転生者【武田正之(保科正之)】

マキシム

第1話

押忍!俺は武田肥後守正之(史実では保科正之)、徳川秀忠の隠し子で徳川家光&忠長の異母弟だ!まあ簡単な話、俺は転生者だ!しかも徳川秀忠の息子だ!忠長と違って人生勝ち組だぜ!


「徳川のため、日ノ本のため、武田肥後守正之、上様のために尽くします!」


「お、おお、頼んだぞ、肥後守。」


俺は色々とやったぜ。幕政に燗しては鎖国令(100年後に解禁という期限付き)、末期養子の禁、大名証人制度の廃止、先君への殉死の禁止、上下水道の整備、過料(罰金)の制定、農民は年貢米・商人は税を徴収、目安箱の設置、町火消の整備、小石川養生所の設置、肉食妻帯令(許可制)、蝦夷地(北海道・樺太・千島列島・カムチャッカ半島等)開拓及び国有化、牧場の整備、松前氏の国替え、屯田兵(諸国に溢れる牢人たちを雇い蝦夷地開拓をさせる)の導入、海外への金銀流出の防止、殖産興業、蘭学(西洋の技術と学問等)の導入、禁教令の継続、生類愛護令(牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人や高齢者の保護)等を推進したぜ。これだけやっておけば幕末への対策はバッチリだと信じたいぜ!


藩政でも質素倹約、新田開発、治水工事、産業の育成や新興、社倉の設置、藩校の創設、久保田湊(後の秋田港)の整備、残酷な極刑を廃止等を定めた。史実とは違い朱子学を藩学にはしなかった。神道は継続しつつ代わりに陽明学や蘭学を藩学とした。俺自身、朱子学はあまり好きではない事や開国や近代化の妨げとなるため導入しなかった。一応、徳川幕府は朱子学は残しつつ他学問も共に奨励した。因みに俺の領地は福島県の会津ではなく秋田県の久保田(秋田市)である。史実とは違い佐竹氏がいたのだが蝦夷地開拓のため国替えとなり入れ替わる形で俺が入る事になり会津松平家(23万石)ならぬ久保田松平家(23万石→28万石「後に5万石加増」)となった。会津は幕府の直轄地として管理している、因みに会津藩が賊軍となる例の家訓は作らなかった。家訓のせいで子孫たちが迷惑をかけるのは御免だからな


まあ俺の政治家としての実績はここまでとして私生活だが、まあ色々とあったよ、史実の通り、俺は徳川秀忠の隠し子として陰日向で生活する事となった。俺の母であるお静は俺に何度も謝罪し、親父を怨んではいけないと教えられた


「お静、幸松、会いたかったぞ。」


「父上!」


「上様、わざわざのお越しありがとう存じます。」


「そなたらも息災で何よりだ。」


お忍びで親父が会いに来てくれて俺の事も大切にしてくれたよ。親父の正妻であるお江の方には会った事はないが親父が母を側室に迎えず、お忍びで来るという事はやはりお江の方は嫉妬深いんだなと思った。俺と母は比丘尼屋敷にて俺と母を保護してくれた見性院様は本当にいい人だ。見性院様は武田信玄の娘であり現在は徳川家の庇護下にある。彼女自身、武田家の再興を夢見て俺を我が子のように育ててくれた事に本当に感謝してるよ


「幸松、そなたは武田家の子じゃ。この見性院が命を懸けて守ろうぞ。」


「ありがとうございます、見性院様。必ずや武田家の再興を果たして見せまする!」


「幸松は本当に良い子じゃ。」


だがそんな日々も長くは続かなかった。親父の正妻であるお江の方が刺客を送って来たんだ。家臣たちが未然に防いだ事で俺は命拾いしたがいつまでも見性院様に迷惑をかけるわけにはいかず、信濃高遠の保科正光の下へ預けられる事となった。親父の側近である土井大炊守利勝と井上主計頭正就が俺と母の下を密かに尋ね、信濃高遠へ避難するよう伝えてくれた


