第4話
次に絵里が如月と会ったのは、年が明けて仕事が始まった週末、1月7日だった。
「あぁ、仕事始めはキツイわ……」
「お疲れ様です。はい、ビール」
「ありがと」
すっかり絵里の定位置となった左端のカウンターで、ジョッキに注がれた黄金色の液体を口から摂取する。程よい苦みが絵里の舌を刺激し、喉を鳴らすと身体の細胞ひとつひとつに染み渡った。半分ほど一気に飲んでジョッキを口から離した時、無意識に「っかぁぁ」と爽快感が喉の奥底から漏れ出た。
「やっぱ仕事終わりにはビールよね」
「絵里さん、口周り」
如月がおしぼりを差し出した。どうやら泡が付いているらしい。「失敬」とおしぼりを受け取り、口周りをトントンと叩き拭いた。
「ここは年明け、いつから営業してんの?」
「4日からです」
「うわ、如月も働くねぇ」
マスター、枝豆ちょうだい! とどこかからオーダーが入った。「はい」と如月は声を上げてカウンター内で準備する。
店はそこそこに人が入っていた。週末だからか、奥からはダーツの音や人々の喧騒がよく聞こえる。
薄暗い店内で見る如月は、クリスマスで見た如月とは何かが違って見えた。顔が違うのだろうか。プライベートの顔と仕事中の顔。どっちがいいかと聞かれたら困るけれど、どっちも悪くないと思う。
枝豆を持ってカウンターを出た如月が、絵里の横をスッと通った。そこで違和感を覚える。あれ、やっぱりあの匂いがしない。鼻をクンクンさせるが、香るのは店内に漂うワインやビールのアルコール臭と塩辛いおつまみの香りだけで、クリスマスの時に感じた石鹸のような清潔感のある香りは感じられなかった。
「ねぇ如月」
絵里は、空のジョッキを片手に2本持ちカウンター内へ帰ってきた如月に声を掛けた。
「はい」
「あの日、やっぱり香水つけてた?」
如月は少しだけ肩を震わせた。漫画でいうところの『ギクッ』といった感じだろうか。なぜ嘘をついたか絵里には分からないが、別に隠さなくてもいいのにと思った。
「……俺に似合ってました?」
「え?」
「あの香り、俺っぽかったですか」
訊かれてあの香りを思い出す。石鹸のような爽やかな香りは、クールな如月に確かにピッタリだった気がする。冷たいようでいて温かい様子は、思い出しただけで心がポカポカと火照ってくる。あの日一緒に見た可愛い魚や動物たち、繋いだ手の温もりや感触、耳元で囁かれた言葉。何もかもが思い出されて、絵里の心臓が勝手に激しく動き出した。
「うん、如月っぽかった……」
よ、と言いながら顔を上げて如月を見た時、その後ろの棚に飾ってあるものが目に入って、絵里は言葉を失った。ワインボトルが並ぶ棚の空いたスペースに、1体のぬいぐるみがこちらを見下ろすように置いてある。
そのぬいぐるみにまつわる如月とのやり取りが、鮮明に思い出された。
『ねぇ、如月。そういえば私、如月にクリスマスプレゼント用意してない。貰ってばっかで悪いから、なんかプレゼントさせて欲しいんだけど、欲しいもの教えて?』
『いや、別に、要らないですけど……あ、じゃあコレ、買ってください』
『え、コレ? 別にいいけど……あんた本当にカワウソが好きなんだね』
如月は水族館のお土産コーナーに平積みされた、四つん這いのコツメワカウソのぬいぐるみを指定した。パッと見は柴犬みたいな顔をしており、いずれにしろ愛らしい。ぬいぐるみをもらって家のどこに飾るんだろうと気になった絵里だったが、まさか自分の店に飾るとは。どう見てもダーツバーの雰囲気にはそぐわない。
この店に来るたびに、あの日のことを思い出してしまうじゃないか。
絵里の視線の先に気付いた如月が、わずかに口角を上げて言い放った。
「言ったでしょ、意識させるのが目標だって」
ダーツの刺さる陽気な音が遠くの方で聞こえた。ビールジョッキの外側にはたくさんの水滴が付き、ぷっくりと丸くなった水泡が重なっては滴り落ちる。
感じないはずの石鹸の香りが、絵里の鼻孔をくすぐった。まだ1杯目の半分しか飲んでいないのに、頭がクラクラする。
「次はどこに行きます?」
意気揚々とそう訊いてくる如月の目を絵里は見ることが出来ず、持ち上げると雫が垂れるビールジョッキをグイと呷った。
END.
クリスマス・プレリュード 小池 宮音 @otobuki
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