それが愛ってもんだ

@etsurico

それが愛ってもんだ

「イェーイ! お姉さん飲んでるぅ?」

 それは突然のことだった。一人手持ち無沙汰でぼんやりしていた千鶴の隣に、光り輝く物体がぶつかるように座り込んできたのだ。

「は、なに」

 レーザー照明に照らされて何色にもぴかぴかと輝くプラチナシルバーのロングヘア。覆う面積が下着くらいしかない露出狂みたいな服。整った顔を更に際立たせる研究され尽くしたメイク。見るからに若さと美しさと人生を謳歌している「ザ・陽キャ」って感じの女。

 千鶴は目を点にしてその女を見返しながら「あぁ来なければよかった」と内心何度目かの溜息をついた。

 大学の後輩湊がノンケ男子に告白し玉砕した憂さ晴らしとして、連れて来られたLGBTQ+ナイト。あくまで付き添いとして参加しただけに過ぎない千鶴は、終始傍観者のつもりで極彩色溢れる会場に足を踏み入れた。しかし当の後輩本人は席に着くなり爽やかイケメンに誘われ、「ちょっと行ってきます」と一言残して速攻でどこかへ消えた。「いや、ちょっとまって」という千鶴の声は会場の爆音にかき消されて届かず、伸ばした手も無様に空を掴むだけで彼らを引き止めることはできなかった。

 初めてきたクラブで、初めて参加したLGBTQ+ナイトで、たった一人。「こうなったら仕方ない、とにかく飲もう」と半ばヤケになり一人グラスを傾けた。きっと変なやつに絡まれることもなく湊もすぐ戻ってくるはず、と高を括っていた所に、このパリピ妖怪の登場である。

 無視してしまおうかとも思ったが、純粋に同士だと思って話しかけてきているのかもしれない。LGBTQ+ナイトは相手を見つけるだけでなく、同士と知り合うために参加する人も多いのだと湊から聞いていた。チラリと彼女の腕についている性的指向を示すバンドを見ると、千鶴と同じバイのバンド──千鶴はストレートだが──が巻かれていた。「アライ」という「理解者、支援者」という意味のバンドもあったらしいのだが、千鶴はその言葉自体を知らなかったためとりあえずバイのバンドを身に着けていた。

「飲んでるよ」

 かろうじてそれだけ答えると、女は「見ればわかる〜!」とケラケラ笑った。

「ね、お姉さん一人で来たの? 私も一人! 一緒に飲もうよ!」

「いや、私は…」

「あのね、あたしはリサ、お姉さんは?」

「あ、え、私は千鶴」

「じゃあチヅね、よろしくぅ!」

 まっすぐで透き通るようにきれいなプラチナシルバーの髪が、いちいち大きい彼女の動きに合わせてシャラシャラと艶めき、陽の光が差し込む海中を眺めているようだった。原始時代に刷り込まれた狩猟の本能ゆえに男は揺れるものが好きだと聞くが、リサの髪に目が奪われるコレもそれと同じ原理なのだろうか。耳をつんざく爆音に目がチカチカする激しい照明、それに飲み慣れない度数の高いアルコールで千鶴はすっかり夢見心地になっていた。

 リサが奢ってくれるというので初めてのテキーラにも手を出した。テキーラは甘くて美味しかったので、リサと一緒にカパカパと何杯も飲んだ。とろりとした琥珀色の液体がするりと喉を滑り落ち、胃に達してカッと身体が熱くなる瞬間が面白かった。塩を舐めライムを啜り、気付けば目の前に空いたショットグラスがずらりと並んでいた。

 ──あえ? あらしったらいつの間にこんなに飲んやっけ? 

 ふわふわする頭で記憶を探るが、断片的な記憶が浮かんでくるだけでよく思い出せない。隣りにいるリサもだいぶ酔っているみたいで、露出している白い肌が赤く火照っている。女同士でも触りたくなってしまう危うい色気が漂っていて、思わず千鶴は視線を反らした。

 ──そうら、酔ったときはトイレに行かなひゃ!