「上様は信濃高遠藩主、保科肥後守(正光)殿に幸松君の御身柄をお預けと相成りました。」


「御成人の暁には我等が後見仕りますのでしばらくの御辛抱を願い奉りまする。」


「上様の格別なる御配慮忝のうございます。」


「幸松は信濃高遠にて静かに暮らす事を上様に御伝えいただきとうお願い申し上げます。」


「しかと承りました。」


「お静殿、良き若君に御成長されましたな。」


「全ては見性院様の御薫陶によるものにございます。」


その後、俺と母は密かに江戸を脱出し信濃高遠へ行くこととなった。お江の方の刺客の襲撃を防ぐために駕籠は質素で警備も最小限、更に目眩まし用の駕籠も用意し万全な備えで信濃高遠へ向かった。一方、江戸では重苦しい雰囲気の中、秀忠とお江の遣り取りが始まった


「上様、比丘尼屋敷にいる若君を如何なされるので?」


「若君、何の事だ?」


「お惚けめさるな、江は全て存じております。」


「何も知らぬ。」


「まあ、いいでしょう。上様の子はこの江の産んだ子のみ、くれぐれも世を乱すような事はなさいませぬようお願い申します。」


「う、うむ(すまん、幸松。)」


俺と母は長旅の末、信濃高遠に到着し保科肥後守正光に温かく迎えられた


「よう参られました。某は保科肥後守正光と申します。以後、お見知りおきのほどを。」


俺と母は養父、保科正光の下で平穏無事に過ごしつつ親父からは5千石の養育料を貰いながら時が来るまで待ち続けた。正光には保科正貞という腹違いの弟がいたんだが俺を養子にしたため廃嫡、保科家中から逐電、諸国を放浪した後、母方の叔父である松平貞勝(伊勢桑名藩主)の下に身を寄せているのだとか・・・・


「幸松君、残念が知らせがござる。見性院様が亡くなられ申した。」


「け、見性院様が!」


俺と母を守ってくれた見性院様が1622年6月17日(元和8年5月9日)に江戸城田安門内の比丘尼屋敷において病没したという。見性院様は武田家の再興を夢見ていたが結局はそれも叶わず亡くなってしまった。俺は江戸のある方角に向けて手を合わせ見性院様の冥福を祈った


「見性院様、この幸松、必ずや武田家再興を果たしてご覧にみせます。」


俺は再び養父、保科正光を尋ね俺の存念を伝えた


「養父上は私と母を匿うだけではなく本来の跡継ぎを廃して私を跡継ぎにしてくれた事、身に染みておりまする。その御方を裏切るような真似をするのは誠に畏れ多き事、されど亡き見性院様との約束、武田家の再興だけはどうしても叶えとうございます。どうかこの幸松に御力を御貸し下さい!」


俺は養父である保科正光に頭を下げたよ。恩知らずな事をしたと分かってはいる。それでもこれだけは叶えたかった。どれほど時間が経ったか分からないほど沈黙が続いたが、正光はようやく口を開いた


「幸松君、どうかお手をお上げくだされ。見性院様は常々、武田家の御再興を夢見ておられた事、この正光、承知してございます。」


「養父上。」


「某に遠慮は御無用。この正光、喜んで武田家の御再興に御力を御貸し致しましょう。」


「養父上・・・・忝のうございます!」


俺はその間、後継者として実績作りに注視した。前世の記憶を頼り殖産興業、新田開発、治水工事等を行った。信州そばを奨励、油(菜種油・胡麻油、椿油)を使った山菜の天ぷら、たまり醤油を使った麺汁を作り養父だけではなく家臣領民に振る舞った結果、大変好評で高遠の名物となったのである。それから数年の時が流れ、寛永3年(1626年)に駿河大納言こと徳川忠長から御召しを受け、駿府城にて異母兄と対面した


