一塊の土
芥川龍之介/カクヨム近代文学館
お
仁太郎の葬式をすましたのち、まず問題になったものは嫁のお
それだけにちょうど初七日の翌朝、お民の片づけものをし出した時には、お住の驚いたのも格別だった。お住はその時孫の
「のう、お民、おらあきょうまで黙っていたのは悪いけんど、お前はよう、この子とおらとを置いたまんま、はえ、出て行ってしまうのかよう?」
お住は
「そうずらのう。まさかそんなことをしやあしめえのう。……」
お住はなおくどくどと愚痴まじりの
「はいさね。わしもお前さんさえよけりゃ、いつまでもこの
お民もいつか涙ぐみながら、広次を
お民は仁太郎の在世中と少しも変わらずに働きつづけた。しかし婿をとる話は思ったよりも容易に片づかなかった。お民は全然この話に何の興味もないらしかった。お住はもちろん機会さえあれば、そっとお民の気を引いてみたり、あらわに相談を持ちかけたりした。けれどもお民はそのたびごとに、「はいさね、いずれ来年にでもなったら」といいかげんな返事をするばかりだった。これはお住には心配でもあれば、うれしくもあるのに違いなかった。お住は世間に気を兼ねながら、とにかく嫁の言うなりしだいに年の変わるのでも待つことにした。
けれどもお民は翌年になっても、やはり野良へ出かけるほかにはなんの考えもないらしかった。お住はもう一度去年よりはいっそう願をかけたように婿をとる話を勧め出した。それは一つには
「だがのう、お民、お前今の若さでさ、男なしにやいられるもんじゃなえよ」
「いられなえたって、しかたがなえじゃ。この中へ他人でも入れてみなせえ。
「だからよ、与吉を貰うことにしなよ。あいつもお前このごろじゃ、ぱったり
「そりゃおばあさんには身内でもよ、わしにはやっぱし他人だわね。なに、わしさえ我慢すりゃ……」
「でもよ、その我慢がさあ、一年や二年じゃなえからよう」
「いいわね。広のためだものう。わしが今苦しんどきゃ、ここの家の
「だがのう、お民、(お住はいつもここへ来ると、まじめに声を低めるのだった。)なにしろはたの口がうるせえからのう。お前今おらの前で言ったことはそっくり他人にも聞かせてくんなよ。……」
こういう問答は二人の間に何度出たことだかわからなかった。しかしお民の決心はそのために強まることはあっても、弱まることはないらしかった。実際またお民は男手も借りずに、
お民は女の手一つに一家の暮らしを支えつづけた。それにはもちろん「
お住はまたお民に対する感謝を彼女の仕事に表わそうとした。孫を遊ばせたり、牛の世話をしたり、飯を炊いたり、洗濯をしたり、隣へ水を
ある秋も暮れかかった夜、お民は松葉束を抱えながら、やっと家へ帰って来た。お住は広次をおぶったなり、ちょうど狭苦しい土間の隅に
「寒かっつらのう。
「きょうはちっといつもよりゃ、余計な仕事をしていたじゃあ」
お民は松葉束を流しもとへ投げ出し、それから泥だらけの
「すぐと風呂へはえんなよ」
「風呂よりもわしは腹が減ってるよ。どら、さきに
お住はよちよち流し元へ行き、
「とうに煮て待ってたせえにの、はえ、冷たくなってるよう」
二人は藷を
「広はよく眠ってるじゃ。床の中へ転がしておきゃいいに」
「なあん、きょうはばか寒いから、下じゃとても寝つかなえよう」
お民はこう言う間にも煙の出る藷を頰張りはじめた。それは一日の労働に疲れた農夫だけの知っている食いかただった。藷は竹串を抜かれる側から、一口にお民に頰張られていった。お住は小さい
「なにしろお前のように働くんじゃ、人一倍腹も減るらなあ」
お住は時々嫁の顔へ
お民はいよいよ骨身を惜しまず、男の仕事を奪いつづけた。時には夜もカンテラの光に菜などをうろ抜いて
しかしお民の「
「いいかの、お民。おらだって逃げる
お民も
お住はまたこの時以来、婿を取る話を考え出した。以前にも暮らしを心配したり、世間をかねたりしたために、婿をと思ったことはたびたびあった。しかし今度は
ちょうど裏の
「でもの、そうばかり言っちゃいられなえじゃ。あしたの宮下の葬式にゃの、ちょうど今度はおららの家もお墓の穴掘り役に当たってるがの。こういう時に男手のなえのは、……」
「いいわね。掘り役にはわしが出るわね」
「まさか、お前、女のくせに、──」
お住はわざと笑おうとした。が、お民の顔を見ると、うっかり笑うのも考えものだった。
「おばあさん、お前さん隠居でもしたくなったんじゃあるまえね?」
お民は胡坐の膝を抱いたなり、冷ややかにこう
「なあん、お前、そんなことを!」
「お前さん広のお
「ああさ。そりゃそう言ったじゃ。でもの、まあ考えてみば。時世時節ということもあるら。こりゃどうにもしかたのなえこんだの。……」
