第9話 福田楓
そしてそのまま彼女たちは帰ってこなかった。
僕のところには離婚届と衣織さんの実家の顧問弁護士からの通達が郵送されてきた。要約すると、犯罪者は関わるなということだ。離婚届など無視して捨ててしまおうかと思ったが、弁護士がわざわざ僕の家にその忌々しい書類を受け取りに来た。
ご丁寧に彼女たちは電話番号もメールアドレスも変わっていた。メッセージアプリを見ても二人のトーク画面には相手がいません、とだけ表示されていた。
手紙も送ったが二人の手に渡っているかは怪しい。何度もお義母さんに電話をしたし家にも行ったが、一度も会わせてもらえなかった。
厳しい家だから、衣織さんも行動できないんだろう。蒼は大丈夫だろうか。結局僕は蒼に迷惑をかけた謝罪も、僕を傷つけないでいてくれた感謝も伝えられていない。当たり前だと思っていた日常は、いつの間にか僕の手をすり抜けてなくなってしまっていた。
僕はそのまま仕事をやめ、今の工事現場の社長に拾ってもらった。前の職場で懇意にしてくれていた社長だ。どこからか噂を聞いて飲みに誘ってくれた。現場の方に多い人情に熱いタイプで、ガテン系の見た目に似合わず涙もろい。
僕はこういう素直な人が好きだ。
「福田さんがそんなことするわけねぇだろ。汗臭い職場でよければ一緒に働いてくれよ」
信じるということは、尊く愚かな行為だ。しかし、僕には信じてくれる人がいる。忘れないで、と言ってくれた人がいる。ほとぼりが冷め、信じてもらえるようになるまでしっかり働いて衣織さんの実家に仕送りを続けようと決意した。
あなたたちが今日何を食べたのか。何を思って過ごしたのか。風邪なんて引いていないか。元気でいるのだろうか。もう何も知る権利がないということ。そんな孤独に負けそうになる日もあった。負けそうな日のほうが多かった。
でも、二人と連絡が取れるようになったときに、情けない男だと思われたくなかった。ただ格好つけた意地だけでなんとか孤独を倒し続けてきた。
そして、二人と離れて一年がたった。その日は突然やってきた。
プルルルッ
大きな着信音で目が覚める。衣織さんの実家から電話がかかってきた。
早朝。朝の5時。こんな時間に電話……?
期待と不安で手に汗がにじむ。呼吸をして、四コール目で電話に出た。
「楓さん。お久しぶりです。衣織の母です」
声のトーンが低い。これはいい知らせではないな。二人に何かあったのだろうか……。
「……蒼が、自殺しました」
どういう、ことだ……?
蒼が自殺?蒼が、死んだ?
僕は訳が分からないまま伝えられた病院へ車を走らせた。40分の距離が永遠に感じる、もどかしい。
何があった。どうして助けられなかった?僕はまた気づけなかったのか?もっと何かできることはあったんじゃないのか。無理にでも二人を連れだせばよかった、いや、僕なんかじゃ何もできなかったかもしれない。考えたって仕方がない。でも、考えないといけない。
手が震える。意識して力を込めていないとハンドルを放してしまいそうになる。
太陽はすっかり昇り、強い日差しが目を刺す。
蒼、蒼。どうして。蒼。君が生きていればそれでいい。他に何も望まない。蒼……。
「楓さん……!蒼が、蒼が!」
そこには瘦せこけた姿の衣織さんがいた。
「蒼は……!」
「お父様ですか?……非常に、残念ですが」
消毒の匂いが蔓延する部屋。無機質な部屋。
そこに蒼は寝ていた。
蒼は目を開けない。
もう楓さん、と呼んでくれない。
行ってきます、と学校に行くこともない。
雨の日に駅まで車で送って、と言うこともない。
雷の日に恥ずかしそうに僕たちの寝室に来ることもない。
パセリは苦手だと僕のお皿に乗せてくることもない。
彼女が好きなシリーズ物の小説を彼女はもう読めない。
気にしていた身長が伸びることもないし、成人式の振袖を着ることもない。
こげ茶の瞳は二度と美しい景色を見ることはないし、この小さな唇が動くこともない。
「蒼、目を開けて……蒼、お願いだから目を開けてくれ……」
僕の命が彼女のものになればいい。蒼の生きる理由になれなかった僕に価値などない。
自殺なんて、どうして、なんで。僕のせいなのか。
蒼の言葉も、もう手に入らないというのか。何があって、彼女は自ら死を選んだというのだろう。僕はどこで間違えてしまったんだろう。
何もわからないまま、ただ涙だけが頬を伝う。心臓を鷲掴みにされているようだ。苦しい、蒼はもっと苦しかった?死んだほうがマシだと思うくらい、苦しかった?
「お前のせいだ!お前が犯罪なんか犯すから、蒼は……!」
「お母さん、こんな時までやめて。蒼の前で怒鳴らないで」
病院で大声を出すお義母さんをなだめるのは、生気のない瞳をした衣織さんだった。瞼は腫れて、顔は真っ青で今にも倒れそうだ。
ふと病室の窓から空が見えた。清々しい青空。
ー-蒼が生まれた日もこんな空だった。爽やかな天気で、草木が生い茂っていた。自然の生命力を感じさせる夏の終わりだった。
「こんなに天気のいい夏の日に生まれたのだから、きっと元気に健やかに育つわ」
泣きわめく小さな生き物を、宝物のように抱いた僕の妻がそう言ったことをよく覚えている。一生守ると決めた。僕の何に変えても守りたいと思った。
何をしても、何をしなくても、何になっても、何にもならなくても、ただ生きていてくれればそれでいいと強く思っていた。ずっと思っていた。
「蒼は、あと三日で十七歳だった……」
涙が勝手にあふれる。呼吸を遮るように、ただただあふれる。
君は何を思っていたんだ。何を言わないと決めていたんだ。
「楓さん、これ」
衣織さんが僕にスマホを渡してきた。
「蒼のスマホ。お母さんのせいであなたに送れなかったメッセージがたくさん残ってる。……蒼を、守れなくてごめんなさい……っ」
「……衣織さん、僕こそ本当に申し訳ない。合わせる顔もない。全て僕が招いたことだ。ごめん、ごめんな……」
後悔しても、自分を責めても、蒼が戻ってこないことだけは確かだった。
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