五 西海岸
前にも幾度となく述べてきたが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知っていなかった。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行ったことがない。高山というのは、金木からまっすぐ西に三里半ばかり行き
「久し振り。久し振り。」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらいです。」
「さあ。もし子供のときに来たことがあるとすれば、三十年振りくらいでしょう。」
「そうだろうとも、そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮することはない。よく来た。実に、よく来た。」
この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何のことはない、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけのことなのだ。私には養子の父の心理が何かわかるような気がして、
「いや、もういいんだ。一時の汽車で、深浦へ行かなければいけないのです。」
「深浦へ? 何しに?」
「べつに、どうってわけもないけど、いちど見ておきたいのです。」
「書くのか?」
「ええ、それもあるんだけど、」いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるようなことは言えなかった。
「じゃあ、木造のことも書くんだな。木造のことを書くんだったらね、」とMさんは、少しもこだわるところがなく、「まず第一に、米の供出高を書いてもらいたいね。警察署管内の比較では、この木造署管内は、全国一だ。どうです、日本一ですよ。これは、僕たちの努力の結晶と言っても差し支えないと思う。この辺一帯の田の、水が枯れたときに、僕は隣村へ水をもらいに行って、ついに大成功して、大トラ変じて水虎大明神ということになったのです。僕たちも、地主だからって、遊んではいられない。僕は
木造から、五能線によって約三十分くらいで
深浦町は、現在人口五千くらい、旧津軽領の西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鰺ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、
「深浦の名所は何です。」
「観音さんへおまいりなさいましたか。」
「観音さん? あ、円覚寺のことを、観音さんと言うのか。そう。」このおばさんから、何か古めかしい話を聞くことが出来るかもしれないと思った。しかるに、その座敷に、ぶってり太った若い女があらわれて、妙にきざな
「君、お願いだから下へ行ってくれないか。」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめに
「あなたは、津島さんでしょう。」と言った。
「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いておいたのだ。
「そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので。」
「でも、あれは、偽名でもないのです。」
「ええ、ええ、それも存じております。お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるということは聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上がれ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の
私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしお
鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立ち寄った。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積み出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあったようだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがったさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方における家々の食膳を
鰺ヶ沢の町を引き上げて、また五能線に乗って五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まっすぐに、中畑さんのお宅へ伺った。中畑さんのことは、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いておいたはずであるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代におけるかずかずの
「時代だじゃあ。あんたが、こんな姿で東京からやって来るようになったもののう。」と、それでも
と言って、自分で立って
「これから、ハイカラ
「あ、それはいい。行っていらっしゃい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めっきり瘦せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の
「叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。
七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が
中畑さんのひとり娘のけいちゃんと一緒に中畑さんの家を出て、
「僕は岩木川を、ちょっと見たいんだけどな。ここから遠いか。」
すぐそこだという。
「それじゃ、連れて行って。」
けいちゃんの案内で町を五分も歩いたかと思うと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もっと町から遠かったように覚えている。子供の足には、これくらいの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであろう。それに私は、家の中にばかりいて、外へ出るのがおっかなくて、外出のときには目まいするほど緊張していたものだから、なおさら遠く思われたのだろう。橋がある。これは、記憶とそんなに違わず、いま見てもやっぱり同じように、長い橋だ。
「いぬいばし、と言ったかしら。」
「ええ、そう。」
「いぬい、って、どんな字だったかしら。方角の
「さあ、そうでしょう。」笑っている。
「自信なし、か。どうでもいいや。渡ってみよう。」
私は片手で欄干を
「夏には、ここへみんな夕涼みにまいります。他に行くところもないし。」
五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑わうことだろうと思った。
「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちゃんは、川の上流のほうを指差して教えて、「父の自慢の招魂堂。」と笑いながら小声で言い添えた。
なかなか立派な建築物のように見えた。中畑さんは、この招魂堂改築に就いても、れいの
「
「土地によるのじゃないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」
大川の土手の陰に、林檎畑があって、白い粉っぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感ずる。
「けいちゃんからも、ずいぶん林檎を送っていただいたね。こんど、おむこさんをもらうんだって?」
「ええ。」少しもわるびれず、
「いつ? もう近いの?」
「あさってよ。」
「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちゃんは、まるでひとのことのように、けろりとしている。「帰ろう。いそがしいんだろう?」
「いいえ、ちっとも。」ひどく落ちついている。ひとり娘で、そうして養子を迎え、家系を
「あした
「たけ、あの、小説に出てくるたけですか。」
「うん、そう。」
「よろこぶでしょうねえ。」
「どうだか。逢えるといいけど。」
このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。三十年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人によって確定されたといっていいかもしれない。以下は、自作「思い出」の中の文章である。
「六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。お寺へしばしば連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を
そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの
私の母は病身だったので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになってふらふら立って歩けるようになった頃、乳母にわかれて、その乳母の代わりに子守としてやとわれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮らしたのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。そうして、ある朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はっと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の思いで泣いて、それから、二、三日、私はしゃくり上げてばかりいた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはいない。それから、一年ほど経って、ひょっくりたけと逢ったが、たけは、へんによそよそしくしているので、私はひどく