 それはこれまでの短いお酒人生で学んだことの一つだった。トイレに行かないままお店を出て帰りの電車で漏らしそうになった苦い経験は誰にでもあることだろう。賢者はこういう時、先んじてトイレに行くものだ。千鶴はふらつきながら席を立つと、「どこいくのー」と聞いてくるリサに「トイレ」とだけ答えてよろよろ歩き出した。

 床がフワフワする。まるで綿菓子でできたクラブにいるみたい。照明がキラキラしてキレイだし、ずっと音楽も鳴ってて楽しー。あ、駄目だこれかなり酔ってるな。そう自覚したところでもう遅い。沈み始めたタイタニック号と廻り始めた酔いは、もはや人の力で止めることなんてできないのだ。

 ふらつきながら入った女子トイレは真っ赤な個室が三つあるド派手なデザインだった。一番奥には先客がいたので間を空けて一番手前の個室に入った。シャーッと凄い勢いで排泄が始まる。体内から水分が出ていくのはなぜこんなにも気持ちが良いのだろう。しかし同時に「これって夢じゃないよね」とお漏らししてないか不安になって、無意味に脚を抓ってみたりもした。酔っている時のトイレは常にお漏らししてないかの確認が必要なのだ。

 すっきりして個室を出ると、そこには先客だったであろう黒髪の美しい女性が鏡に向かって口紅を直している所だった。スラリと伸びた手足、小さな顔、大きな瞳、まるでお人形のようだ。真っ赤なルージュが彼女のツンと澄ました表情によく似合っていた。

 手を洗い千鶴も口紅を直そうかとバッグの中身を漁っていると、そのクールビューティちゃんが話しかけて来た。

「ねえ、貴女。リップつける?」

「あ、うん。私も直したくなって」

「ふーん、じゃあ、私がつけてあげる」

 そう言った彼女は突然千鶴を引き寄せた。一瞬の出来事だった。ぷちゅっと、唇と唇がぶつかる。柔らかく温かな肉がふにほにと唇を食み、最後に大きなリップ音を立てて離れた。

「はい、できた。似合ってるよ。ちょっとリップつけすぎたんだ、もらってくれてありがと」

「え、え、あ、どういたしまして」

 パチンとウィンクをしたクールビューティちゃんは黒髪をなびかせて颯爽とトイレを出ていった。後には彼女のシャンプーなのか、香水なのか、ピリッとしたスパイシーな香りだけが残った。

「あ、やっと戻ってきた! チヅ遅いー!」

「え……あぁ、ごめん」

 自分の隣をばんばん叩いて迎えるリサはぼんやりした千鶴の様子を訝しみ、全身にさっと目を走らせて目敏く唇に塗られたルージュを発見した。

「あれ、リップ変えた?」

「あ、いやこれは」

 リサはちょっと良く見せてと千鶴の顎を捕らえ正面からじっくりと覗き込む。明らかに唇からはみ出た紅。気まずそうに反らされる千鶴の視線。ピンときたリサは千鶴の耳元に口を寄せ「ねぇ、誰かとキスしたでしょ」と囁いた。千鶴の麻痺しきった脳幹が一瞬震えた。

 リサは紙ナプキンで千鶴の唇を拭うと自分の唇にリップを塗り、上書きするように千鶴に口付けた。

「はい、これでよしっと」

 ちゅぽっと音を立てて離れたリサの形のいい唇が、艷やかな三日月形に歪んでいた。驚くことが多すぎる狂乱の夜にまた一つ爆弾が投下されただけ。千鶴はもはや声も出なかった。

 その後も酒を飲み続けへべれけ状態となった二人は、気付いた時にはリサの家へと向かっていた。極端に狭まった視界で目の前の出来事を古い映画のようにぼんやりと千鶴は眺めていた。リサが鞄から鍵を取り出して、一度落とし、それを拾い上げてやっと扉を開けた。もつれるように中に入った二人は何がおかしいのか、くすくす笑いながら服を脱がせ合い、何度も唇を重ねた。

 ──あれ、なんで私、キスしてんだろ。

 頭の隅の方でそんな考えが微かに浮かぶが、目の前の快楽とリサの勢いに流されて深く考えるのはやめた。倒れ込んだベッドに沈み、手枷のようにまとわりつく掛け布団を掻き分けて互いを弄り合う。色々なところに触れ、舐め合い、口付けを落として、その内に二人の体は蕩け出し、混ざり合い、一つの塊になっていく。夜の帳の降りた部屋の中には、二人の密やかな吐息だけがいくつも響いていた。


「んぐぇっ! ……ってぇな」

 翌朝、千鶴は腹にずしんと強烈な一撃を受けて目が覚めた。

 はじめに千鶴を襲ったのは激しい混乱だった。自分がどこにいるのか、今日が何月何日なのか、なにも分からないまま、ぼんやりとやたらピンクや紫が目立つ室内を見回した。まるで悪夢の延長線上にいるみたいだ。しかしこれは現実だ。身体の感覚がはっきりしてくるに連れ、蘇ってくる昨夜の記憶に千鶴の頭の芯はどんどん冷えていった。

(ここ、あの女の子の家だ……!)

