けんな」
怒気に揺れた男の声が響くと共に、青年の首に刃物が当てられる。
「こいつは殺す。でないと、死んだ奴らに悪い」
刃先が青年の皮膚の上を滑り、細く赤い線が浮かぶ。青白い肌を真紅の水滴が伝い、ボロきれと化した服に吸収され、小さな染みを作った。瀕死の青年に似合わぬあまりに鮮やかな色彩。それは、彼がまだ生者である証。
「ん?」
刃物を持った男が身を固めた。耳をそばだて、一瞬だけ自分の耳が捉えた奇妙な音の出どころを探る。まるで野獣の息遣いのような音。不思議に思ったのも束の間、男はその音の出どころを察知した。手の内に収まった青年の顔を覗き込む。その目が合った時、ちょうど青年の意識は混迷の底へ落下しようとしており……
瞬間、青年の瞳が黄金の光を放った。瞳孔が引き絞られ、口から漏れた咆哮が空気を揺るがす。男たちが怯える間も無く青年の体が海老反りになり、そしてそれが元の向きへ跳ね返った。
暗転。全ての光が、その空間から消失した。木々が粉々に破砕する音が響き渡り、大地が鳴動し、そして悲鳴が一瞬ののちにかき消される。骨の砕ける音、肉が擦り潰される音、液体が撒き散らされる音。正気の者が聞けば気を失うような残酷な音が、黒い空間を支配する。
しかしその音や光景は、外部に漏れることはなかった。もし遠くからその光景を見たものがいれば、何か真っ黒な球体が無音のうちに収縮していく姿を見ただろう。それは、極小のブラックホールだった。この世界にあり得ない、超高密度の物体。不思議と外部に影響を与えず、その内部を圧縮し続ける超自然的な存在。その中央で、彼は瞳孔が点になった黄金の瞳を見開いて「浮かんで」いた。一切の影響を受けず、ただ無心にそこにいた。そしてその目は次第に虚になり、そしてついに、光を失った。
◆
「……ッ⁉︎」
室内の気圧が下がりそうな程急激に息を吸い込み、彼はベッドの上に跳ね起きた。数十秒間そのままの状態で放心し、脳が危険信号を発してからようやく息を吐き出す。頭蓋の中に心臓の音がうるさく響き、それを治めるまでに数分の時間を要した。
落ち着いてから周囲を見回すと、板張りの床に白塗りの壁、そしていくつかの木製家具が並んだ味気ない部屋が目に入る。窓の外に目をやれば、僅かに欠けた白銀の月が煌々と輝いていた。その高さから見てまだ深夜、起きるには早すぎる時間だ。
「……克服できたと思ってたのになぁ」
苦笑して呟いた青年はベッドから立ち上がり、音を立てないよう静かに裏庭へ向かう。
彼がこの夢を見るのは今日が初めてでは無い。今まで何度も何度も同じ夢を見て、そして毎回全身汗まみれで飛び起きるのだ。その都度彼はこうやって裏庭に出て、井戸の水で体を洗う。冷たい水は熱った体を冷まし、同時に夢のせいで混濁した意識を一気に現実へ引き戻してくれる。
あの夢は、ただの夢では無い。彼が三年前に経験した、実体験である。その病気も、命を狙われていることも、記憶がないことも全て事実で、実際に今の彼を苦しめている。体を洗うにも左手は使い物にならず、移動には痛みが伴う。体表に現れた魔石は、明るい月光に晒されて七色に煌めいていた。
「レタ……?」
彼が服を着て振り返った瞬間、屋内から控えめな声が掛かった。灯りがなく顔は見えないが、彼はその声だけでそれが誰かを理解した。
「オリーヴィアおばさん。ごめん、起こしちゃったかな」
「いいのよ、気にしないで」
柔らかい声音で返答があるが、気を遣っての事であることは明白だった。彼女が起きるには、まだ三時間ほど早い。レタ……黒髪の青年がたてた音で起きてしまったのだろう。ゆっくりと屋内から歩み出た彼女の髪は紫がかった銀髪で、レタの魔石と同程度に月光を弾き返す。そして茶色がかった黒い瞳は、レタを心配するあまり涙が浮かんでいた。
「またあの夢を見たのね……?」
静かな問いに、レタは無言で頷く。
「そう……」
応じるオリーヴィアの声も暗く沈む。
あの惨状からレタを救い出したのは、このオリーヴィアと夫のクリストフだった。三年前に家の裏手で大きな爆発が起き、何事かと見に行ったところ血だらけのレタが倒れていたのだ。彼の下の地面は一面魔石化しており、その外側にも大量の魔石が散らばっていた。夫婦はすぐさまレタを家に運んで介抱したが、ふと思い出して魔石を回収しにいくと、その時にはもう国の騎士団が到着しており、現場に立ち入ることはできなかった。その時、彼の周囲に死体や血痕はなかったという。レタはそれを聞いて疑問符を浮かべたが、少し考えてから恐ろしい事実に気づき、夫婦がその魔石を回収しなかったことを心から喜んだ。
魔法には基本的に八属性あり、適性を持った属性の魔法しか使えない。その中でレタは四つの適性を持っているが、特に適性所有者が数十億人に一人と言われる重力属性に適性を持っている。時折俯瞰視点が混ざるあの夢を元に考えると、最後に彼が使ったのは恐らくその重力属性の魔法。自分を中心に超重力空間を作り出したのだろう。そしてそれに巻き込まれた男たちはどうなったのか。推測するしか無いが、形も残らぬほどに圧縮され、そして最終的に魔力の高密度結晶体たる魔石になったのではないか。現在最も有名な説である、この世の全ては魔力からできているというものを当てはめれば、この仮説は決しておかしなものではない。彼自身使用できる魔法の規模はかなり大きく、同時に強力なため、火事場の馬鹿力でそのような現象を引き起こしてもなんら不思議では無い。
となると、現場に散乱していた魔石は多くが人体の破片ということになる。持っていていい気持ちがするわけもない。その点、夫婦が魔石を回収しなかったのは、巨万の富を築く機会を逸した後悔より、得体の知れない不吉な物品を抱え込む危険を逃れた安心をもたらす。夫婦がその時他人であったレタを心配した優しさが、そのような危険を回避させたのだとも言える。
「ここ最近見なくなってたからもう克服できたと思ってたんだけど、そうでもなかったみたい」
彼は小さく笑って肩を竦めて見せたが、オリーヴィアの目にはその様子が嫌に痛々しく映った。レタはオリーヴィアの表情が歪むのを見て彼女の感情を理解したが、そこで一緒に感傷的になるほど彼は暗くない。オリーヴィアに歩み寄って軽く抱擁する。
「僕は大丈夫だから。心配しないで」
強がりでもいい、この夫婦にこれ以上迷惑はかけたくない。それが彼の最も強く望むところだった。
「無理はしないでね」
しかし、オリーヴィアはその強がりを見抜いたように、小さく呟く。
「あなたはもう、レタ・シュトレーメルなんだから……」
その言葉にレタは同じように小さく返答し、数秒後に付け足す。
「……ありがとう」
シュトレーメル。それは夫婦が持つ姓だった。夫婦にとって彼は息子同然で、彼にとって夫婦は両親同然。誰がなんと言おうと、彼らはもう家族なのだ。
玻璃の手紙 えんねい @51navy
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