「そなたが幸松か。余は徳川大納言忠長じゃ、面を上げよ。」


「麗しき御尊顔を拝し恐悦至極にございます。」


「堅苦しい挨拶はなしだ。まさか余に弟がいるとは思わなかったぞ。全く父上も罪な事をなさる。」


「私は大御所様を御恨み申した事は一度たりともございません。大御所様の格別な御計らいにて信濃高遠にて母と共に平穏に過ごしておりまする。」


「それなら良いが・・・・そうだ。そなたにこれをやろう、東証大権現様の形見じゃ。」


「お、畏れながら頂戴するわけにはいきませぬ!某は保科家の養子にございます!」


「遠慮するな、そなたは腹違いではあるが余の弟だ。いずれ父上に御対面の際は余が陰ながら尽力致す。そなたには松平姓を名乗る事もお願いしよう。」


「お気遣いいただき忝のうございます。」


「うむ、楽しみに待っているが良い。」


俺は異母兄との対面を果たし信濃高遠へ帰還した。史実を知る俺からしたら複雑な気持ちである。徳川忠長は親父の勘気に触れて領地を没収される。通説では不仲とされていた兄、徳川家光はむしろ忠長を庇い、何度もチャンスを与えている等、不思議な感覚がした。寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸でお江の方が死去した。ようやく俺と母の障害となる女が亡くなった事に不謹慎ながらも安堵した


「お江さん、この先を見なくて幸いだったな。」


それから3年が経ち、養父の正光と共に寛永6年(1629年)6月に俺は3代将軍である異母兄、徳川家光と対面した


「上様の御尊顔を拝し、恐悦の極みにございます。」


「うむ。」


「保科正光が子、幸松にございます。上様に御目にかかり光栄の至りにございます。」


「そちが幸松か。」


「ははっ!」


「・・・・大儀である、下がって良い。」


「「ははっ!」」


正光と幸松を下がらせた後、土井利勝を呼び、幸松の事を尋ねた


「幸松は余の腹違いの弟か?」


「御意にございます。」


「忠長と違って利口だな。」


徳川家光が幸松という異母弟の存在を知ったのは、鷹狩りの際に家光がお忍びで5人ほどの供を連れ、目黒の成就院という寺で休憩した時、家光が住職に「こんな片田舎の寺の客殿に立派な絵を描かれているが、誰の援助か?」と尋ねると住職は「保科肥後守の御母堂様の御援助」だと答えた。相手が将軍家光とは知らない住職は更に「保科肥後守殿は今の将軍家の正しき御弟君だというのに僅かな領地しかもらえず、貧しい暮らしをしているそうで、御労しい。我等のような賤しき者も兄弟は仲良くするのが人の習いであると知っている。身分の高い人というのは随分と情けがないものだ」と話した。こうして思わぬ形で事情を知らされた家光は父を尋ね、幸松の事を知った。念のために隠密を遣わし調べたところ、謹厳実直にして温厚な人柄であり、家臣・領民にも慕われていると聞き、家光は興味を抱いたのである


「幸松君は家臣・領民にも慕われておると聞き及んでおりまする。亡き見性院様との約定、武田家の御再興を夢見て保科肥後守殿と共に密かに動いているとの由にございます。」


「武田家の再興か。保科肥後守も手を貸すあたり、意外と義理堅いところもあるのだな。」


「御意。」


「うむ。それにしても父上も酷な事をする、だがそれ以上に酷なのは母上だな。幸松に刺客まで送っていたとはな哀れなものじゃ。だが、その母上も病で亡くなられた。これであやつの障害となる者はおらぬ。」


「いずれ大御所様との御対面も間近かと存じます。」


「それはさておき問題は忠長じゃ、あやつ密かに幸松と対面していたそうではないか。しかも父上との御対面の際には自ら後見人となろうとする始末だ。」


「・・・・御意。」


「あやつは身の程を弁えぬ、勝手気ままな振る舞いをして父上の怒りを買うばかりではないか。」


一方、保科正光と幸松は屋敷に戻り休息を取っていた


「はあ~。」 


「幸松君、如何にございましたか。」


「いやあ、緊張致しました。忠長公とは違い、重苦しゅうございました。」


「上様との御対面も叶った以上、大御所様との御対面もいずれ叶いまする。」


「養父上、上様は某が弟である事にお気付きであったのでしょうか?」


「勿論、上様にも内々に伝えております。」


「左様にございますか(随分とよそよそしかったな。)」


寛永8年(1631年)10月7日、俺の養父で最大の庇護者であった保科正光が亡くなった。俺は臨終の際に「家督を幸松君に譲る事、それと武田姓を名乗る事、幕府より御許しを得た」と遺言を残してくれた。俺は涙に暮れたよ・・・・


