後編




 日々は穏やかに過ぎる。

 そもそも聖女を戴く世界ではあるが、大きな厄災や敵が存在するわけではない。だから聖女が行うことといえば、おおよその場合生活に慣れるということであろう。

 ザデクは警備の時間を利用し、ほとんど毎日のように少女の勉強を見ていた。

 少女は全く喋らない。だがその理解力は高く、教え始めてすぐに簡単な単語は習得したと見え、ザデクは内心舌を巻いた。

 音と意味とをきちんと擦り合わせて理解している。ならば片言でどうにかなるのではないか、と思いかけるが少女は喋らないのだったと考えを打ち消す。喋らないのか喋れないのかはわからないが、ザデクは強制するつもりがない。

 聖女は聖女自身の思うとおりに生きるべきなのだ。

 ──だというのに。

 問題はゼレントである。

「なんだあの女は!」

 ゼレントは新たな聖女が自分の妃になると信じて疑わない男だ。父の代ではならなかったが、自分は王者たる王になるべき男なのだと厚顔にも自負している。

 しかしやってきた聖女は一言も喋らなかった。幾らゼレントが語りかけても反応はゆるく、せめてわからないなりに合掌をやり返してくれさえすれば契約はなるというに、これがまた全く返さない。

「聖女かもしれんが阿呆では意味がない。こうなればずっとどこぞに仕舞い込むしかあるまいな!」

 聖女という存在の在り方を、ゼレントは学んでいる筈だった。けれど蓋を開けてみればこれで聖女の軽視も甚だしい。聖女を軟禁などと、世界の安寧を無に帰す発言と同義だ。

 あまりの事態に水面下で動くものがあったがゼレントは露知らず、側近達と共に少女を口汚く罵り唾を吐くまでするようになったらしい。ザデクも水面下の仔細を知らぬ者であったけれど、ゼレントの愚行は既に知らぬ者はない状態となっていて胸を痛めるばかりであった。

『合掌は契約です。こちらでは結婚の契約です。二人でするものですが、聖女は一人で出来ます。前の聖女、私の育ての母、第一夫人。父と会った時、助けてもらってお礼に拝んだと言ってました。それだけだって怒っていました。第二夫人、私の生みの母と生活出来て幸せそうでした。でも、母を第二夫人にしたことを後悔してました』

 いつものように柱の裏、少女が小さく座り込んでいる。ザデクもまたいつものように柱の前にしっかと立って警備を行いつつ、様々なことを一方的に喋っていた。

 話す内容はいつも適当だ。旬の食べ物のこともあればこの世界の宗教のことであったり、日々の挨拶のこと、貴族のこと、脈絡もなくなんでも話した。

 今日は前聖女の話である。ザデクを育てた、賢いエリのこと。

『前聖女は父と夫婦でしたが、夫婦でも恋人でもありませんでした。父の恋人は第二夫人だけ。二人をいっときでも離したことを、前聖女は後悔してました。だから私が生まれてとても喜んで、祝福をいっぱいしました。なので私は黒い髪で黒い目。私は聖女の子供ではありません』

 ぱ、と少女がザデクを見ているのがわかる。ザデクはうっすらと笑みを浮かべ、『祝福を受けた人間はこうなります』と毛先をつまんだ。

『聖女の子供ではありませんが、聖女は私を慈しんでくれました。そしていつか新たな聖女がやってきた時に、もし出来るなら手を貸してやってほしいと言い残しました。だから私はニホンゴを学びましたし、貴女に初めてお会いした時注意をすることが出来ました』