 ガバっと起き上がると、猛烈な頭痛が千鶴を襲った。

「っつぅー」

 はっきりリサのことを思い出したわけじゃなく、なんだかやけに仲良くなった女の子がいたなという感覚だけが千鶴の中に残っていた。あたりを見回すと散らかりまくっている服、枕元に散乱するティッシュ、一糸まとわぬ自分の体。そして極めつけは隣でまだ惰眠を貪り続けている裸のリサと、身体の色々な部分に残るじんじんと熱を持つ違和感。

 これは、やっちまっている──。

 千鶴は頭を抱えた。二十余年生きてきてこんな粗相をしでかしたのは初めてのことだった。しかも相手は女の子だ。

「ふあぁ、はよー起きんの早いね。とりまシャワーでも浴びよっか」

「お、はよ……」

 頭を抱えている千鶴の隣で、のんきに起き出したリサは特に動じることなく挨拶してきた。リサのそのあまりに自然な様子に、千鶴は「もしやずっと一緒に暮らしてたのにその記憶を私が失っただけか」と一瞬錯覚するほどだった。

 放心状態の千鶴はリサに勧められるがままシャワーを浴び、リサの貸してくれたほぼ紐みたいな下着と部屋着を身に着けてリサのいる部屋へと戻った。昨日の服はタバコの匂いや様々なものでぐちゃぐちゃになっていたので洗濯機を借りて洗った。

「いやー昨日楽しかったね。あんな飲んだの久々かも」

 リサが準備してくれた朝ごはんはレンチンご飯を半分ずつ、ウィンナーに卵焼き、レトルトの味噌汁と、意外にもちゃんとしていた。二人並んでぺたりと床に座りながら味噌汁をすする。「酒は人生という手術を耐えさせてくれる麻酔薬だ」と言ったのは、たしかバーナード•ショーだった。ううん、確かに。人生の今この瞬間を耐えるための麻酔薬が欲しい。

 リサは昨夜と変わらぬハイテンションで話しかけてくるが、未だにガンガンと痛む頭を抱えた千鶴はそれにほとんど返事をせず黙々と食事を続けた。しかしリサはそれでも一向に話し続けるのをやめない。さてはこいつ猫とかハムスターとか構い続けて病気にさせるタイプのやつだな。

「ね、ブレスレット貸したげる。これめちゃ大切なやつだから絶対返してね。次会うときまで貸しといてあげるから」

「ちょちょ、こんな高そうなやつ」

「いいから、いいから」

 いざ家を出るという段になってからリサは千鶴の手首にキラキラと輝く華奢なブレスレットを勝手にはめてきた。見るからに高そうなそれを千鶴は突き返そうとしたが、時間も迫ってきていたため結局はリサに押し切られ、そのまま大学へ行くことになった。

 普段アクセサリーなんてつけ慣れていない千鶴はどこかに引っ掛けて千切ってしまわないか不安だったが、意外にもそのブレスレットは千鶴の手首によく馴染んだ。しかし、ふとした瞬間に光を受けてキラリと輝き、自分の存在を示してくるところは、さすがリサの所有物といったところだった。

 昼休みに湊と落ち合うと「先輩昨日どこいったんですか!?」と開口一番身を乗り出してきた。 

「僕があの男とイチャイチャしてる間にいなくなっちゃうなんて、ひどいですよ!」

「はは、ごめんごめん」

 湊はあの男と楽しい時間を過ごし「二人で抜け出さないか」と誘われまでしたのだが、健気な後輩である彼は「先輩が待ってるから」と泣く泣く席に戻ってきたのだという。しかしそこに千鶴はおらず、連絡しても返事なし。さては同じように誰かとイチャついてるんだなほっとこ、と男の元へ戻りかけた所、そいつが即他の男に声をかけていて腹が立ち、結局一人で家路についたとのことだった。