「養父上、長い間、お世話になりました、この御恩は生涯忘れません!」


養父は安らかに微笑みながらこの世を去ったよ。寛永8年(1631年)の11月、幕府より「月のかわらぬうちに出府せよ」と命令が下り、俺は重臣5名と出府し、土井大炊頭利勝や井上主計頭正就同席の上、「幸松儀、肥後守信州高遠藩3万石相続仰せつけられる」と上意が下った。その後、俺は親父と密かに対面を果たした。勿論、異母兄である徳川家光も同席である


「大御所様、上様、此度は家督継承及び武田姓を名乗る事を御許しいただき恐悦至極に存じ奉りまする!」


「・・・・幸松。」


「ははっ!」


そこへ家光が話し掛けた。初対面のよそよそしさとは別に優しさがあった


「そなたの母上は達者にしておるか?」


「はい、高遠にて健やかに暮らしておりまする。」


「そなたは将軍の子に生まれながらも我が母の目もあり信濃高遠にて、ひたすら隠忍自重な日々を過ごしてきた。大御所も母の手前もあり親子の対面をお控えなされた。もし余がそなたであれば父上に怨み辛みを申していたかもしれん。」


「あのな、家光。父の前でそれを言うか。」


「これは御無礼を。」


家光は俺に同情し、家光も俺と同じ立場にいれば親父に恨んだといい放ち、親父から窘められた。親父は俺に目線を向け、これまでの事を謝罪した


「幸松、今まですまなかった。お江の手前もあってそなたとの対面も長くなってしもうた。」


「大御所様、幸松は全て存じております。どうか御自分をお責めにならないでください。」


「・・・・幸松。」


「父上、幸松の進退はこの家光が預からせて頂きます。ゆくゆくはひとかどの大名として取り立てまする。」


「そうか・・・・頼んだぞ家光。」


「ははっ!」


「有り難き幸せに存じまする!」


「幸松、今日よりそなたは武田肥後守正之と名乗るが良い。」


「ははっ!慎んで承りまする!」


こうして俺は保科肥後頭正之ならぬ、武田肥後頭正之として歴史の表舞台に出たのである。俺は土井大炊頭利勝と井上主計頭正就に会い、御対面の際に後見した事の御礼を述べた


「此度は大御所ならぬ上様との御対面、並びに武田姓及び家督相続に御尽力いただいた御恩、決して忘れません。」


「武田肥後守様、どうかお手をお上げくだされ。」


「我等も骨を折った甲斐がございました。」


「ははっ!畏れ入ります。」


「肥後守様、伏してお頼みしたき事がござる。」


「何でございましょうか、大炊頭殿。」


「大納言様の事、くれぐれも庇い立てご御無用に、また大納言様からの使者が来てもくれぐれも御会いになられぬよう伏して願い奉りまする。」


大納言様とは徳川忠長の事である。分かってはいたが、やはり歴史は変えられないのかとしみじみと思った


「承知仕りました。」


利勝の予知した通り、俺の下に徳川忠長から幾度となく書状や使者がやってきたが家臣たちが上手く対応し退けた。忠長がお江の方が亡くなったのを機に乱行を繰り返すようになり幕府の耳にも届いたのである。当然の事ながら親父は激怒し【忠長を勘当致す】といい放ち、異母兄の家光が【まぁまぁ】と親父を宥めたが結局は領地没収され蟄居となった