 ──合掌をするな。手を合わせるな、拝むな。

 それは契約を強制してしまう、あるいは知らず〈契約させられてしまう〉聖女への一助でもある。

『聖女は幸せでなければなりません。だから、貴女も幸せにならなければなりません。私は貴女の為に幾らでも手をお貸しする覚悟があります』

『……有難う』

 小さな声だった。思わず目を見開いて振り返れば、少女はザデクを見上げて笑顔を浮かべている。そうして脱兎の如く去っていく後ろ姿に、ザデクはぼんやりと呟いたのだった。

「喋れたのか……」




 それからしばらく、ザデクは少女と会うことはなかった。間近に迫るお披露目の式典を思えば自由がなくなったと考えるのが道理だ。ザデク自身も祝福の子であるし、前聖女を戴いていた家門である立場上、騎士としてではなく公爵家嫡男としての参加が定められている。

「ほうら、きちんとして。貴方は背を正さねばならないのだから」

 衣装を新調し、母は忙しない。新たな聖女のお目見えとあらば興奮も隠せないのだろう。

「ザデク、聖女様はエリとそっくりでいらっしゃるのよね」

「ええ。お母様とまるきり同じに、濡れたような黒を纏っていらっしゃいました」

 なんて素晴らしいことかしら……と母は聖女の話を聞くたびに涙目になる。彼女は死ぬまで大切にしてくれたエリに心酔していると言っていい。だから同じ色彩の聖女というだけでその喜びときたら一入なのだった。

 当日の式典会場でエヴェンデ公爵家として上座に控えていると、国王一家と共に聖女がやってきた。国王、王妃、そして聖女を先頭に王子達……。相変わらずゼレントは顔を取り繕うことも苦手な性質と見え、ザデクは溜息を噛み殺す。その横、母は聖女を視界に入れた瞬間涙なみだで喜びに溢れていた。

 この場の感情はまるで十人十色であろうが、それでも圧倒的に聖女への敬愛の方が高いだろう。聖女は敬うに値するという世界における当然の感謝、それは今の彼女にとって救いのひとつだ。

「改めて紹介しよう、此度降臨された聖女殿である」

 国王がよく通る声で披露目をすると、件の少女は進み出てお辞儀をひとつするなり一人さくさくと歩き出した。近衛が慌てるも国王の制止が飛び、誰もそれを止めることが出来ない。

「……」

 ざわめく会場で少女はザデクの前まで辿り着いた。他国の王族使者の一団とは別に集まる自国民の中、ザデクは黒一点で判別も容易かったに違いない。目を見開いた一家をどう見たか、少女は小さく笑って──、合掌したのだ。

 途端、契約の波が辺りに広がった。温かで輝かしいそれにザデクと少女の婚姻が成立する。

「わたし、ナナ。これからおねがい、します」

「……」

 ザデクはぽっかりと口を開けた。隣り合う母は感動で大泣きだし、父は母の肩を抱いたまま頭を抱えている。

「聖女、さ」

「あり得ない!」

 ザデクがようよう口を開こうとした刹那、その言葉尻を奪ったのはゼレントの叫び声だった。ゼレントは真っ赤な顔を晒し、壇上で子供のように足を踏み鳴らしているではないか。

「あり得ません父上! こんな馬鹿馬鹿しいことがありますか! 聖女は私の妃となる者です! ザデクを捕らえよ!」

 ゼレントが指示するも近衛は動かない。「クソ共が!」とゼレントの側近達がわらわら走ってくるのに、国王が一喝した。

「愚か者共が!」

「父上、だって!」

「ゼレント、この場は公式の場である。ゆえに言葉遣いを改めよ」

「父上!」

「そこの者。この馬鹿者を捕らえよ」

 国王の指図はゼレントの捕縛だ。思ってもみないことにゼレントは惚けたが、瞬時近衛に腕を固められ膝をつく羽目になってしまった。

「客人の方々、そして多くの臣民よ。このハレの場を汚した非礼を詫びよう。また、この罪を今償わせるものとするゆえ、しばし時間をもらいたい。……有難う」

 辺りを見渡した国王は静まり返った様にひとつ頷くと、訥々と口を開いた。

「……まず、第一王子ゼレント。お前は何故、聖女が己の妃になると思い込んだのか……」

「……? 聖女は私の妃となる存在ですが……?」

「……それを言ったのは?」

「皆です!」

「皆、とは」

「皆です! 昔から!」

「誰か述べてみよ。名前が思い出せぬと馬鹿なことを言うのであれば指で示すでもよい」

「……お、おりません……」

「何故おらぬ」

「知りません! 昔のことです! 代替わりでもしたのでしょう!」

 床に這いつくばるような状態ですら暴れるゼレントはなかなか頑固だ。ザデクは妙に感心しながらその様を眺めつつ、少女ナナに小さく同時通訳していた。当事者をして蚊帳の外はいただけないことだからだ。