お住はいっしょうけんめいに男手のいることを弁じつづけた。が、とにかくお住の意見は彼女自身の耳にさえもっともらしい響きを伝えなかった。それは第一に彼女の本音、──つまり彼女の楽になりたさを持ち出すことのできないためだった。お民はまたそこを見つけどころに、相変わらず塩からい豌豆を嚙み嚙み、ぴしぴし姑をきめつけにかかった。のみならずこれにはお住の知らない天性の口達者も手伝っていた。
「お前さんはそれでもよかろうさ。先に死んでってしまうだから。──だがね、おばあさん、わしの身になりゃ、そう言ってふて腐っちゃいられなえじゃあ。わしだって何も晴れや自慢で、後家を通してる訣じゃなえよ。骨節の痛んで寝られなえ晩なんか、ばか意地を張ったってしかたがなえと、しみじみ思うこともなえじゃなえ。そりゃなえじゃなえけんどね。これもみんな家のためだ、広のためだと考え直して、やっぱり泣き泣きやってるだあよ。……」
お住はただ
「だがの、お民、なかなかお前世の中のことは
二十分ののち、誰か村の
「どら、寝べえ。朝が早えに」
お民はやっとこう言ったと思うと、
お住はその後三、四年の間、黙々と苦しみに堪えつづけた。それはいわばはやり切った馬と同じ
お住は実際はた目にはほとんど以前に変わらなかった。もし少しでも変わったとすれば、それはただ以前のように嫁のことを褒めないばかりだった。けれどもこういう
ある夏の日の照りつけた真昼、お住は
「お民さんはえ? ふうん、干し草刈りにの? 若えのにまあ、なんでもするのう」
「なあん、女にゃ外へ出るよか、うちの仕事がいちばんいいだよう」
「いいえ、畠仕事の好きなのは何よりだよう。わしの嫁なんか
「そりゃそのほうがいいだよう。子供のなりも見よくしたり、自分も
「でもさあ、今の若え者はいったいに野良仕事が嫌いだよう。──おや、なんずら、今の音は?」
「今の音はえ? ありゃお前さん、牛の
「牛の屁かえ? ふんとうにまあ。──もっとも炎天に甲羅を干し干し、
二人の老婆はこういうふうにたいてい平和に話し合うのだった。
仁太郎の死後八年余り、お民は女の手一つに一家の暮らしを支えつづけた。同時にまたいつかお民の名は一村の外へも
ある秋晴れのつづいた午後、本包みを抱えた孫の広次は、あたふた学校から帰って来た。お住はちょうど納屋の前に器用に
「ねえ、おばあさん。おらのお母さんはうんと偉い人かい?」
「なぜや?」
お住は庖丁の手を休めるなり、孫の顔を見つめずにはいられなかった。
「だって先生がの、修身の時間にそう言ったぜ。広次のお母さんはこの近在に二人とない偉い人だって」
「先生がの?」
「うん、先生が。噓だのう?」
お住はまず
「おお、噓だとも、噓の皮だわ。お前のお母さんという人はな、外でばっか働くせえに、
広次はただ驚いたように、色を変えた祖母を眺めていた。そのうちにお住は反動の来たのか、たちまちまた涙をこぼしはじめた。
「だからな、このおばあさんはな、われ一人を頼みに生きているだぞ。わりゃそれを忘れるじゃなえぞ。われもやがて十七になったら、すぐに嫁を貰ってな、おばあさんに息をさせるようにするんだぞ。お母さんは徴兵がすむまじゃあなんか、気の長えことを言ってるがな、どうしてどうして待てるもんか! いいか? わりゃおばあさんにお父さんと二人分孝行するだぞ。そうすりゃおばあさんも悪いようにゃしなえ。なんでもわれにくれてやるからな。……」
「この柿も
広次はもうもの欲しそうに
「おおさえ。くれなえで。わりゃ年はいかなえでも、なんでもよくわかってる。いつまでもその気をなくすじゃなえぞ」
お住は涙を流し流し、
こういう小事件のあった翌晩、お住はとうとうちょっとしたことから、お民とも烈しいいさかいをした。ちょっとしたこととはお民の食う藷をお住の食ったとかいうことだけだった。しかしだんだん言い募るうちに、お民は冷笑を浮かべながら、「お前さん働くのが
「広、こう、起きろ。広、こう、起きて、お母さんの言い草を聞いてくよう。お母さんはおらに死ねって言っているぞ。な、よく聞け。そりゃお母さんの代になって、銭は少しは
お住は大声に罵り罵り、泣き出した孫と抱き合っていた。が、お民は相変わらずごろりと炉側へ寝ころんだなり、そら耳を走らせているばかりだった。
けれどもお住は死ななかった。その代りに翌年の土用明け前、じょうぶ自慢のお民は腸チブスに
お民の葬式の日は雨降りだった。しかし村のものは村長をはじめ、一人も残らず会葬した。会葬したものはまた一人も残らず
お民の葬式をすました夜、お住は
お住は思わず目を開いた。孫は彼女のすぐ隣に
お住は四時を聞いたのち、やっと疲労した眠りにはいった。しかしもうその時にはこの
(大正十二年十二月)
一塊の土 芥川龍之介/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます