あァ、沈んでく

真白 まみず

永久を夢む

 人は人生に一度きり、月降る夜に出会えるチャンスがある。

 その現象が起きる条件は、夜の海を崖から眺めること。

 遠く離れた月が、降ってくるらしい。

 私は手ぶらで、月降る夜を見に来ていた。


 虚無に佇む夜。

 風が後ろで泣いている。

 私に向かって、泣いている。

 その声がよく、聞こえる。

「もう、あと少しだよ」

 私の後ろから、風が先に走っていった。何も恐れることはないよ、と私の耳元で言い残して。

 夜の海に悠々と佇む月は、風が泣くのをまるで自分と共鳴するかのように深く、抱き込む。

 羨ましい。

 私が月の方を見ていると、海の上で、月が私に言う。

「こっちに来たら?」

 軽く言ってくれる。

 それが何でもないかのように。

 まるで自然の理かのように。

「あなたと一緒になったら、どうなるの?」

 返事はない。

 ただただ私を、じっと、見つめるだけ。無表情でじっと、見つめるだけ。

 私の後ろからさっき月の元へ行ったはずの風が、私に向かってまた、泣いてくる。

「さぁ、月のもとへ行こうよ」

 そんなこと言われたって、無理。

 月を妬み、風を拒み続けていた私は今更、月のもとになんて行けないし、風の言うことなんて聞けない。

「もう、夢を見ていいんだよ」

 私はまだ、その場で静止している。つもり。

 甘い言葉にそそのかされた私が、心の弱さを見せる。自分自身でもそれを理解していない。

 理解してくれるのは、ずっと私と一緒にいてくれる大地だけ。

 だからこそ、私の足が僅かに月の方へ向かったと気づいていた。

「行っちゃだめだ」

 大地が私の足を掴む。

 抱きかかえるように、私を掴んでいる。

 そして心配そうな目で、私を見ている。

 そんな目しないで。

「月の方になんて行くな。想像もつかないような、未知が待ってるぞ」

 わかってる。

 私だってそんなこと、わかってる。

 でももう、私は月と一緒になりたい。

 どんな不安も、どんな恐怖も、月は私を守ってくれる。どんなことも、

「大地には悪いことをしたと思ってる。大地の期待を散々裏切ってるのに、私は大地とずっと一緒にいた。でも、大地にずっと迷惑をかけ続けるわけには行かない。私の落とし前は、私がつける」

 そう言うと、悲しそうな、寂しそうな顔をする大地。

 掴み続ける大地にさらに私は、泣き喚いて、罵って、蹴る。

 それでも大地もそれを拒んで、私を掴み続ける。

 大地は優しいな。

 なんて、私は改めて実感した。

 だからときに私を怒り、私を制裁し、私を束縛し続けた。逃げることは駄目だ、向き合わなくちゃ駄目だ。そう私に教えてくれていた。

 どれだけ私が拒もうと、いつまでも追いかけ続けてくれた。大地は、私が大地から離れたら、もう戻れなくなるのを知ってるから。

 それでも、もう終わり。

「さ、行こう」

 風が優しく、私の背中を押す。

 それを合図に、大地が私を離した。

 月まで、あと一歩。

 息が荒くなる。

 行け。

 行けよ。

 行けよ私!!

 大地を裏切ってまで、私は月を選んだ!

 振り返るなよ!

 大地を見るなよ!!

 自分に言い聞かせる。

 目を瞑る。

 そしてゆっくりと、目を開ける。

 すると、ずっと無表情だった月の顔が揺れた。

「私と永久に生きよう!」

 月と風が、私に大きな勇気を与えた。

 そして私は、月に走った。


 風を感じながら、私は月に飛び込む。

 段々近づく月と、段々離れていく大地。

 寂しそうに大地が私を見つめている。

 もう振り返るな!!!

 終わったことは思い出すな!!

 大地との思い出なんて、捨ててしまえ!!

 何も思うことなんてない。

 私の決断に間違いはない!

 私は大地に散々なことをした。

 現実をもう振り返るな!!

 現実を思い出すな!!

 現実の思い出なんて、捨ててしまえ!!

 現実に思うことなんてない。

 私はずっと、判断を間違えてきた。

 あれ、なら、今回も?

 違う!!

 私は正しい!!

 私は私の周りの人たちに散々なことをした。

 だから私は、私で落とし前をつけるだ!!

 永久に生きろ!!

 風と月が私の全てを守ってくれる!

 幻が私の全てを守ってくれる!

 ふと気になって、私は現実を見た。大地を見た。これだけ言ってもなお、現実は私を寂しそうに見つめていた。

 これは、後悔。

 私は結局また、甘えたんだな。

 月が私を迎えるように近づいてきた。

 私にとっては最初で最後の、月が降る夜。

 そして私は、月に沈んだ。

 あァ、沈んでいく。


「私は、永久を夢む」

 真っ暗な星空の中、虚無に私はそう、話しかける。

「永久においで。ずっと夢を見て生きていこう。現実を感じることもない、君が思った通りのことしか起きない。これが、夢。ずっと夢。

 夢は永久に。永久に夢を」

 月からの返事が返っきた。

 私はもっと深く、月に沈む。

 沈めば沈むほど、大地が、いや現実が恋しくなる。

 今回も判断を、間違えたんだな。

 ここには風なんて居ないし、星明かりもない。

 ただただ広がる、暗闇。

 私は永久を感じて沈んでいく。

 永久に、沈んでいく。

 あァ、沈んでいく。


 私がさっきまでいたそこには、誰もいない、虚無が広がっていた。

 現実では小さく、変化が起きる。世界が変わるようなものではない、小さな小さな変化。

 私に関わった人だけが、感じる変化。

 こうして私という「思い出」は美化され、人の記憶として永久に生きる。

 人の思い出に、沈んでく。

 永久に沈んでく。

 あァ、沈んでいく。


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あァ、沈んでく 真白 まみず @mamizu_i

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