「あなたが、こっちへ来ているということを、母はもう知って、ぜひ逢いたいから弘前へ寄こしてくれって電話がありましたよ。」と
「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちょっと立ち寄ろうと思っていますから、病院にもきっと行きます。」
「あすは小泊の、たけに逢いに行くんだそうです。」けいちゃんは、何かとご自分の支度でいそがしいだろうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでいる。
「たけに。」従姉は、
「でも、逢えるかどうか。」私には、それが心配であった。もちろん打合せも何もしているわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのである。
「小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いていましたけど、」とけいちゃんは立って、台所に
翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に
「修っちゃあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑いながら立っている。私より一つ二つ年上だったはずであるが、あまり老けていない。
「久し振りだのう。どこへ。」
「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢いたくて、他のことはみな上の空である。「このバスで行くんだ。それじゃあ、失敬。」
「そう。帰りには、うちへも寄って下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」
指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立っている。たけのことさえなかったら、私はこの
「じゃ、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さっさとバスに乗ってしまった。バスは、かなり込んでいた。私は小泊まで約二時間、立ったままであった。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言われる安東氏一族は、この辺に住んでいて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在ったものらしい。バスは山路をのぼって北に進む。路が悪いとみえて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしっかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を
「越野たけ、という人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。
「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野という
「前に金木にいたことがあるんです。そうして、いまは、五十くらいのひとなんです。」
私は懸命である。
「ああ、わかりました。その人ならおります。」
「いますか。どこにいます。家はどの辺です。」
私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。
「それで、その運動会は、どこでやっているのです。この近くですか、それとも。」
すぐそこだという。この路をまっすぐに行くと
「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」
「そうですか。ありがとう。」
教えられたとおりに行くと、なるほど田圃があって、その
「越野たけというひと、どこにいるか、ご存じじゃありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたずねた。「五十くらいのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。
「金物屋の越野。」青年は考えて、「あ、向こうのあのへんの小屋にいたような気がするな。」
「そうですか。あのへんですか?」
「さあ、はっきりは、わからない。何だか、見かけたような気がするんだが、まあ、捜してごらん。」
その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで
「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらじゃございませんか。」
「ちがいますよ。」ふとったおかみさんは不機嫌そうに
「そうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかったでしょうか。」
「さあ、わかりませんねえ。何せ、おおぜいの人ですから。」
私は更にまた別の小屋を
「ごめん下さい、ごめん下さい。」
「はい。」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、
「金木の津島です。」と名乗った。
少女は、あ、と言って笑った。津島の子供を育てたということを、たけは、自分の子供たちにもかねがね言って聞かせていたのかもしれない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀がなくなった。ありがたいものだと思った。私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で言える。私は、たけの子だ。兄たちに
「ああ、よかった。」私は思わずそう口走って、「たけは? まだ、運動会?」
「そう。」少女も私に対しては
「ずいぶん運動場を捜し回ったんだが、見つからなかった。」
「そう。」と言ってかすかに首肯き、おなかをおさえた。
「まだ痛いか。」
「すこし。」と言った。
「薬を飲んだか。」
黙って首肯く。
「ひどく痛いか。」
笑って、かぶりを振った。
「それじゃあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行っておくれよ。お前もおなかが痛いだろうが、僕だって、遠くから来たんだ。歩けるか。」
「うん。」と大きく首肯いた。
「偉い、偉い。じゃあ一つたのむよ。」
うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつっかけ、おなかをおさえて、からだをくの字に曲げながら家を出た。
「運動会で走ったか。」
「走った。」
「賞品をもらったか。」
「もらわない。」
おなかをおさえながら、とっとと私の先に立って歩く。また畦道をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入れ違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑って帽子をとった。
「あらあ。」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐに、その硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を。」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い
たけの
たけは、ふと気がついたようにして、
「何か、たべないか。」と私に言った。
「要らない。」と答えた。本当に、何もたべたくなかった。
「
「いいんだ。食いたくないんだ。」
たけは軽く
「餅のほうでないんだものな。」と小声で言って
「たばこも飲むのう。さっきから、立てつづけにふかしている。たけは、お前に本を読むことだば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきゃのう。」と言った。油断大敵のれいである。私は笑いを収めた。
私が真面目な顔になってしまったら、こんどは、たけのほうで笑い、立ち上がって、
「
「ああ、行こう。」
私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登った。砂山には、スミレが咲いていた。背の低い藤の
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年近く、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんなことは、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行ったときには、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんのときには
「子供は?」とうとうその小枝もへし折って捨て、
「子供は、幾人。」
私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答えた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて無遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったということに気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森におけるT君であり、五所川原における中畑さんであり、金木におけるアヤであり、そうして小泊におけるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいたことがある人だ。私は、これらの人と友である。
さて、古聖人の
津軽 太宰治/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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