「昔、大臣達が一斉に代替わりしたことがある。聖女の怒りを受けてな」

「……聖女の怒り……?」

「聖女に対し、非礼を働いたのだ。何故国王と契約を結ばなかったのだと言い募り、あまつさえ前王妃にも退くよう告げた。私には何も知らせぬまま」

 王妃は何も語らず、けれど日に日に病み衰えた。ようやく王子を産み落としてそのまま寝付き、儚くなった。

「お前はその間、その馬鹿共にずっと言われてきたのだろう。お前こそが次の聖女を得るのだと。ある日そうした事実を知った聖女は怒りに怒った。……聖女は人を死に至らしめる存在ではない。しかしその強き思いはしっかりと成果を出す」

 関わっていた大臣達は一人残らず毎晩の悪夢に魘され、全身抜毛し、生殖機能がなくなった。そうして聖女に罪人だと罵られ、隠遁したのである。

 この世界で聖女に敵視された人間など、今後平穏な生活を望むべくもない。彼らはすっかりぬるま湯に浸り、つまり今のゼレントのように聖女という存在を軽んじて、己の肩書に胡座を掻いていたのだ。

「残るはすっかりと騙されたお前ばかりだった」

「私は、私は騙されてなどいません! 私は正しい! 私は父上よりもずっと王たる王になる!」

「お前が正しければ、とっくに立太子している」

 びくりとゼレントの肩が震えるのは恥辱からだろうか。

「私は常々説いてきた。世界はお前の思うように回るものではないと。慎めと。けれどお前は私の言葉を全て聞き流した。前王妃の為と、お前を甘やかしたのは私の責任だ。私の責任でお前の今後を決めた。続いてヤーラヤ女王、如何か」

 国王が手を振ると客席側から一人の女性が進み出た。すらりとした背の高いかの女性はひとつ頷くと「受け入れよう」と答える。

「その気はなかったが斯様な馬鹿では仕方がない。この国にあっては聖女殿の毒となろう」

「恩に着る」

「なあに、聖女殿からの御恩には到底及ばぬ」

 からからとヤーラヤ女王は笑う。

「その馬鹿と共連れ、全員まとめて我が後宮に生涯閉じ込めよう」

「な、父上!」

「万が一これらの子供が出来ても我が国の継承権は与えぬ。王子でも貴族の子息でもなく、ただの男として我が後宮の男共にどやされながら生きるとよい。私はお前達を絶対に殺しはせぬ。それでよいな? ラクラン公王」

「十分だ」

 青い顔を晒したゼレントを、国王は見下ろした。

「愛した女のたった一人の息子よ。せめて彼の地で生きるとよい」

 喚くゼレント達はそのまま裏に引きずられていった。途中からの展開にすっかり言葉を失っていたザデクが通訳を再開すると同時、国王とヤーラヤ女王とが揃ってナナに向かって頭を下げた。

「聖女殿には大変なご迷惑をおかけした。いつ如何なる時でも我が名にかけて、今後の安泰をお約束する」

「私からは新たな聖女殿に大いなる感謝を。この感謝を日々抱き締め、勤めて参ります」

 ヤーラヤ女王の治める島国は荒波を抑え、糧を得やすくした聖女をいたく信仰している。だからこそ聖女を貶めたゼレント達を許すことなく、絶対島から出さないだろう。ゼレント達はこれから自分達の肩書も全て失い、もしや互いにいがみ合いながら生きていくのかもしれない。

