五 西海岸

 前にも幾度となく述べてきたが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知っていなかった。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行ったことがない。高山というのは、金木からまっすぐ西に三里半ばかり行きしやりきという人口五千くらいのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷いなりさんは有名なものだそうであるが、何せ少年の頃の記憶であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残っているくらいのもので、あとはすべて、とりとめもなくぼんやりしてしまっている。この機会に、津軽の西海岸を廻ってみようという計画も前から私にあったのである。鹿の子川溜池へ遊びに行ったその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかえ、十分経つか経たぬかのうちに、づくり駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちょっと見ておきたいと思っていたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少ないようだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が、どっどっと、だるげに聞こえてくる。どこかの軒下で、鳩が鳴いている。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎えている。父はこの町のMという旧家の三男かであったのを、私の家から迎えられて何代目かの当主になったのである。この父は、私の十四のときに死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言わざるを得ない。また自作の「思い出」の中の一節を借りるが、「私の父は非常に忙しい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居らなかった。私は此の父を恐れていた。父の万年筆をほしがっていながらそれを言い出せないで、ひとり色々と思い悩んだ末、ある晩に床の中で眼をつぶったまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけたことがあったけれど、もちろんそれは父の耳にも心にもはいらなかったらしい。私と弟とが米俵のぎっしり積まれたひろい米蔵に入って面白く遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、坊主、出ろ、出ろ、としかった。光を背から受けているので父の大きい姿がまっくろに見えた。私は、あのときの恐怖をおもうと今でも、いやな気がする。(中略)その翌春、雪のまだ深く積っていた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父のを号外で報じた。私は父の死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父のがいは大きい寝棺に横たわりそりに乗って故郷へ帰って来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やがて森の蔭から幾台となく続いた橇のほろが月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私は美しいと思った。つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集まった。棺のふたが取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠っているようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣き声を聞き、さそわれて涙を流した。」まあ、だいたいこんなことだけが父に関する記憶と言っていいくらいのもので、父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおっかなさを感じ、またそれゆえ安心して寄りかかってもいたし、父がいないからさびしいなどと思ったことはいちどもなかったのである。しかし、だんだんとしを取るにつれて、いったい父は、どんな性格の男だったのだろう、などと無礼なそんたくをしてみるようになって、東京の草屋における私の仮寝の夢にも、父があらわれ、実は死んだのではなくてる政治上の意味で姿をかくしていたのだということがわかり、思い出の父の面影よりは少し老い疲れていて、私はその姿をひどくなつかしく思ったり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に強くなってきたのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死んで、私は子供心には、そのとしがたいへんな老齢のように感ぜられ、まず大往生と思っていたのだが、いまは五十三の歿ぼつたいれいの大往生どころか、ひどい若死にと考えるようになった。も少し父を生かしておいたら、津軽のためにも、もっともっと偉い事業をしたのかもしれん、などと生意気なことなど考えている。その父が、どんな家に生れて、どんな町に育ったか、私はそれを一度見ておきたいと思っていたのだ。木造の町は、一本路の両側に家が立ち並んでいるだけだ。そうして、家々の背後には、見事に打ち返された水田が展開している。水田のところどころにポプラの並木が立っている。こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違いないのであるが、づくりのポプラほど、あざやかに記憶に残ってはいない。薄みどり色のポプラの若葉がれんに微風にそよいでいた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違わず、きやしやですこぶる美人である。このように山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するという伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであろう。これも、金木地方と同様にちょっと心細いのではあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆じゃないかとさえ私には疑われた。岩木山の美しく見える土地には、いやもう言うまい。こんな話は、えてして差しさわりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにわかに断定を下すべき筋合いのものではないかもしれない。その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまっすぐの一本街のコンクリート路の上には薄いはるがすみのようなものが、もやもや煙っていて、ゴム底の靴で猫のように足音もなくのこのこ歩いているうちに春のうんにあてられ、何だか頭がぼんやりしてきて、づくり警察署の看板をもくぞう警察署と読んで、なるほどもくぞうの建築物、と首肯うなずき、はっと気附いて苦笑したりなどした。

 づくりは、また、コモヒの町である。コモヒというのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞって店先に日よけの天幕を張ったろう、そうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しそうな顔をして歩いたろう、そうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思ったろう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作ってあるのが、北国のコモヒだと思えば、たいして間違いはない。しかもこれは、日ざしをよけるために作ったのではない。そんな、しゃれたものではない。冬、雪が深く積ったときに、家と家との聯絡に便利なように、おのおのの軒をくっつけ、長い廊下を作っておくのである。吹雪ふぶきのときなどには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買い物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のような危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとって大助かりだろうし、また、私のように、春の温気にまいった旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に坐っている人たちからじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。コモヒというのは、みせなまりであると一般に信じられているようだが、私は、こもあるいはこもとでもいう漢字をあてはめたほうが、早わかりではなかろうか、などと考えてひとりで悦にいっている次第である。そのコモヒを歩いていたら、M薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとおり過ぎて、やはりコモヒをまっすぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考えた。この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒというものがあるらしいけれども、この木造町みたいに、町全部がコモヒによって貫通せられているといったようなところは少ないのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまった。しばらく歩いて、ようやくコモヒも尽きたところで私は廻れ右して、ためいきついて引き返した。私は今まで、Mの家に行ったことは、いちどもない。木造町へ来たこともない。あるいは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来たことはあったかもしれないが、いまの私の記憶には何も残っていない。Mの家の当主は、私よりも四つ五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちょいちょい金木へも遊びに来て私とはかおじみである。私がいま、たずねて行っても、まさか、いやな顔はなさるまいが、どうも、しかし、私の訪ね方が唐突である。こんな薄汚いなりをして、Mさんしばらく、などと何の用もないのに卑屈に笑って声をかけたら、Mさんはぎょっとして、こいついよいよ東京を食いつめて、金でも借りに来たんじゃないか、などと思やすまいか。死ぬまえにいちど、父の生れた家を見たくて、というのも、おそろしいくらいにだ。男が、いいとしをして、そんなことはとても言えたもんじゃない。いっそこのまま帰ろうか、などともだえて歩いているうちに、またもとのM薬品問屋の前に来た。もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまわない。はいろう。私は、とっさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のほうに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢いで私には何も言わせず、引っぱり上げるように座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理坐らせてしまった。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言いつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かった。

「久し振り。久し振り。」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらいです。」

「さあ。もし子供のときに来たことがあるとすれば、三十年振りくらいでしょう。」

「そうだろうとも、そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮することはない。よく来た。実に、よく来た。」

 この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何のことはない、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけのことなのだ。私には養子の父の心理が何かわかるような気がして、微笑ほほえましかった。そう思って見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似ている。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたような気がして、このMさんのお家へ立ち寄った甲斐かいがあったと思った。Mさんは、何かと私をもてなそうとする。

「いや、もういいんだ。一時の汽車で、深浦へ行かなければいけないのです。」

「深浦へ? 何しに?」

「べつに、どうってわけもないけど、いちど見ておきたいのです。」

「書くのか?」

「ええ、それもあるんだけど、」いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるようなことは言えなかった。

「じゃあ、木造のことも書くんだな。木造のことを書くんだったらね、」とMさんは、少しもこだわるところがなく、「まず第一に、米の供出高を書いてもらいたいね。警察署管内の比較では、この木造署管内は、全国一だ。どうです、日本一ですよ。これは、僕たちの努力の結晶と言っても差し支えないと思う。この辺一帯の田の、水が枯れたときに、僕は隣村へ水をもらいに行って、ついに大成功して、大トラ変じて水虎大明神ということになったのです。僕たちも、地主だからって、遊んではいられない。僕はせきずいがわるいんだけど、でも田の草取りをしましたよ。まあ、こんどは東京のあんたたちにも、おいしいごはんがどっさり配給されるでしょう。」たのもしい限りである。Mさんは、小さい頃から、かつたつな気性のひとであった。子供っぽいくりくりした丸い眼に魅力があって、この地方の人たち皆に敬愛せられているようだ。私は、心の中でMさんの仕合わせを祈り、なおも引きとめられるのを汗を流して辞去し、午後一時の深浦行きの汽車にやっと間に合うことが出来た。

 木造から、五能線によって約三十分くらいでなるさわあじさわを過ぎ、その辺で津軽平野もおしまいになって、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓におおの奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべてかくりよう質凝灰岩とかいうものだそうで、そのかいしよくを受けてへいたんになったはんりよくしよくの岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜において催すことが出来るほどのお座敷になったので、これを千畳敷と名づけ、またその岩盤のところどころが丸くくぼんで海水をたたえ、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これをさかずきぬまと称するのだそうだけれど、直径一尺から二尺くらいのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よっぽどの大酒飲みが名づけたものに違いない。この辺の海岸には奇岩削立し、とうにその脚を絶えず洗われている、と、まあ名所案内記ふうに書けば、そうもなるのだろうが、外ヶ浜北端の海浜のような異様なものすごさはなく、いわば全国到るところにある普通の「風景」になってしまっていて、津軽独得のきつくつとでもいうような他国の者にとって特に難解の雰囲気はない。つまり、ひらけているのである。人の眼に、められて、明るくれてしまっているのである。れいの竹内運平氏は、「青森県通史」において、この辺以南は、昔からの津軽領ではなく、秋田領であったのを、慶長八年に隣藩佐竹氏と談合の上、これを津軽領に編入したというような記録もあると言っている。私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言うのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないような気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここにはない。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺にはない。山水を眺めただけでも、わかるような気がする。すべて、充分にそうめいである。いわゆる、文化的である。ばかなごうまんな心は持っていない。大戸瀬から約四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるような、決して出しゃばろうとせぬつつましい温和な表情、悪く言えばお利巧なちゃっかりした表情をして、旅人を無言で送迎している。つまり、旅人に対しては全く無関心のふりを示しているのである。私は、深浦のこのような雰囲気を深浦の欠点として挙げて言っているのでは決してない。そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思っている。これは、成長してしまった大人の表情なのかもしれない。何やら自信が、奥底深く沈潜している。津軽の北部に見受けられるような、子供っぽい悪あがきはない。津軽の北部は、生煮えの野菜みたいだが、ここはもう透明に煮え切っている。ああ、そうだ。こうして較べてみるとよくわかる。津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信というものがないのだ。まるっきりないのだ。だから、たらに肩をいからして、「かれはいやしきものなるぞ」などと人の悪口ばかり言って、ごうまんな姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、そうして悲しい孤独の宿命を形成するということになったのかもしれない。津軽の人よ、顔を挙げて笑えよ。ルネッサンス直前のうつぼつたるたいとう力をこの地に認めると断言してはばからぬ人さえあったではないか。日本の文華が小さく完成して行きづまっているとき、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になっているか、一夜しずかに考えて、などというとすぐ、それそれそんなに不自然に肩を張る。人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けて行こうではないか。

