第10話 福田楓
僕の手には蒼のスマホがあった。
僕は一度シャワーを浴びるために、狭いアパートに帰ってきた。どうやって帰ってきたかは覚えていない。四畳半の狭いアパート。窓から差し込む日差しが痛い。ベランダに干している洗濯物が目に入る。ーー僕たちは当たり前に明日が来ると思って生きている。
頭は全く動かない。蒼の白い顔が目に焼きついて離れない。一年ぶりに会ったのにな。
衣織さんはスマホを渡してくれたが、勝手に中身を見ていいんだろうか。
「僕に送れなかったメッセージか……」
今は正直何を見ても辛いだろう。でも、例えそれが罵詈雑言だとしても、蒼の言葉が知りたい。勝手に見てごめんな。
意を決してスマホを開く。パスコードはかかっていない。
『楓さんと連絡を取りたいのに、おばあちゃんが邪魔してきて何もできません。転校してもいいと言ってくれたと、衣織さんから聞きました。あのSNS見ちゃったのかな?私は気にしてないよ。瑞穂先輩を盲信してる一部の人に少しちょっかいかけられてるだけだから。って、もっと早く話しておけばよかったなー。まさか話すこともできなくなるなんて思わなかったよ』
『おばあちゃんの家で食べるご飯はおいしくない。楓さんのことを悪く言うから、ご飯の味なんてわかんないよ。ずっと衣織さんのこと叱ってるし』
『衣織さんはだんだんやつれていってる気がする。ぼーっとすることが増えたし、このお家ではお花も飾れないんだ。衣織さんがせっかく綺麗な花を買ってきたのに、おばあちゃんが虫が来るからそんなもの飾るなって。しかもね、私がテレビで好きな番組見てるだけで、こんな低俗なものを見てたら低俗な子になるってニュースしか見せてくれないの。人の大切なものを大切にしろとは言わないけど、せめて否定はしてほしくない』
『楓さん、私ほんとうは学校行きたくないよ。上履きはないし、先輩から水かけられたりするし、お弁当が捨てられてたりする。それにね、誰も声かけてくれないんだよ。生徒が何人いるのか知らないけど、数百人いても誰も私に話しかけようとしない。学校って息苦しいよ。まるでみんなが見えない何かに行動を強いられてるみたい。私も逆の立場だったら正直どうかわからないけど……』
『衣織さんは学校に行かなくていいって言ってくれる。いじめられてるなんて言ってないけど、気づいてくれてるのかな?でもおばあちゃんは許してくれないんだよね。悪いことはしていないんだから逃げるなって。逃げるって言葉を使うのはちょっとずるいよね。いじめ、ってさ頑張ってどうにかなるものかな?大人数対私一人だよ?いじめって文面にすると、私いじめられてるのかって実感して悲しくなっちゃうな』
『楓さんに会いたいよ。お父さんの言葉はいつも私に何も強制しないし、寄り添ってくれて暖かいんだ。恥ずかしくて言ったことないけど。本当はずっと苦しいんだよ。悲しいし悔しいし、息もできない。強がりたいけど、足がすくむくらい怖いし、このまま一人で楓さんのところに逃げようかなって毎日何度も何度も考える。衣織さん置いていっちゃおうかなーって薄情なことも思うよ。衣織さんはピーチ姫みたいだね。ねぇ、逃げなかった経験ってこの先役に立つ?楓さんならなんて言うかな』
『楓さん、私死にたいよ。こんな親不孝なこと言ってごめんなさい。でももう苦しい。誰も私の地獄なんてわかってくれない。苦しい。どんどん水位が上がっていくの。息もできないの。ひどいこと、されてこの先前を向いて生きてなんていけない』
『楓さんと衣織さんみたいな夫婦に本当に憧れてたんだ。言ったことなかったけど、知ってたでしょ?私もいつか好きな人に好きになってもらって幸せな家庭を作りたかったんだ。でも、もう私には無理。楓さん、私もう汚い人間になっちゃった。犯罪者の娘っていう名目の元なら何をされても仕方ないの?乱暴されても、尊厳を奪われても、仕方ないの?苦しい。楓さんのことは最後まで信じてたよ。一瞬も疑わなかったし、この地獄を楓さんのせいだとも思ったことはない。だけど、こんな世界には絶望しちゃった。親不孝な娘でごめんなさい。衣織さん、ぼろぼろだから助けてあげて。本当にごめんなさい。福田家に産まれられてよかったよ。今までありがとう、ごめんなさい』
文字で見るよりずっとずっと、苦しんだだろう。ずっとずっと、傷つけられたんだろう。あぁ、僕が死ねばよかったんだ。蒼が傷つく理由はひとつもなかった。死ぬ理由も。僕が娘をこんな目に遭わせたんだ。蒼、本当にごめん……。
涙はとめどなく溢れる。後悔と懺悔の感情が止まらない。僕が、もっと早く気がつくことができていたら。あの時お義母さんから守れていたら。動画が拡散してすぐに何か対策をしていれば。そもそも痴漢に間違われなければ。こんなことにはならなかった。
あの時に戻りたい……!
「福田楓さん」
バッと顔を上げると、そこには見たことのない女の子が立っていた。いったいどこから……?
蒼と同じくらいの年齢だろうか。また涙が溢れる。
「私は来栖海です。……娘さんのご冥福を心よりお祈りします」
「君は、誰だ……何で蒼のことを」
声を荒げてしまった僕を見ていたのは感情のないビー玉のような瞳。その女の子の整った容姿に思わず息を呑む。まるで生気を感じない人間を前にしたのは初めてで、少し恐ろしくなる。まるで人形のようだった。
「私は、あなたの寿命と引き換えに一度だけ時間を戻すことができます。私にできるのはそれだけで、戻った世界が幸せかどうかはあなた次第です。同じ過去を繰り返すだけかもしれないし、より不幸になるかもしれない。どうしますか?」
「時間を……?本当にそんなことができるのか?」
「できます。あなたが望む日はわかっています。……事件が起こる前ですよね」
その女の子は、綺麗すぎる瞳で僕をしっかりと見つめている。
「君は、何者なんだ。蒼のことを何か知っているのか。どうして僕にそんな話を持ち掛けてくるんだ」
「福田楓さんは、神様や運命を信じますか?」
「な、なんだ急に……」
やはり怪しい宗教か何かなのだろうか。
「神様がいるなら、運命があるなら、こんな現実は理不尽だと思いませんか?私は、その理不尽を少しだけ乱数調整する力が与えられた。たまたまあなたを見つけ、たまたま力を貸そうと思っただけです。ただそれだけのことです」
「君はこんなふがいない僕に力を貸してくれるというんだね。……ありがとう。嬉しいよ。ただ、本当にあの時に戻ることができるのなら、その前にやっておきたいことがあるんだ。少しだけ待ってくれないか」
彼女は大丈夫です、とだけ言って僕の部屋を出て行った。当たり前のように、窓から。彼女はいったい何者なのか、時間を戻すなんて人外的なことが本当に可能なのか。思うことはたくさんある。……こんな現実は理不尽、か。
蒼はこの世界に絶望して自ら命を絶った。僕にまだできることがあるなら、君の笑顔を守らせてほしいんだ。これはただ、君たちが笑って生きているのをいちばん近くで見ていたいという僕のわがままだよ。
初夏の緑色の風がカーテンを揺らした。ー-失ったものを取り返そうか。
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