「こればかりは仕方がないな。」


寛永8年(1631年)頃に親父が病に倒れた。俺の下にも江戸へ参内するよう命が下り、親父と対面した。親父は病によって酷く痩せ細っており苦しそうにしていた


「大御所様、大事ございませぬか?」


「ははは、この様じゃ。そう永くはない。」


「そんな弱気な・・・・」


「自分の体は自分がよく分かっておる。」


「大御所様。」


「肥後、ちこう。」


「ははっ!」


俺は親父の側に近付くと俺の手を握った。親父の手は皺まみれで腕も痩せ細っていたが握る力は強かった


「肥後、そなただけは家光を支えよ。くれぐれも忠長の二の舞をしてはならぬ。」


「しかと承りました。」


「頼んだぞ・・・・ゴホッ!ゴホッ!ウホッ!」


「大御所様、誰か医者を!」


寛永9年(1632年)1月24日に親父は亡くなった。臨終間近に忠長が見舞いに行きたいと願いが出たが結局は叶わなかった。その後、忠長は蟄居先の高崎にて自害したという


「大納言様、俺はあんたの事、嫌いじゃなかったぜ。」


それからの俺は信州高遠→出羽山形と着実に出世していった。俺が山形へ転封となった際、領民たちが俺を慕って一緒に着いてきたのは予想外ではあったが・・・・


「私を会津へ?」


「そうだ、そなたに任せようと思う。」


「有り難き仰せにございますが、会津は天領にすべきかと存じます。」


「何故だ?」


「はい、いずれ上様にお世継ぎ様以外の若君が生まれた場合、会津を若君の領地としてみては如何でしょう。」


「うむ。」


「会津は奥州の要にございますれば上様のお子が相応しゅうございます。」


「相分かった、そなたのいう通りにしよう。」


「畏れ入り奉りまする(さらば会津松平家。)」


「さてそうなると、そなたには別の場所へ移ってもらう。」


「していずれに?」


「出羽の久保田だ。」


「久保田、あそこは佐竹氏が治めていたのでは?」


「佐竹は蝦夷地の開拓に回す事にした。それに佐竹の治めていた久保田では優れた手腕を発揮していると聞いたからな。その実績も兼ねて蝦夷地へ転封する。よってそなたが代わって久保田を治めよ。」


「ははっ!畏まりました(ドンマイ、佐竹。)」


俺がこれから行く久保田は未来の秋田県秋田市である。秋田県は米どころとして有名であり、秋田港はまだこの時代にはない。商業港として一から作るのも悪くないな


「さぁ、やるぞ!」


後に久保田松平家の歴史書では初代藩主である武田正之公は善政を敷き年貢の軽減、治水工事、新田開発、久保田湊の整備等、優れた民政手腕を発揮し久保田松平家の礎を築き幕末まで繁栄を極めたと記されている


「上様が!」


俺の下に家光危篤の知らせが入った。世継ぎである徳川家綱はまだ10歳であり俺はすぐに江戸へ向かった。江戸に到着しすぐに登城すると床についている家光の側には【知恵伊豆】の異名を取る松平伊豆守信綱と大老である酒井讃岐守忠勝、阿部豊後守忠秋等がいた。家光は俺を枕元へ呼び、「肥後、家綱の後見を頼む」と言い残した


「必ずや。」


慶安4年(1651年)に異母兄である徳川家光が死去した。その後の俺は粉骨砕身の思いで働いた。慶安の変(由井正雪の乱)、明暦の大火等を幕閣と協力し合いながら解決した。寛文9年(1669年)4月27日、嫡男の正経に家督を譲り、俺は隠居した


「肥後、松平姓の名乗る事を許す。」


「有り難き仰せにございますが、拙者は武田姓を死ぬまで貫くと決めております。松平姓は嫡男の正経にお与えくだされ。」


「相変わらずでございますな、叔父上。」


「こればかりは上様といえども譲れませぬな、ははは。」


寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去、享年63(満61歳没)。武田正之が成し遂げた業績は江戸幕府が無くなった後の日本の発展に繋がり、後の北海道・樺太・千島列島・ カムチャッカ地方・マガダン州・チュクチ自治管区・サハ地区等へと日本の領土を広げ、現代まで変わらずに続いている


「我ながら良き人生だったわ、ハハハハハハ!」

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転生者【武田正之(保科正之)】 マキシム @maxim2020

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