 深浦町は、現在人口五千くらい、旧津軽領の西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鰺ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻あずまのはまがん、弁天島、ゆきあい岬など一とおり海岸の名勝がそろっている。しずかな町だ。漁師の家の庭には、大きな立派な潜水服が、さかさにつるされて干されている。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じがする。駅からまっすぐに一本路をとおって、町のはずれに、円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられているという。私は、それにおまいりして、もうこれで、この深浦から引き上げようかと思った。完成されている町は、また旅人に、わびしい感じを与えるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷った。まだ日は高い。東京の草屋の子供のことなど、ふと思った。なるべく思い出さないようにしているのだが、心の空虚のすきをねらって、ひょいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上がって町の郵便局へ行き、葉書を一枚買って、東京の留守宅へ短いたよりをしたためた。子供はひやくにちぜきをやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へり、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。すぐにおぜんとお酒が出た。意外なほど早かった。私はその早さに、少し救われた。部屋は汚いが、お膳の上にはたいあわびの二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のようである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやってきて以来、人のごちそうにばかりなっていたが、きょうはひとつ、自力で、うんとお酒を飲んでみようかしら、とつまらぬ考えを起こし、さっきお膳を持って来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまえ、お酒はもうないか、と聞くと、ございません、という。どこか他に飲むところはないかと聞くと、ございます、と言下に答えた。ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行って見ると、意外にれいな料亭であった。二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗りの食卓に向かって大あぐらをかき、酒、酒、と言った。お酒だけ、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、お客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、おちようだけ持ってすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。

「深浦の名所は何です。」

「観音さんへおまいりなさいましたか。」

「観音さん? あ、円覚寺のことを、観音さんと言うのか。そう。」このおばさんから、何か古めかしい話を聞くことが出来るかもしれないと思った。しかるに、その座敷に、ぶってり太った若い女があらわれて、妙にきざな洒落しやれなど飛ばし、私は、いやで仕様がなかったので、男子すべからく率直たるべしと思い、

「君、お願いだから下へ行ってくれないか。」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめにった。その若い女中が、ふくれて立ち上がると、おばさんも一緒に立ち上がり、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、ほうばいの仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べていたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持って来て、

「あなたは、津島さんでしょう。」と言った。

「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いておいたのだ。

「そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので。」

「でも、あれは、偽名でもないのです。」

「ええ、ええ、それも存じております。お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるということは聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上がれ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒のさかなにはいいものです。」

 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしおはら綿わたにしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったということだけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。

 鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立ち寄った。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積み出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあったようだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがったさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方における家々の食膳をにぎわしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらい、木造、深浦よりも少ないような具合で、往年の隆々たる勢力を失いかけているようだ。鰺ヶ沢というからには、きっと昔のある時期に、見事な鰺がたくさんとれたところかとも思われるが、私たちの幼年時代には、ここの鰺の話はちっとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であった。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるようであるから、読者もご存じのことと思うが、鰰、または鱩などという字を書いて、うろこのない五、六寸くらいのさかなで、まあ、海のあゆとでも思っていただいたら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のようである。東京の人たちは、あれを油っこくていやだと言っているようだけれど、私たちには非常に淡白な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのままうすじようで煮て片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたいらげる人は決して珍しくない。ハタハタの会などがあって、いちばん多く食べた人には賞品、などという話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなっているし、それに料理法も知らないだろうから、ことさらまずいものに感ぜられるのであろう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出ているようだし、また、ハタハタの味は淡いという意味の江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされていたのかもしれない。いずれにもせよ、このハタハタを食べることは、津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるということには間違いない。私は、そのハタハタによって、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知ってはいたのだが、その町を見るのは、いまがはじめてであった。山を背負い、片方はすぐ海の、おそろしくひょろ長い町である。いちなかはもののにおひや、とかいうぼんちようの句を思い出させるような、妙によどんだ甘酸っぱい匂いのする町である。川の水も、どろりと濁っている。どこか、疲れている。木造町のように、ここにも長い「コモヒ」があるけれども、少し崩れかかっている。木造町のコモヒのような涼しさがない。その日も、ひどくいい天気だったが、日ざしを避けて、コモヒを歩いていても、へんに息づまるような気持がする。飲食店が多いようである。昔は、ここはいわゆる銘酒屋のようなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思われる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍しく「やすんで行きせえ」などと言って道を通る人に呼びかけている。ちょうどお昼だったので、私は、そのおそばやの一軒にはいって、休ませてもらった。おそばに焼きざかなが二皿ついて、四十銭であった。おそばのおつゆも、まずくなかった。それにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこまで行っても、同じような家並みが何の変化もなく、だらだらと続いているのである。私は、一里歩いたような気がした。やっと町のはずれに出て、また引き返した。町の中心というものがないのである。たいていの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、町のおもしになっていて、その町を素通りする旅人にも、ああ、この辺がクライマックスだな、と感じさせるように出来ているものだが、鰺ヶ沢にはそれがない。扇のかなめがこわれて、ばらばらに、ほどけている感じだ。これでは町の勢力あらそいなど、ごたごたあるのではなかろうかと、れいのドガ式政談さえ胸中に往来したほど、どこか、かなめの心細い町であった。こう書きながら、私はかすかに苦笑しているのであるが、深浦といい鰺ヶ沢といい、これでも私の好きな友人なんかがいて、ああよく来てくれた、と言ってよろこんで迎えてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深浦、鰺ヶ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもって書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあてにならないものである。深浦、鰺ヶ沢の人は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑って見のがしてほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故土を汚すほどの権威も何も持っていないのだから。

 鰺ヶ沢の町を引き上げて、また五能線に乗って五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まっすぐに、中畑さんのお宅へ伺った。中畑さんのことは、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いておいたはずであるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代におけるかずかずのだらの後始末を、少しもいやな顔をせず引き受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらいに、ひどくふけていた。昨年、病気をなさって、それから、こんなにせたのだそうである。

「時代だじゃあ。あんたが、こんな姿で東京からやって来るようになったもののう。」と、それでもうれしそうに、私のじきにも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れているな。」

 と言って、自分で立ってたんから上等の靴下を一つ出して私に寄こした。

「これから、ハイカラちようへ行きたいと思ってるんだけど。」

「あ、それはいい。行っていらっしゃい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めっきり瘦せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母おばの家族が、そのハイカラ町に住んでいるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町という名前であったのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のようである。五所川原町に就いては、序編において述べたが、ここには私の幼年時代の思い出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原のある新聞に次のような随筆を発表した。

「叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。あさひざの舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だったと思います。たしか、友右衛門だったはずです。梅の由兵衛に泣かされました。まわりたいを、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上がってしまった程に驚きました。あの旭座は、その後間もなく火事を起こし、全焼しました。そのときのえんが、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が、罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供心にも、どういうわけだか、その技師の罪名と、運命を忘れることが出来ませんでした。旭座という名前が『』の字に関係あるから焼けたのだといううわさも聞きました。二十年も前のことです。

 七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水があごのあたりまでありました。三尺ちかくあったのかもしれません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣ゆかたでした。帯も、緑色のおびでした。ひどく恥ずかしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。私は叔母に可愛かわいがられて育ちました。私は、男ぶりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな、遠い思い出になりました。」

 中畑さんのひとり娘のけいちゃんと一緒に中畑さんの家を出て、

「僕は岩木川を、ちょっと見たいんだけどな。ここから遠いか。」

 すぐそこだという。

「それじゃ、連れて行って。」

 けいちゃんの案内で町を五分も歩いたかと思うと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もっと町から遠かったように覚えている。子供の足には、これくらいの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであろう。それに私は、家の中にばかりいて、外へ出るのがおっかなくて、外出のときには目まいするほど緊張していたものだから、なおさら遠く思われたのだろう。橋がある。これは、記憶とそんなに違わず、いま見てもやっぱり同じように、長い橋だ。

「いぬいばし、と言ったかしら。」

「ええ、そう。」

「いぬい、って、どんな字だったかしら。方角のいぬいだったかな?」

「さあ、そうでしょう。」笑っている。

「自信なし、か。どうでもいいや。渡ってみよう。」

 私は片手で欄干をでながらゆっくり橋を渡って行った。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路がいちばん似ている。河原一面の緑の草から陽炎かげろうがのぼって、何だか眼がくるめくようだ。そうして岩木川が、両岸のその緑の草をめながら、白く光って流れている。

