第3話


 満席だったベンチだが、後ろの方に2人が座れるスペースがあったので並んで腰かけた。イルカとの距離はかなりあるが、絶対に水が掛からない保証があったので良しとした。ちなみにこの日の日中の最高気温は12度。人が多いので熱気もあるが、それ以上にイルカのプールから冷気が出ており、体感温度は低くなっている。絵里が両手をさすると、如月から何かを差し出された。


「これどうぞ」


 手のひらサイズのカイロだった。いつから温めていたのか、熱いくらいの温度だ。相変わらず準備がいい。有り難く頂戴し、両手で包み込む。


「ねぇ、ペンギン見たい」

「じゃあその後カワウソ見ていい?」

「え、如月カワウソ好きなの?」

「うん」


 また新たな如月が知れた。絵里は自然と口元が綻びる。如月はまたチラ、と絵里の耳に目をやってすぐ逸らした。


『お待たせしましたー! イルカショーの始まりでーす!』


 水族館では定番のイルカショーに、絵里のテンションはマックスになった。インストラクターの合図に従って水の中を悠々と泳ぐイルカ。飛んで跳ねて水しぶきを上げる様子に、年甲斐もなく「すごーい!」と声を上げて手を叩いた。


 対する如月は絵里の隣で大人しく観ていた。「ねぇ、すごいよ如月」と如月の方を見ると、優しい顔をして絵里を見ていて、目が合った。海の匂いが2人の間を縫うように漂い、イルカ―ショーを観ていることを忘れてしまいそうになる。


 割と長い間見つめ合っていた2人だったが、前からイルカが水の中から宙を舞い、バッシャーンと水の中に戻ってくる音がしてハッとした。慌てて顔をイルカの方に戻す。


 絵里の心臓はバクバクと音を立てていた。もう今日で一生分の鼓動を感じているんじゃないかと思うくらいには激しく鳴っている。このまま死ぬんじゃないかと、割と本気で思った。


 クールな如月は何を考えているのか、絵里には分かりかねる。どうして自分をクリスマスに『どこかへ出掛けませんか』などと誘ったのか。


 いや、本当は分かっていた。チラチラと見てくるチェーンピアスを貰った意味も、こうして2人で水族館に来ている理由も。分かっていて分からないフリをしている。いい年こいて恥ずかしいが、決定的な事を言ってこない如月もまた、悪いと思う。まぁ今日は如月にとっては脈ありか脈なしを見極めるためのデートなのだろう。普通に楽しいから、それでいいか。あまり心臓に悪いことはしないで欲しいけれど。


 イルカショーの後は、館内にあるレストランで軽く昼食をとった。それからお互いに見たかったペンギンとカワウソを見に行く。ちょうどアシカのショーの時間と被っていたため、人が少なかった。


「可愛い! 見て、如月、ペンギン!」

「絵里さん、カワウソはこっちです。ペンギンはもう見たから、次こっち」


 イルカショーが終わってどっちからともなく手を繋いでいた2人は、ペンギンコーナーを横切った後、右側にペンギンコーナー、左側にカワウソコーナーがある真ん中あたりで両者引っ張り合っていた。他のカップルが2人を微笑ましそうに見てカワウソコーナーへ歩いていく。


「ちょっと如月。ペンギン、チラッとしか見てないし、ここはレディに譲るところでしょ。男なんだから、私優先してよ」

「絵里さん。俺、こう見えて後輩なんですよ。普通は先輩が譲るもんじゃありませんか」


 なぜ今先輩後輩を持ち出す。絵里は思わず眉をひそめた。確かに如月は絵里にとっては後輩だが、それを言われたら今日のことは全て、先輩後輩がただクリスマスに遊んでいるだけの図になってしまう。もちろん間違ってはいないが、それではあまりにも悲しい。少しだけ考える素振りをして、「分かった」と絵里が折れようとすると、如月が先に口を開いた。


「嘘、冗談。先にペンギン見ましょう」


 絵里は手を引かれ、ペンギンコーナーへ足を踏み入れた。なんか、私、遊ばれてない? 如月から香る石鹸らしい匂いが風に運ばれて絵里の嗅覚が刺激されると、急に息苦しくなった。


「ねぇ如月」

「はい」

「如月は、私のこと、好きなの?」

「…………」


 如月はゆっくりと立ち止まった。絵里を振り返って見下ろす。威圧感は一切ない。ジッと見つめ合うと、形の良い如月の唇が開かれた。


「気になりますか?」

「えっ」

「気になるの?」

「いや、別に、そういう訳じゃ……」


 ストレートに訊けばストレートに返してくれると思った絵里だったが、如月は一筋縄ではいかない後輩だということをすっかり忘れていた。如月は逆に絵里に言わせようとしている。しまった藪蛇だったと後悔しつつももう過去には戻れない。如月のことをどう思っているかなんて絵里自身も分かっていないのに、無責任に好きだなんて言えるわけがなかった。


 目が泳ぐ絵里に対してジリジリと近付く如月。ペンギンが数羽、ポテポテと歩きながら2人をチラ見した。


「ちょっと如月君、近いかなぁ……」


 これ以上近付くなと両手を前に出すと、如月は絵里の耳元に口を近付けた。


「そうやって俺のこと気にしといてください。意識させるのが今日の目標なんで」


 それだけ言うと如月はスッと絵里から離れ、「俺、カワウソ見てきます」とペンギンコーナーからも離れていった。後ろにペンギンがいる中、ひとりにされた絵里は急に立っていられなくなり、地面にへたり込んだ。


 なになになになになんなのなんなの!? 如月は私をどうしたいの!? 待って待って、クリスマスってこんなに甘くていいの!? まだケーキ食べてないよ!?


 心臓はマラソンを完走した並みにドクドクと脈を打ち、口から出そうになっている。おかげで全身の血の巡りが良くなり、身体中が火照る。というか熱い。耳まで熱くなっているので、絵里はそっと耳たぶに触れた。そこに感じるピアスの冷たさ。外は寒く、触れるもの全てが冷たいのに、絵里の身体だけが熱を帯びていた。


「なんなの、もう……」


 カップルが目の端で絵里を捉えながらペンギンコーナーから出る。そうか今ひとりなのかと正気に戻った絵里はゆっくりと立ち上がり、ペンギンを振り返った。ヨチヨチと歩く子や全身を震わせて身体についた水気を飛ばす子、水槽の中で悠々と泳ぐ子、親子なのかくっつき合って暖を取っている子。見ているだけで癒される子たちを、如月と見たい。それがどういう意味か考えるより先に、絵里はそう思ってしまった。


 足早にペンギンコーナーを出て、隣のカワウソコーナーへ移動する。入った瞬間、あの石鹸のような清潔感のある香りを微かに感知した。如月はすぐそこにいる。


 果たしてカワウソが展示されている入口に近い端っこのガラスに張り付いているのは。


「あ、絵里さん。見てください、カワウソ、可愛くないですか?」


 五感で絵里がどこにいるのか分かるとでも言うのか、如月は振り返らなかった。近付いて絵里もカワウソを見る。


「うん。可愛い」


 2人で、小さな動物があちこち動き回る様子を見ていた。

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