「それで、先輩はどうしてたの?」

「あ、ああ……普通に帰ったよ」

「嘘だね、先輩のとこ終電早いから帰れないもん。その服昨日と一緒だし、それにその手首のやつ、なにそれ!?」

 こういうことになると湊は飢えたハイエナのように目敏い。誤魔化せないと観念した千鶴は渋々昨夜のあらましを掻い摘んで説明した。

「うそぉ、すごいじゃん。僕の相手探しに行ったのに先輩が先に見つけるとはね」

 にやにや笑う湊は千鶴の手首に視線を落とすと、さらにこう続けた。

「それにそのブレスレット……まったく逃がす気ないよねその人」

 千鶴は湊の言葉に背筋がゾッとした。手首に巻かれたブレスレットが途端に手錠のように思えてきたのだ。

 しかし、いざブレスレットを返すと連絡してみると、案外リサはすんなり受け取った。だが次の瞬間、「じゃあ飲みいこうー」と拍子抜けしている千鶴の手首を掴み、リサは歩き出した。なるほど、ブレスレットではなく自らの手で拘束するパワータイプだったということか。まんまと戦略にかかってしまった自分の愚かさを呪いつつ、千鶴はその日も楽しい時を過ごしベロベロになってリサの家に泊まり、同じ過ちを繰り返した。

 その後二人は頻繁に遊ぶようになり、気付けば千鶴は自分の家に帰るより大学に近いリサの家に入り浸るようになっていた。こうなってくるともはや半同棲状態に近い。

 二人はキスはもちろん、お互いを肉体的に愛し合うことが当たり前の関係になっていた。千鶴は今でも自分のことをストレートだと自認していたが、それがリサ相手では大きく揺らぐ。かわいいと思うし、大切にしてあげたい、笑わせたい、一緒に楽しく過ごしたい、とも思う。それが好きという感情なのだと言われればそうなのかもしれないが、その好きが他の友人に向けた好きとどう違うのか、千鶴はうまく説明ができなかった。

 そもそも女性とこうなるなんて考えたこともなかったから、将来どうなっていくのかうまく想像ができなかった。男となら結婚して子供を産んで、といわゆる世間で普通と言われている人生を歩むのだろうと思うが。

 女性同士で結婚したければパートナーシップ制度を利用したり、海外へ移住したりするのだろうか。子供は養子をもらうか、精子提供か。まさかニュースで聞くような単語が自分事として迫ってくるなんて思いもしなかった。考えれば考えるほどわからないことだらけで、結局千鶴は二人の関係について深く考えることなく刹那的な歓楽のみを享受するのだった。

 しかしある日、そんな二人の関係を大きく揺るがす事件が発生する。

「ねぇねぇお姉さんたちぃ」

「俺たちと遊ぼうよ」

 きっかけはよくあるナンパだった。しかしいつもと違ったのは、その日リサの機嫌がすこぶる悪かったということだ。

「うっせーな、うちらデートしてんだから邪魔すんな。男なんていらねぇんだよ!」

 リサが千鶴をぐいと引き寄せて男たちを睨みつけて威嚇する。しかし男たちはにやにやと下卑た笑いを崩さず、身を乗り出してきた。

「えーなにそれ今流行りの百合ってやつ?」

「いいじゃん、4Pしようよ。たまにはチンコ欲しくなるっしょ」

「うっせーな! ちんこなんてお呼びじゃねーんだよ! 帰ろチヅ」

「う、うん」

 正直ヒヤヒヤした。いかにも屈強そうな男二人。機嫌を損ねて腕力で押さえつけられたりしたら、自分たちではどうしようもなかっただろう。女二人では、こういうとき脆く弱い。

 リサの機嫌は家に帰ってからも、なかなか直らなかった。

「リサどしたん、そんなナンパされたのやだった?」

 努めて明るく笑いながら千鶴が問いかけると、リサはキッと千鶴を睨みつけ今にも泣き出してしまいそうな顔で口を開いた。

「だって、声かけられる度、チヅ取られちゃいそうで不安なんだもん。ホントはチヅ、ストレートなんでしょ。女の子と付き合ってるのなんて若い頃の経験の一つでしかなくて、いつかは適当な男見つけて結婚して子供産んで、当たり前の人生に戻っていくんだ……あたし、そんなのやだよ、チヅを男なんかに取られたくない!」

 瞬間的にカッと怒りが湧いた。心の奥底にいつもわだかまっていた懊悩を見透かされていたのだ。リサと正面から向き合えていない自分、リサを心から愛してると言えない自分。そんな自分の卑怯な部分を白日のもとに無理やり引きずり出された気がして、千鶴は自分でも意外なほどに激高した。

