暗黙の了解 2(グッドエンド)

帆尊歩

第1話 暗黙の了解 2(グッドエンド)


俺の目の前には無機質な空間が広がり、人一人が入れるガラスのカプセルが並んでいる。

ここはゾーン

そこで俺は目覚めてしまった。


自らの意志で。



世界は原因不明のウイルスが蔓延した。

世界規模の蔓延は、これまた世界規模の対策を練る必要があった。

誰もがマスクをして、防御シールドをかぶった。

でも次々変異して行くウイルスに、人類は無力だった。

特にたちが悪かったのは、感染から発症までの潜伏期間があまりに長かった。

そして分からなかった。

潜伏期間が長いので、待機期間という物も設定できない。

もし本当に待機期間を設けるなら、年単位の待機期間だ。

だから誰が感染して、保菌者になっているか分からない。

健康でいてもある日発症し、死んでしまう。

通常、こういう場合に起こる差別は生まれなかった。

差別される側と、差別する側の境がないのだ。

誰かをどこかに隔離しても、隔離された人ではなく、隔離した側の人間が発症したりする。

効果的な対策を打ち出すことが出来ないまま、人類は緩やかに後退していった。

人々は荒れ、略奪、暴行は当たり前になった。

警察も機能しなくなっていって、仕方なく人々はコミュニティーで結束して自警団を作った。

でも、またその中で発症する者が出る。

街は自然と破滅して行き、世界は荒廃していった。



プロジェクトノア。

その名前を知っている人間は、そうは多くないだろう。

感染で人が死に、どこの国も末期的な状態になった。

どこの国の政府も力が衰えていった。

そんな力が衰えた政府が、各国共同で最後に発動したプロジェクト、それがプロジェクトノアだった。

全世界から、確実に感染していないだろう人間を三千人選んで隔離する。

三千人は確実に感染していないはずだが、絶対に大丈夫とはとは言い切れない。

そこで誰一人、別の人間とは接触をさせないようにした。

そのため選ばれた三千人は、一人一人カプセルに寝かされ、保存された。

そして意識だけが、作られた仮想空間で生活した。


ゾーンはまさにノアの方舟だ。

人間という種を保存するための施設がゾーンだ。

ゾーンは避難施設ではない。

あくまでも人間と言う種を保存するところだ。

誰も近づけない場所を選んで、誰も手を出せない施設にする必要があった。

だからこの北欧の果て、北極圏の島が選ばれた。

そして施設の大半が地下で、地上に出ているのは入り口となる扉のユニットだけだった。

間違えて誰かが来ても、大きめの農業倉庫か、インフラのための無人の中継施設くらいにしか見えない。


感染しないため人は触れ合ってはならない。

そのため体はオリジナルとしてカプセルに保存され、意識だけを仮想空間で生活させた。

そこには自分のアバターが仮想空間の中に作られ、意識の中だけで生活をする。

そんな中で俺は一人の女と出会った。

それが優香だ、俺は優香を心から愛した。

しかし、仮想空間の中のアバターに人の温もりを体感することは出来ない。

心から優香を愛した俺は、どうしても優香と触れ合いたくなった。

その思いは日増しに強くなり、俺は自らの意志をオリジナルの肉体に戻すことに成功した。

でも、オリジナルの優香は、老婆であり、オリジナルの俺は老人だった。

仮想空間の中では俺も優香も二十代、優香の張りのある美しい体も、俺の引き締まった肉体も、リアルでは存在していなかったのだ。



俺は老いた体を引きずるようにして、優香のカプセルの横に来ると、そのまま座り込んだ。

そもそもどれくらいカプセルに寝ていたか分からない。

足の筋肉は衰え、ただ歩くだけでも困難だった。

無数の管につながれた心から愛した女を。

優香の体を見つめる。

老いた優香の体は、仮想空間の美しい張りのある、二十代の体とは似ても似つかない。

こういう現実があるから、仮想空間では詮索をしないというのが、暗黙の了解だったと言うことだろう。

俺は徒労感と、絶望感に打ちひしがれ、随分長いこと優香の体の横に座り込んでいた。

この施設に管理者はもう存在しなかった。