「夏には、ここへみんな夕涼みにまいります。他に行くところもないし。」

 五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑わうことだろうと思った。

「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちゃんは、川の上流のほうを指差して教えて、「父の自慢の招魂堂。」と笑いながら小声で言い添えた。

 なかなか立派な建築物のように見えた。中畑さんは、この招魂堂改築に就いても、れいのきようを発揮して大いに奔走したに違いない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋のたもとに立って、しばらく話をした。

りんはもう、かんばつというのか、少しずつ伐って、伐ったあとにれいしよだか何だか植えるって話を聞いたけど。」

「土地によるのじゃないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」

 大川の土手の陰に、林檎畑があって、白い粉っぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感ずる。

「けいちゃんからも、ずいぶん林檎を送っていただいたね。こんど、おむこさんをもらうんだって?」

「ええ。」少しもわるびれず、真面目まじめ首肯うなずいた。

「いつ? もう近いの?」

「あさってよ。」

「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちゃんは、まるでひとのことのように、けろりとしている。「帰ろう。いそがしいんだろう?」

「いいえ、ちっとも。」ひどく落ちついている。ひとり娘で、そうして養子を迎え、家系をごうとしているひとは、十九や二十の若さでも、やっぱりどこか違っている、と私はひそかに感心した。

「あしたどまりへ行って、」引き返して、また長い橋を渡りながら、私は他のことを言った。「たけにおうと思っているんだ。」

「たけ、あの、小説に出てくるたけですか。」

「うん、そう。」

「よろこぶでしょうねえ。」

「どうだか。逢えるといいけど。」

 このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。三十年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人によって確定されたといっていいかもしれない。以下は、自作「思い出」の中の文章である。

「六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。お寺へしばしば連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火をけた人は赤い火のめらめら燃えているかごを背負わされ、めかけを持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、けんらくという白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、あおじろく瘦せたひとたちが、口を小さくあけて泣き叫んでいた。うそけば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。

 そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんのが林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止まってじっと動かないならその廻した人は極楽へ行き、いつたんとまりそうになってから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻って、かならずひっそりと止まるのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを廻してみても皆言い合わせたようにからんからんと逆廻りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となくしつように廻しつづけた。日が暮れかけてきたので、私は絶望してその墓地から立ち去った。(中略)やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかいなくなっていた。ある漁村へ嫁に行ったのであるが、私がそのあとを追うだろうという懸念からか、私には何も言わずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代わって知らせたようだ。たけは、油断大敵でせえ、と言っただけで格別ほめもしなかった。」

 私の母は病身だったので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになってふらふら立って歩けるようになった頃、乳母にわかれて、その乳母の代わりに子守としてやとわれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮らしたのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。そうして、ある朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はっと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の思いで泣いて、それから、二、三日、私はしゃくり上げてばかりいた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはいない。それから、一年ほど経って、ひょっくりたけと逢ったが、たけは、へんによそよそしくしているので、私はひどくうらめしかった。それっきり、たけと逢っていない。四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、そのとき、あの「思い出」の中のたけの箇所を朗読した。故郷といえば、たけを思い出すのである。たけは、あのとき私の朗読放送を聞かなかったのであろう。何のたよりもなかった。そのまま今日に到っているのであるが、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢いたいと切に念願をしていたのだ。いいところは後廻しという、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのいる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残しておいたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行って一泊して、そうして、それから最後に小泊へ行こうと思っていたのだが、東京からわずかしか持って来ない私の旅費も、そろそろ心細くなっていたし、それに、さすがに旅の疲れも出てきたのか、これからまたあちこち廻って歩くのも大儀になってきて、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちょっと立ち寄ろうという具合に予定を変更して、きょうは五所川原の叔母の家に一泊させてもらって、あす、五所川原からまっすぐに、小泊へ行ってしまおうと思い立ったのである。けいちゃんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行ってみると、叔母は不在であった。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院しているので、それの附添いに行っているというのである。

「あなたが、こっちへ来ているということを、母はもう知って、ぜひ逢いたいから弘前へ寄こしてくれって電話がありましたよ。」と従姉いとこが笑いながら言った。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとって家を嗣がせているのである。

「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちょっと立ち寄ろうと思っていますから、病院にもきっと行きます。」

「あすは小泊の、たけに逢いに行くんだそうです。」けいちゃんは、何かとご自分の支度でいそがしいだろうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでいる。

「たけに。」従姉は、真面目まじめな顔になり、「それは、いいことです。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。」従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕っていたか知っているようであった。

「でも、逢えるかどうか。」私には、それが心配であった。もちろん打合せも何もしているわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのである。