 本当は慰めた方がいいとわかりながらも、千鶴の苛烈な怒りが後戻り出来ないくらい徹底的に傷つけてやりたいという破滅的な衝動を産んだ。

「……そうだね、うちらまだ若いし。ストレートの私はいつか子供産みたくなるのが普通かもね。そしたらやっぱ女の子相手じゃ無理だし、男探すしかないよね」

 リサの目が見開かれ、顔から色が無くなっていく。酷いことをしてる。心臓がバクバクする。それでも千鶴は残酷な気持ちを抑えられずに、絶対に言ってはいけない禁断の台詞を口にしてしまった。

「それにやっぱ、ちんこ入れたくなる時、あるし」

 言った後で激しい後悔が襲ってきたが、もはや後の祭りだった。その言葉に強く反応したリサは弾けるように泣き出し、縋りついてきた。

「なんでそんなこというの! 千鶴にはリサだけで十分でしょ! あんなにいっつも喘いでたじゃん! ちんこなんていらないよ、リサがいくらでも気持ち良くしてあげる! あたしたちにはちんこなんか必要ない! 二人でいれば、それで最高じゃん!」

 千鶴の良心からはどくどくと血が吹き出していたが、もはやあとには引けなかった。DV男よろしく縋り付くリサを突き放し「ちんこちんこうっせー!」と怒鳴りつけて家を出た。

 自宅の布団に包まりながら千鶴はその夜、後悔と罪悪感に苛まれて眠れなかった。しかし同時に能天気な犬のように懐きまくっていたリサが心の底では信じ切ってくれていなかったことに傷ついてもいた。

 でもそんなのはお互い様じゃないか。自分だってリサを心の底から愛せていなかったはずだ。今ここにある幸せではなく、将来の不安にばかり目を向けて、挙げ句図星を突かれたからリサを傷つけた。

 やっぱり、明日謝ろう。

 目の端から涙を零し、そう決意した千鶴はやっと眠りに落ちたのだった。

 しかし、その翌日からリサは失踪した。電話は繋がらず、ラインは何度送っても未読状態。リサの家へいくと、スーツケースもコスメボックスも無くなってたが、紐みたいな極彩色のパンツやお気に入りの服たちの大部分は残されていたので、本格的に失踪したわけではないようだった。

 千鶴は裏切られたような惨めな気持ちになった。なぜ何も言わずにいなくなる。すぐに仲直りしなければもっと仲がこじれるだけだ。なんでそれがわからない。

 勝手にしろとやけっぱちな気分になった千鶴はもう放っておくことにした。リサがどうなろうと関係ない。ああ清清した!

 しかし、時間の経過とともに苛立ちは零れ落ちる砂時計みたいに降り積もっていった。

 一週間が経ち、二週間が経ち、口に出すのも憚られるような狂乱の日々を過ごした千鶴の心は今、逆に凪いでいた。

 ──そうだ、縁切ろう。

 突然そんな思いが浮かんた。そうだ、それがいい。千鶴は深く考えることを避けたままリサの家へ向かい、置いてある私物を手当たり次第鞄に詰め込んだ。元々きちんと付き合うともなんとも言わずに始まった関係だ。向こうが勝手にいなくなるなら、こっちだっていなくなっても責められる筋合いはない。今住んでる家も引っ越しして、リサとは全く関わりのないところへ行ってしまおう。それでもう全部おしまいにする。こんな関係、最初からなかったも同然だ。女同士で、結婚もできない。赤ちゃんもつくれない。続けてどうする。泣く必要なんかない。泣くな、泣くな。