今更仮想空間に戻ることは出来ない。

いったいどれくらいそうしていただろう、俺は少し心が落ち着いたのか、立ち上がり、優香を見つめた。

すると優香のすぐ横にさっきは気付かなかったが、分厚いノートが置いてあった。

手に取ると優香の自伝だった。

優香はこのカプセルに入るにあたり、自分の生きてきたダイジェストを書いたのだった。

こういう日記は見ないことが礼儀であり、読まないことが暗黙の了解だが、俺は読ませて貰うことにした。

そこには、優香が生きてきた様が、克明に記されていた。

それは一人の女の人生がどういう物だったか、その人生に優香がどのように挑み続けていたか。

その様は仮想空間では、決して知り得ることの出来なかった優香の本当の姿だった。

そして俺は考える。

なぜ俺は優香を愛したのか。

優香の引き締まった体とか、美しい顔を愛したのではないだろう。

確かに俺は優香の温もりを感じたかった。

優香の唇の柔らかさを感じたかった。

でもそれだけなのか。

嫌、違う。


優香そのものを愛していた。

優香の自伝を読んで、さらに優香の生き様に触れて、俺はようやく分かった。

俺は優香の引き締まった体でも、美しい顔を愛した訳でもない。

優香という存在を愛したんだ。

姿形は関係がない。

それが優香であるなら。

俺はやはり優香を心から愛しているんだ。

俺は重い体をやっとの思いで持ち上げ、立ち上がった。

そして優香の無数の管が取れないように優香を抱き起こした。

筋肉の落ちた優香の体は酷く軽かったが、確かにアバターの優香の体だった。

かなりの年月がたっていたが、確かに優香の体だった。

やっと触れることが出来た。

これがあんなにも望んだ優香の体の温もりだ。

なんて暖かいのだろう。

そして柔らかいのだろう。

俺は優香を抱きしめる。

それはあまりに華奢で強く抱きしめると壊れてしまいそうだった。

でもだからこそ、そこに愛おしさが宿る。

ああこれが優香の温もりだ。

俺は、優香の唇にキスをする。

仮想空間で何度も交わした優香とのキス。

でもそこに感触はなかった。

これが優香との本当のキスなんだ。

なんて柔らかくて、優しい感触なんだろう。

俺の目から自然と涙がこぼれた。

優香がどんな姿でも。

俺は優香の事を愛している。

「優香」

「優香」

俺のこぼれた涙が、優香の頬を濡らす。

「優香」



しばらくすると優香の目から涙がこぼれた。

それはこぼれた俺の涙ではない。

そしてその綺麗なまつげが震えるように動いた。

「優香」

優香のまぶたがゆっくり開かれる。

「優香、どうして?」


「あたしを、あたしを呼ぶ声がした。あなただと言うことは分かった。

でもどこから呼ばれているのか分からない。あなたは勝手に消えた。あなたがオリジナルに戻ったことは分かったけれど、なんであたしを置いてと思った」

「ごめん。でもどうなるか分からなくて」

「あたしの唇に、何かが触れた。それは仮想空間では決してなかったこと。するとあたしの心は急速にどこかに引き戻された」

「優香、ごめん。俺が優香をここに呼んでしまったんだね」

「何を言っているの。あたしは寛人と一緒にいたかった。だから呼ばれたことに感謝しているの」

「でも俺はこんなおじいちゃんだ」すると優香も自分の体を見た。

「あたしだって、おばあちゃんだわ。夢みたい。裸で抱き合えるなんて。寛人の体はとても温かかったよ」そう言って優香は笑った。

俺はもう一度優香を強く抱きしめた。

そこには、求めても、求めても得られなかった、優香の柔らかさが伝わった。

そしてあんなにも欲しかった優香の温もりが伝わった。

「おかしな物ね」

「何が?」

「だって。キスで目覚めるなんて。どこかのお姫様みたい」

「しょうがないさ。それが世界の暗黙の了解なんだ」

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暗黙の了解 2(グッドエンド) 帆尊歩 @hosonayumu

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