「小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いていましたけど、」とけいちゃんは立って、台所にりつけられてある時間表を調べ、「あしたの一番の汽車でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合いませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさらないように。」ご自分の大事な日をまるで忘れているみたいであった。一番の八時の汽車で五所川原を立って、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗って約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるという見込みがついた。日が暮れて、けいちゃんがやっとお家へ帰ったのと入れ違いに、先生(お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、そう呼んでいた)が病院を引き上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。

 翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場にけつけ、やっと一番の汽車に間に合った。きょうもまた、よいお天気である。私の頭はもうろうとしている。二日酔いの気味である。ハイカラ町の家には、こわい人もいないので、前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じっとりと額にいて出る。さわやかな朝日が汽車の中に射し込んで、私ひとりが濁って汚れて腐敗しているようで、どうにも、かなわない気持である。このような自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みという弱点のゆえに、私はとかく人から軽んぜられる。世の中に、酒というものさえなかったら、私はあるいは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしいことを大真面目で考えて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、あし公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅はないと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましもがすりの着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きいしき包みを二つ両手にさげて切符を口にくわえたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真っ白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんとはさみを入れた。少女も美少年もちっとも笑わぬ。当り前のことのように平然としている。少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例がないに違いない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思った。汽車は、落葉からまつの林の中を走る。この辺は、金木の公園になっている。沼が見える。芦の湖という名前である。この沼に兄は、むかし遊覧のボートを一そう寄贈したはずである。すぐに、中里に着く。人口、四千くらいのしようゆうである。この辺から津軽平野も狭小になり、この北のうちがたあいうちわきもとなどの部落に到ると水田もめっきり少なくなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言っていいかもしれない。私は幼年時代に、ここのかなまるというしんせきの呉服屋さんへ遊びに来たことがあるが、四つくらいのときであろうか、村のはずれの滝の他には、何も記憶に残っていない。

「修っちゃあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑いながら立っている。私より一つ二つ年上だったはずであるが、あまり老けていない。

「久し振りだのう。どこへ。」

「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢いたくて、他のことはみな上の空である。「このバスで行くんだ。それじゃあ、失敬。」

「そう。帰りには、うちへも寄って下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」

 指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立っている。たけのことさえなかったら、私はこのおさなじみとの奇遇をよろこび、あの新宅にもきっと立ち寄らせていただき、ゆっくり中里の話でも伺ったのに違いないが、何せ一刻を争うみたいに意味もなく気がせいていたので、

「じゃ、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さっさとバスに乗ってしまった。バスは、かなり込んでいた。私は小泊まで約二時間、立ったままであった。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言われる安東氏一族は、この辺に住んでいて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在ったものらしい。バスは山路をのぼって北に進む。路が悪いとみえて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしっかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景をのぞき見る。やっぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌のにおいがないのである。山の樹木も、いばらも、ささも、人間と全く無関係に生きている。東海岸の竜飛などに較べると、ずっと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮かんでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。西海岸の部落は、ここでおしまいになっているのだ。つまり私は、五所川原あたりを中心にして、柱時計の振り子のように、旧津軽領の西海岸南端の深浦港からふらりと舞いもどってこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまったというわけなのである。ここは人口二千五百人くらいのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入りがあり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避けるときには必ずこの港にはいって仮泊することになっていたという。江戸時代には、近くの十三港と共に米や木材の積み出しがさかんに行われたことなど、前にもしばしば書いておいたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合いなくらい立派である。水田は、村のはずれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊富なようで、ソイ、アブラメ、イカ、イワシなどの魚類の他に、コンブ、ワカメの類の海草もたくさんとれるらしい。

「越野たけ、という人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。

「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野というみようの家がたくさんあるので。」

「前に金木にいたことがあるんです。そうして、いまは、五十くらいのひとなんです。」

 私は懸命である。

「ああ、わかりました。その人ならおります。」

「いますか。どこにいます。家はどの辺です。」

 私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。ぐちさんげんくらいの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思って入口のガラス戸に走り寄ったら、果たして、その戸に小さいナンキンじようが、ぴちりとかかっているのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いずれも固くしまっている。留守だ。私は途方にくれて、汗をぬぐった。引っ越した、なんてことはなかろう。どこかへ、ちょっと外出したのか。いや、東京と違って、田舎ではちょっとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどということはない。二、三日あるいはもっと永い他出か。こいつぁ、だめだ、たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得ることだ。家さえわかったら、もう大丈夫と思っていた僕は馬鹿であった。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のあるはずはなかった。ためいきをついてその家から離れ、少し歩いて筋向かいの煙草屋にはいり、越野さんの家には誰もいないようですが、行先をご存じないかと尋ねた。そこのせこけたおばあさんは、運動会へ行ったんだろう、と事もなげに答えた。私は勢い込んで、