 それでも千鶴は溢れてくる涙を止めることはできなかった。

 最後に千鶴はリサの紐みたいなパンツが詰まった引き出しの中身を部屋中にぶちまけた。まるで極彩色の鳥の羽がいくつも舞い踊ってるみたいで綺麗だった。

 外に出て鍵を締め、合鍵を玄関ドアに叩きつけてやろうと振り上げた。その拍子に視界の隅でリサにつけられたキーホルダーが揺れた。

『オソロっちだよ、失くさないでね』

 これをくれたあの日のリサの声が、笑顔が浮かぶ。

 投げつけたいけど、投げられない。投げてしまえば全てが終わるんだ。

 その姿勢のまま固まっていた千鶴の脇腹に、突然ドカンとロケット弾のような塊がぶつかった。鍵を握ったまま千鶴は床の上に倒れ込んだ。

「うぐっ! いてぇ、なに……」

「何してんだよチヅ!」

「は?」

 リサの声だった。衝撃で閉じた瞳を開けると、まず光に透けて輝くプラチナシルバーの髪が目に入った。すだれのように千鶴の顔に降り掛かるその髪の根本へ視線を移すと、リサの泣き顔に行き着いた。怒りで正気を失った幼稚園児みたいな顔で睨みつけ、ぼろぼろと大粒の涙で千鶴の頬を熱く濡らした。

「どこ行こうとしてたの!」

 リサのでかい声で我に返った。

「……うるさいっ、アンタこそどこ行ってたんだよ!」

「タイだよ!」

「たい!? はっ? ……タイ?」

 タイ? 鯛? 胎? タイ?

 千鶴は一瞬耳を疑ったが、リサから漂う強烈なお香の匂いに、こいつは本当に海外のタイへ行ってきたのだと悟った。でもなぜ、どうして突然タイへ。破天荒女の突拍子もない行動には大分慣れたと思っていたが、今度ばかりは驚愕せずにはいられなかった。

「ずっと行ってたの、タイに? 何しに? なんで、いつから? だれと?」

 頭に浮かぶ疑問が全て勝手に口から零れ落ちていく。しかし眼の前のリサはぼろぼろ泣き続けたまま、質問に答えることなく大きく一言「ごめん!」と叫んだ。

「あだじ、チンコつけられながっだ! ごめん、ホントごめん!」

「はっ!?」

 泣きじゃくりながらリサが説明した内容を要約するとこうだった。

 千鶴がちんこ恋しいと言うなら、自分につけてやる。おっぱいも取ってムキムキになって、千鶴を魅了する美男子になって帰ってくるんだ。そう思ってタイへ飛んだ。病院の予約までした。それなのにいざ病院の前に立つと足がすくんで動けなかった。どうしても、動けなかった。

「あだじぃ、自分の身体が好ぎぃ! おっぱいも、お腹も、二の腕も、お尻も、全部柔らかくって、可愛くって、好きなのぉ! 捨てられなかった、千鶴のために捨てられながっだぁ!」

 ごんごんと胸元に頭を打ち付けてくる半狂乱のリサに、千鶴はしばらく何も言えなかった。しかしリサの言う事を脳がやっと咀嚼し理解できた瞬間、すとんと、本当に突然すべてが愛おしく思えた。世界の色が塗り替えられたみたいに、急激な変化だった。

「……馬鹿だね、あんたは。ホント馬鹿」

 ぐっと力任せに抱き締めて、涙が零れないよう熱くなる目頭に力を入れた。

「いいの……リサにチンコなくても、チヅはいいの?」

「良いよ別に。私だってアンタのおっぱいもたぷたぷお腹も二の腕も、全部大好きだもん。逆になくなったら困っちゃう。ちんこなんていらない、リサがいれば十分だよ。あと、私の方こそごめん、酷いこと言った」

「うっうっ、チヅぅ」 

 アパートの汚い床にうずくまったまま、二人は二週間ぶりのキスをした。熱くて、湿っていて、愛に溢れてる、そんなキスだった。

 その時、カチャ……と控えめなドアの開閉音が背後から聞こえ、二人はやっとそこが公共スペースだったことを思い出した。やばっと焦って視線を音の発信源に向けると、開いたドアの向こうからこちらを覗く隣の住人の姿があった。会えば挨拶するくらいの間柄で、大してよく知りもしない男子大学生だ。うるさかったかと千鶴が謝ろうとすると、それに先んじてその男は口を開いた。

「あ、あの、チンコなら、ここにありますけど」

 ドアの向こうから膨らんだ股間を見せてきたそいつに千鶴はうげっと一瞬怯んだが、リサはすぐさま自分の厚底サンダルを脱いで「お呼びじゃねーんだよ!」と投げ付けた。

「ひぃっ……!」

 怯んだ大学生が慌てて家の中に引っ込むと、リサと千鶴は顔を見合わせて笑い、ふたたび唇を重ねた。

 何もなくてもいい。進んだ先に、結婚も子供も、何もなくても。リサとならいい。二人一緒なら、それでいい。

 それが、愛ってもんだ。

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