第11話 福田楓

 娘が死んで、妻はぼろぼろで、後悔する僕の前に時間を巻き戻せるという少女が現れた。……マンガのあらすじみたいだな。嘘みたいだ。でも、妙に頭ははっきりしている。僕はまだ、やり直せるかもしれないんだ。蒼と衣織さんとの愛おしい生活を取り戻したい。

 現実は理不尽だ。僕は熱いシャワーを浴びた後髭をそり、歯を磨きながらさっきの少女の言葉を思い出す。

 痴漢の冤罪ひとつで家族を失ってたまるか。蒼は想像もできないほど辛かっただろう。時間を戻してやり直すなんて、普通はできないんだ。蒼の傷はなかったことにはならないし、彼女はもう二度と美しいものを見ることもできない。

 --許せるだろうか?当事者でも何でもない、ただの外野が「犯罪者の娘」だというだけで彼女に死を選択させた。


 僕は蒼の通っていた高校へ車を走らせた。強い日差しに眩暈がする。君がいなくても世界は回る。お義母さんから何度も電話がかかってきている。この期に及んでまだ衣織さんからは連絡させないつもりなんだな。……僕は冷静だ。大丈夫だ。あの少女が時間を戻せるということに賭けてみようと思う。


「私、福田蒼の父ですが。蒼の担任の先生はいらっしゃいますか」

 「犯罪者」のアポなし訪問に職員室がざわついた。

「あ、蒼さんのお父様。私が担任の橋口と申します。本日は、あ、いや、面談室へご案内します」

 橋口と名乗る細身で若い男性は、かなり動揺しながら僕を面談室へ案内した。埃っぽい部屋。学校の椅子のなんて座りにくいことだろう。子供が何時間も座る椅子なのにこんなに硬くていいんだろうか。


「本日は、どうされましたか」

 病院の先生のような言葉がおかしくて、口角が緩みそうになってしまった。

「先生、単刀直入に申し上げます。蒼はいじめられていたんですか」

 橋口の前髪が汗で額に張り付いている。おどおどした態度のわりに体はがっしりしているな。日本史の担当教師だったと思うが、運動部の顧問でもやっているんだろうか。冷房の効きにくい真夏の学校で、保護者の親に問い詰められるなんて先生も可哀想だな。僕の頭の中はどうでもいいことが駆け巡っていた。

「蒼さんは、非常に優等生で、良くも悪くも目立つ子ではなかったのですが、あの……」

「あの事件以来悪目立ちしたんですね。娘はいじめられていたのか、事実のみで大丈夫です。教えてください」

「私は、その、いじめなどなかったと……」

「先生、聞き方を変えましょう。蒼に危害を加えた生徒はこの学校にいるんでしょうか。いじめなんて軽い言葉で済ませられるものではないですね。蒼はその生徒に殺されたも同然なのですから」

「こ、殺され……何をおっしゃって……」

「死んだんです。蒼は自ら命を絶ったんですよ」

 言葉にすると、もうどうしようもなく変えられない事実なのだと思い知る。自分で死ぬことよりも耐え難い地獄だったんだろう。橋口は茫然としている。

「蒼が、自殺……?」

 心底信じられないという顔をしている。生徒に片っ端から声をかけるわけにもいかないので担任を訪ねたが、本当に何も知らないのだろうか?

「そんなわけない……だってやっと……」

 『そんなわけない』『だってやっと』その発言にひどく違和感を覚えた。少し開いた窓から風が吹いた。むわっとした夏を運ぶような風。

 ーーお香の匂いがした。どこかで嗅いだことにある匂い。なぜだか嫌悪感を覚える。なんだろう、どこで……


「蒼はやっと俺と……やっと俺のものになったのに……なんで」

「なんだって?」

 これは、あの事件の日に嗅いだ匂いだ。

「ーーお前があの女の子に痴漢をしたのか?蒼に何かしたのか?」

「蒼と僕は愛し合っていた!!俺に何も言わずに自殺なんてするはずない!!蒼がなかなか気持ちを伝えてくれないから、俺がお膳立てしたんだ!!犯罪者の娘だといじめられている彼女を助けたヒーローなんだ!!」


 蒼のメールを思い出す。汚れてしまったと、彼女は言った。憶測でものを言ってはいけない。わかってはいるが、目の前のこのおどおどした男が……




 気づいたら、僕の視界は真っ赤に染まっていた。


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冬の海を燃やしたら 夢摘 @oishiichikyu

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