第2話
日曜日のクリスマスとだけあって、水族館のチケット売り場は混雑していた。
「やっぱ多いね」
「はい。でも、大丈夫です」
如月はボディバッグの中から財布を取り出し、その中から2枚のチケットを引き抜いた。
「え、それってコンビニで発券できる前売り券?」
「そうです。買っといたんで、売り場に並ばなくても大丈夫です」
あまりに用意周到すぎて絵里は呆気にとられた。自分のことで精一杯だった自分に対し、この後輩は未来を予知して先回りしていたというのか。慣れているというかスマートというか、いずれにしろちょっと悔しい。
そこでふと大学時代を思い出した。同じアウトドアサークルで一緒にキャンプをした時、1泊にしては如月の荷物がやたら多かったことがあった。何が入っているのかと問えば、救急セットや懐中電灯、毛布に非常食といった避難セットのような道具を持ってきており、万が一に備える男なんだなと絵里は思った記憶があった。結局何ひとつ使わなかったが。
大学を卒業してから13年経っても変わらない性格ってあるんだな、と絵里は少し安心した。
チケットを入場係のお姉さんに渡して、手の甲に再入場ができる蛍光のスタンプを押してもらう。
「如月、なんか懐かしくない? 手にスタンプ押してもらうとか」
「そうっすね」
前にいる如月が絵里を振り返った時、いい匂いが鼻を掠めた。石鹸の香りに似た清潔感のある香りで、好きな匂いだ。思わず犬のように鼻をクンクンと動かしてしまった。
「どうしました?」
「いや、別に。あ、ほら、魚見に行こ」
変態だと思われたくなかった絵里は、適当に誤魔化して先へ急いだ。匂いの根源は分からなかったが、如月から発されていないことを願ってしまった。だって、この香りが如月から発されていたら、付いていきたくなるから。
絵里自身、香水をつけるタイプではなかった。如月だって大学の頃やダーツバーのマスターをしている時はつけていなかった気がする。いや、自分が気が付かなかっただけか? 変に意識しているから香りまで分かってしまうのだろうか。
やっぱり今日の私は変だ。水族館の暖房のせいか、絵里は火照った顔を手で扇いだ。
***
「うわぁ。ちょっと見て如月! カクレクマノミだ。可愛い~」
「あ、チンアナゴ! こっちはカサゴ?」
「ウツボだ。大きいねぇ」
さっきまでのドギマギはどこかへ行ったのか、水槽を前にすると絵里は子どものようにはしゃぎ始めた。時々スマホで写真を撮り、両手をポケットに突っ込んで遠巻きに見ている如月を呼びつけては、泳ぐ魚を指差して見ろと強制する。
水族館の暗がりも、絵里を通常に戻すポイントだったのかもしれない。如月と会う時はいつも夜で、ダーツバーも暗い。今日みたいに太陽が東に位置している時間から会うのは、それこそ大学卒業以来だ。明るい太陽の元では、如月の顔を直視することは出来なかった絵里も、水族館の暗がりに助けられ、如月の顔を見ることが出来た。
クラゲコーナーに差し掛かり、絵里は円柱の水槽に吸い込まれるようにフラフラと歩いた。水槽が赤や青、紫や緑といった色合いに光るのに合わせ、透明なクラゲも色を帯びる。ただ綺麗だと見入ってしまった。不規則に浮遊する色のついたクラゲ。まるで催眠術にかかったかのように、水槽の前から離れられない。如月も見ているだろうか。
ふと近くに如月がいないことに気が付いた。クラゲの水槽には家族連れだろうか、たくさんの子どもと大人が「綺麗だね」と言い合いながら絵里と同じようにボーっと見ている。あれ、うそ、はぐれた? 35歳にもなって迷子?
キョロキョロと頭を動かして如月の姿を探す。とりあえずクラゲの水槽前から離れようとするも、人が多くて動けない。わ、どうしよう。夢中になりすぎてはぐれるなんて、子どもじゃあるまいし。
思わず「如月どこー?」と大声を上げそうになった時、あの石鹸のような清潔感のある香りが鼻腔をくすぐったと同時に、手を握られる感触があった。
「絵里さん、こっち」
耳元で囁かれ見上げると、端正な顔立ちをしたダーツバーのマスターが、しっかりと絵里を見据えていた。一瞬だけ時が止まったように感じた絵里だったが、すぐに如月に手を引かれ、クラゲの水槽前から移動する。
「ごめん、ありがとう。急に如月が消えて焦ったよ」
なぜか心臓の鼓動がうるさくなってきた。そのくせ繋がれた手を見て如月の手って大きくて綺麗だな、などと悠長な感想が頭を掠める。如月は絵里を見て——しかしその視線が耳に注がれた気がして——口を開いた。
「人が増えてきたんで、はぐれないようにしてください」
暗に手は離さないと言っている。絵里は小さく「はい」と頷くほかなかった。
クリスマスということを差し引いても如月の言動が甘すぎる事態に、絵里は戸惑いを隠せない。長い付き合いになるが、こんな如月を見るのは初めてで、中身は実は如月ではなくどこかのホストなんじゃないかと思ってしまう始末だ。匂いだって普段と違うし、無愛想でクールなところは変わらないけど、こんなに頼りになるなんて知らなかった。でも、知らない如月を知るということに、絵里は少しだけ嬉しさを覚えていた。こんなに長く会っているのに、知らない面がまだあったなんて。もっと知りたい、如月のこと。いつしか絵里はそんなことを思っていた。
「イルカショーとかアシカショーとか無いんですかね」
「お、いいね。あったら見たい」
「えーと、パンフレットによると……あ、絵里さん、そっち持って」
入場時にもらった蛇腹型のパンフレットを広げるが、片手が塞がっているので如月は反対側を絵里に持つよう指示した。少しくらいなら手を離せばいいのに、と思いながらも口には出さない絵里は、言われた通りに反対側を持つ。2人でひとつのパンフレットを広げた。それを2人して覗き込めば、また石鹸のような清潔感のある香りが漂う。
「ねぇ如月。香水つけてる?」
「……いや? え、もしかして臭いですか」
「いやいや、逆。なんか、いい匂いがする。シャンプーの匂いかな」
クンクンと如月を嗅ぎ始めた絵里に対し、「やめてください」と少し距離を取った如月だが、何を思ったかすぐ絵里の耳元に顔を近付け、「絵里さんこそ」と囁いた。
「なんか甘い匂いがする」
「ちょ、近……」
「知ってます? 匂いに惹かれる男女って、運命らしいですよ」
「……!」
絵里はとうとう返事の仕方が分からなくなった。近くで子どもが走り回り、母親らしき女性が「こらっ」と怒っている。私も今すぐ駆け出したい。そのまま山に登って「如月が変だ」と叫びたい。
そしてなぜだか絵里は急に周りからどう見られているのかが気になった。30代半ばにもなって手を繋いだ男女がひとつのパンフレットを覗き込み、匂いを嗅ぎ合うという光景。変かな、変だよね? 嫌じゃないけど、やめた方が良いよね?
とここで、如月となら嫌ではないことに気が付いた。もしこれが如月じゃなく、他の元サークルメンバーや会社の同僚だったら……と考えて寒気が走る。ない、絶対ない、あり得ない。
「あ、イルカショーがもうすぐあるみたいですよ」
行きましょうか、とパンフレットを畳んで手を引く如月に、絵里は大人しく従った。
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