偽物の世界で存在する意味を
零
第1話
私の目の前には、一つの白い扉がある。
何の変哲もない、シンプルな扉を、私はノックした。
「お入りください」
中から穏やかな女性の声がする。
私は仕事道具が入った大きなカバンを手に、そっとドアを開けた。
中には一人の年配の女性が静かにたたずんでいた。
彼女は私を見ると静かに一礼し、その視線を傍らのベッドに注いだ。
そこに横たわるのは、彼女の伴侶と見える男性。
私は一礼して、ベッドへ向かった。
私が男性の瞼に手を翳すと、彼は静かに目を開けた。
皴の刻まれた皮膚が、緩やかに笑みを作る。
私がそのとき、どんな顔をしていたかは、私には知る由もない。
けれど、私が返した表情によって、私たちはお互いの心を理解した。
すでに声を発せなくなっている唇が、奇妙な音を立てながらいくつかの言葉を紡ぐ。
私はそれを目で追い、解析し、頷く。
仕事道具の中からいくつかのパーツを取り出し、繋ぎ、彼に接続した。
共鳴を知らせる機械音がする。
全てが正常に働いている証拠だ。
数度、彼との間で意志のやり取りをし、私は静かにそのときを待った。
彼は終始穏やかで、唇を読む私に、ぽつぽつと昔語りをする。
深い眠りに落ちる前に、人がそうするように、目を閉じては開き、また、閉じる。
やがて、長い時を経て開かれた彼の瞳が光を失い、どこかで聞いたことのある音を一度高く発して、静かになった。
「眠られたようです」
私はいつも残された方に伝える言葉で、女性に私の仕事の終わりを告げた。
女性は黙って頷いた。
私は、彼の頭部をそっと持ち上げ、首の後ろから小さなチップを取り出した。
「あなたに、です。それが、彼の意志でした」
私は小さなロケット型ペンダントにそれを収め、彼女に渡した。
彼女はそれを黙って受け取り、首にかけた。
それは、彼が彼女と暮らした、その、記憶のすべて。
「いつか、」
女性が静かに言った。
「私の時も、眠らせに来てくださいますか」
彼女の言葉に、私は、はい、とだけ答えた。
だが、それは不可能かもしれないと思う。
もしかしたら、と、思うのだ。
最後を迎えた彼が発した機械音。
それと同じような音が、最近、自分の体からもしている。
身体を動かすことも、言葉を紡ぐことも、以前より多くのエネルギーを使うようになった。
彼女の最後を看取るよりも先に、自分を停止させてくれる誰かに、連絡する方が早いような気がした。
機能が停止した彼の体を引き取り、車を走らせる中、真っ赤な夕日が見えた。
そこに映し出される街並みは、かつて人間が暮らしていたころと何の変りもない。
一見、何も変わらない日常の中で、そこに存在しているほとんどが、人型の機械であることを、恐らくは我々は意識できないようになっている。
それを意識できるのは、おそらく、自分の機能が停止する、その直前だけなのだろう。
そうなのであれば、尚更。
私も、そして、彼女も。
この世界が、この姿を保ち続けていることに、何の意味があるのか、私たちは知らない。
かつて、私たちを作った種族は、すでに一人も残っていない。
それでも、ハリボテの世界を護りながら、私たちは何を待っているのだろうか。
その答えは、私がいずれ覚めない眠りについたあとにわかるのかもしれない。
偽物の世界で存在する意味を 零 @reimitsuki
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