「それで、その運動会は、どこでやっているのです。この近くですか、それとも。」

 すぐそこだという。この路をまっすぐに行くとたんに出て、それから学校があって、運動会はその学校の裏でやっているという。

「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」

「そうですか。ありがとう。」

 教えられたとおりに行くと、なるほど田圃があって、そのあぜみちを伝って行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立っている。その学校の裏に廻ってみて、私は、ぼうぜんとした。こんな気持をこそ、夢見るような気持というのであろう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変わらぬ悲しいほど美しくにぎやかな祭礼が、いま目の前で行われているのだ。まず、万国旗。着飾った娘たち。あちこちに白昼の酔っぱらい。そうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎっしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなったと見えて、運動場を見下ろせる小高い丘の上にまでむしろで一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、そうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはんを食べながら、大陽気で語り笑っているのである。国運をしての大戦争のさいちゅうでも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されている。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果ての砂丘の上に、華麗なお神楽かぐらが催されていたというようなおとぎばなしの主人公に私はなったような気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きいほつぺたの赤いひとであった。右か、左のぶたの上に、小さい赤いほくろがあった。私はそれだけしか覚えていないのである。逢えば、わかる。その自信はあったが、この群集の中から捜し出すことは、むずかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも手の下しようがないのである。私はただ、運動場のまわりを、うろうろ歩くばかりである。

「越野たけというひと、どこにいるか、ご存じじゃありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたずねた。「五十くらいのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。

「金物屋の越野。」青年は考えて、「あ、向こうのあのへんの小屋にいたような気がするな。」

「そうですか。あのへんですか?」

「さあ、はっきりは、わからない。何だか、見かけたような気がするんだが、まあ、捜してごらん。」

 その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りでうんぬんと、青年にきざったらしく打ち明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言い、その漠然と指差された方角へ行ってまごまごしてみたが、そんなことでわかるはずはなかった。とうとう私は、昼食さいちゅうのだんらんの掛小屋の中に、ぬっと顔を突き入れ、

「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらじゃございませんか。」

「ちがいますよ。」ふとったおかみさんは不機嫌そうにまゆをひそめて言う。

「そうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかったでしょうか。」

「さあ、わかりませんねえ。何せ、おおぜいの人ですから。」

 私は更にまた別の小屋をのぞいて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かにかれたみたいに、たけはいませんか、金物屋のたけはいませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまわったが、わからなかった。二日酔いの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸に行って水を飲み、それからまた運動場へ引き返して、砂の上に腰をおろし、ジャンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福そうな賑わいを、ぼんやり眺めた。この中に、いるのだ。たしかにいるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせているのであろう。いっそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会」とでも叫んでもらおうかしら、とも思ったが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだった。そんなおおな悪ふざけみたいなことまでして無理に自分の喜びをでっち上げるのはイヤだった。縁がないのだ。神様が逢うなとおっしゃっているのだ。帰ろう。私は、ジャンパーを着て立ち上がった。また畦道を伝って歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待っていたっていいじゃないか。そうも思ったが、その四時間、宿屋の汚い一室でしょんぼり待っているうちに、もう、たけなんかどうでもいいような、腹立たしい気持になりゃしないだろうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢いたいのだ。しかし、どうしても逢うことが出来ない。つまり、縁がないのだ。はるばるここまでたずねて来て、すぐそこに、いまいるということがちゃんとわかっていながら、逢えずに帰るというのも、私のこれまでの要領の悪かった生涯にふさわしい出来事なのかもしれない。私がちようてんで立てた計画は、いつでもこのように、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰ろう。考えてみると、いかに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕って、ひとめ逢いたいだのなんだの、それだからお前はだめだというのだ。兄たちがお前を、下品なめめしいやつと情けなく思うのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違って、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだろう。しっかりせんかい。私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行きが出る。もう、それっきりで、あとはないということであった。一時三十分のバスで帰ることにきめた。もう三十分くらいあいだがある。少しおなかもすいてきている。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へって、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが」と言い、また内心は、やっぱり未練のようなものがあって、もしこの宿が感じがよかったら、ここで四時頃まで休ませてもらって、などと考えてもいたのであるが、断られた。きょうは内の者がみんな運動会へ行っているので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷たい返辞をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらい休んでまた立ち上がり、ぶらぶらその辺を歩いて、それじゃあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行って、ひと知れずこんじようのいとまいでもしてこようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはずれている。そうして戸が二、三寸あいている。天のたすけ! と勇気百倍、グワラリという品の悪い形容でも使わなければ間に合わないほど勢い込んでガラス戸を押しあけ、

「ごめん下さい、ごめん下さい。」

「はい。」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、

「金木の津島です。」と名乗った。

 少女は、あ、と言って笑った。津島の子供を育てたということを、たけは、自分の子供たちにもかねがね言って聞かせていたのかもしれない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀がなくなった。ありがたいものだと思った。私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で言える。私は、たけの子だ。兄たちにけいべつされたっていい。私は、この少女ときょうだいだ。