 簡単な通訳を終えるとナナはにっこりと笑った。

「これから、どうぞ、よろしくおねがい、します」

 温かな光がまた波状に広がっていく。こうして新代聖女が就任し、また婚姻も成ったのである。




 ***




「あの王子、ぜったいにせいかくが悪いと思ったの! ほんとにザデクがいてよかった!」

「そうよねえ、そうよねえ。ナナが来てくれて嬉しいわあ」

 ザデクが帰宅すると母とナナとが元気にゼレントを罵っていた。どれだけ経ってもゼレントを罵る時は元気だとザデクはしみじみ思う。

「あ、おかえりなさい! ごめんなさい、おむかえ間に合わなかったわ」

「ただいま。構わないからお茶をしていていいよ」

「いいのよ、私が外すわ」

 母は楽しそうに父の書斎へと菓子皿を持って去っていく。二代続けての聖女の嫁入りに父は当初倒れ込んだものの、母が嬉しそうなので最終的には何も言わずに受け入れていた。いつでも母には弱い男なのだ。

「どうだった?」

「陛下と殿下は了承してくださった。二人で教会にも話を進めてくださるそうだよ」

「よし!」

 ザデクが言うのにナナは腕を振り上げた。

 ナナは現在これから来る聖女に向けた手引書を書いている。まずはニホンゴ、それと複数の言語で書くつもりらしい。流石言葉の習得が早かった筈だと思うほど、ナナは複数の言語に通じていた。それを駆使してこれからの聖女の為になるような物を作りたいという彼女に、陛下と第二王子であった王太子は即座頷いたのだ。

「まず言葉がつうじないのがいけないと思うのよね。だからだましうちがあると思うの。そこを少しでもどうにか出来ればと思って」

 エリが憂いたことを、ナナが形にしてくれる。これほど幸いなことはなく母はよく泣いた。いい嫁姑の関係が築けているようにザデクは思っている。

 ナナは頭のいい少女で、あの式典のあときちんとザデクに謝罪してくれた。

「だましたみたい、ごめんなさい。でもあなただけ。わたし、しんぱいしてくれた」

 そうではないと思う。きっと多くの人間がナナを大切にしてきた。けれどそれは聖女に対してのそれで、ナナはずっと萎縮してきた。その極めつけがわざとらしいゼレントであったのだろう。

 その中でザデクだけがナナと会話が出来、ほどほどに彼女を構い、放置した。それだけなのだ。

「ずっと思っていたんだけれども、ナナ、君は沢山の言葉が扱えるんだね?」

「うん。私、『牧師の養女』でいろんな国のきょうだいがいたのよ。いろんなひとも見てきたの」

『ぼくし? ようじょ?』

「うーんとね、エリさんが『寺の娘』だっけ、私が『教会の娘』」

「?」

「あるいみ近いってこと!」

 きゃらきゃら笑ってナナはザデクに抱き着いてくる。こうした朗らかさはエリにもよく似ていて懐かしさに胸が熱くなるし、最近はそれ以上に愛おしさも出てきた。外に向けた礼儀作法はエリの時のように母が喜んで教えているから問題ない。家の中では自由にしていてほしいし、自由にしているべきだ。

 聖女は幸せになるべきだ。だから、ザデクは彼女を幸せにする。

「ザデク、ほんとうにありがとう! 私、ザデクをしあわせにするからね!」

「こちらこそ」

 愛はきっと芽生えるだろう。そして長く続くだろう。きっと違わぬ未来に、ザデクはにっこりと笑ったのだった。




 いつかの果て、聖女は一冊の本を書き記す。多言語で書かれたその本の頭には、多くの言語でこう書かれた。

『合掌をするな。手を合わせるな、拝むな。それはあなた自身が決めた時にだけするべきものだ』

 そして今日もどこかで聖女が合掌する。

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今日も聖女は合掌する 安芸ひさ乃 @hisano_aki

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