「ああ、よかった。」私は思わずそう口走って、「たけは? まだ、運動会?」

「そう。」少女も私に対してはごうまつの警戒もがんしゆうもなく、落ちついて首肯うなずき、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰ったの。」気の毒だが、その腹いたが、よかったのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまえたからには、もう安心。大丈夫たけに逢える。もう何が何でもこの子にすがって、離れなけれゃいいのだ。

「ずいぶん運動場を捜し回ったんだが、見つからなかった。」

「そう。」と言ってかすかに首肯き、おなかをおさえた。

「まだ痛いか。」

「すこし。」と言った。

「薬を飲んだか。」

 黙って首肯く。

「ひどく痛いか。」

 笑って、かぶりを振った。

「それじゃあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行っておくれよ。お前もおなかが痛いだろうが、僕だって、遠くから来たんだ。歩けるか。」

「うん。」と大きく首肯いた。

「偉い、偉い。じゃあ一つたのむよ。」

 うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつっかけ、おなかをおさえて、からだをくの字に曲げながら家を出た。

「運動会で走ったか。」

「走った。」

「賞品をもらったか。」

「もらわない。」

 おなかをおさえながら、とっとと私の先に立って歩く。また畦道をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入れ違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。

太宰スケッチ

「修治だ。」私は笑って帽子をとった。

「あらあ。」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐに、その硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を。」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸いひざにちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思うことがなかった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持のことを言うのであろうか。もし、そうなら、私はこのとき、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議なあん感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。そうだったら、これは、何をおいても親孝行をしたくなるにきまっている。そんな有難い母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしているやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。

 たけのほおは、やっぱり赤くて、そうして、右の眼蓋の上には、小さいつぶほどの赤いほくろが、ちゃんとある。髪には白髪もまじっているが、でも、いま私のわきにきちんと坐っているたけは、私の幼い頃の思い出のたけと、少しも変わっていない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四のときだったという。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、けれども、私の思い出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがわない老成した人であった。これもあとで、たけから聞いたことだが、その日、たけの締めていたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公していた頃にも締めていたもので、また、薄い紫色のはんえりも、やはり同じ頃、私の家からもらったものだということである。そのせいもあったのかもしれないが、たけは、私の思い出とそっくり同じ匂いで坐っている。たぶん贔屓ひいきであろうが、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違った気位を持っているように感ぜられた。着物は、しまの新しい手織り木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも選択がしっかりしている。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持っている。私も、いつまでも黙っていたら、しばらく経ってたけは、まっすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長いためいきをもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかった。でも、やはり黙っていた。

 たけは、ふと気がついたようにして、

「何か、たべないか。」と私に言った。

「要らない。」と答えた。本当に、何もたべたくなかった。

もちがあるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。

「いいんだ。食いたくないんだ。」

 たけは軽く首肯うなずいてそれ以上すすめようともせず、

「餅のほうでないんだものな。」と小声で言って微笑ほほえんだ。三十年ちかく互いに消息がなくても、私の酒飲みをちゃんと察しているようである。不思議なものだ。私がにやにやしていたら、たけはまゆをひそめ、

「たばこも飲むのう。さっきから、立てつづけにふかしている。たけは、お前に本を読むことだば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきゃのう。」と言った。油断大敵のれいである。私は笑いを収めた。

 私が真面目な顔になってしまったら、こんどは、たけのほうで笑い、立ち上がって、

りゆうじんさまの桜でも見に行くか。どう?」と私を誘った。

「ああ、行こう。」

 私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登った。砂山には、スミレが咲いていた。背の低い藤のつるも、ひろがっている。たけは黙ってのぼって行く。私も何も言わず、ぶらぶら歩いてついて行った。砂山を登り切って、だらだら降りると竜神様の森があって、その森の小路のところどころに八重桜が咲いている。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取って、歩きながらその枝の花をむしって地べたに投げ捨て、それから立ちどまって、勢いよく私のほうに向き直り、にわかに、せきを切ったみたいに能弁になった。

「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年近く、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんなことは、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行ったときには、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんのときにはちやわんを持ってあちこち歩きまわって、くらの石段の下でごはんを食べるのがいちばん好きで、たけに昔噺むがしこ語らせて、たけの顔をとっくと見ながらひとさじずつ養わせて、手かずもかかったがごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と、一語、一語、言うたびごとに、手にしている桜の小枝の花を夢中で、むしり取っては捨て、むしり取っては捨てている。

「子供は?」とうとうその小枝もへし折って捨て、りようひじを張ってモンペをゆすり上げ、

「子供は、幾人。」

 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答えた。

「男? 女?」

「女だ。」

「いくつ?」

 次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて無遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったということに気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森におけるT君であり、五所川原における中畑さんであり、金木におけるアヤであり、そうして小泊におけるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいたことがある人だ。私は、これらの人と友である。

 さて、古聖人のかくりんを気取るわけでもないけれど、新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白をもつて、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたいことが、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

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津軽 太宰治/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

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