今日も聖女は合掌する

安芸ひさ乃

前編

 ザデクは騎士である。貴族としてはこの国で一番層の厚い公爵家の生まれなので並も並であるが、諸事情あって特別に目をかけられこんにちに至った。そのお陰で、この奇跡にかち合うことが出来たとも言える。

(これもお母様のお導きだろう……)

 ザデクは今は亡き義母に胸中礼を捧げ、そっと、たった一人以外に悟られぬよう小さく言葉を紡いだ。

『合掌をするな。手を合わせるな、拝むな』




 ***




 ラクラン公国は古くから聖女の降り立つという奇跡の国である。故に公国という名を得、教会の総本山が立ち、大国ではないものの大陸の安寧を担うという意味で一定の平和が約束されて存在していた。〈公国〉の為あやかって公爵家が多く、もはや他国における子爵と同列ですらある。

 閑話休題、聖女のご威光か元来不毛の大地であったという国は豊かだ。今や砂漠を征く遊牧民であった名残は濃い肌の色と焼けた毛色ばかりであろう。そんな中にザデクの生家エヴェンデ公爵家があった。

 当代エヴェンデ公爵はザデクの実父である。ある時の彼は幼い頃からの初恋を実らせ一心に愛する許婚との結婚を待ちわびる身の上だった。その最中、聖女の降臨があったのだ。

 結果、ザデクの父は聖女と結婚した。──仕方がなかったのだ、出会い頭に契約が成ってしまったのであるからして。

 この大陸では結婚に際し、双方の契約が必要となる。一方では成らないその契約は、しかし聖女の力には到底勝てない。つまり、聖女がその契約を出会い頭に遂行してしまった、という次第である。

 一度成ってしまった契約はその力の強さから誰にも破棄が出来ない。父は泣く泣く元ある婚約を破棄し、聖女と結婚した。

 一方、聖女はといえば急ピッチで成された結婚に目玉が飛び出るほど驚き、それ以上に知らぬこととはいえ恋人の仲を引き裂いた事実に動転し、裏で暴言を吐きまくりだったそうである。こちらの民としては何を、という感じはするが、何も知らぬ聖女からすれば文句の百や二百は出るだろう。

 かくして大陸中から注目の的となり聖女のいる公爵家として一目置かれることになってしまったエヴェンデ公爵家の嫡男としてザデクは生まれた。なお、実母は聖女ではない。

「ザデク、エリの祭壇へ行きましょう」

「はい母上」

 ザデクを呼んだ女性こそが実母であり、父の元許婚である。聖女は結婚後、彼女を教育係というお題目で第二夫人に招聘した。その裏、実母の一家に詫びてなんとか嫁いでもらった、というのが真実である。何せ聖女と父は男女の関係のひとつもなく、また今後関係を持つ気もなく、このままでは直系が途絶えること必至であったからだ。

「いやあ、元の国でも政略結婚させられそうで嫌だってごねててさあ。折角見合いの席から逃げ出したとこだったってのに、見ず知らずのこっちで強制結婚させられるとか思わんでしょ。クソの極みかよ」

 ……聖女エリは大層口が悪かった……。

 見た目はこちらの民とは全く違って静謐で神秘的な形だというのに、口を開けば豪快に過ぎる。実母がいちから言葉を教えたというのに、いつの間にか下町訛りを習得してしまったほど隙がない。父が「見た目で侮ってると痛い目に遭う……」と何度頭を抱えていたかわからないが、それでも共同事業主としては完璧だったエリのお陰でエヴェンデ公爵家は他家に比べられぬほど懐が豊かだ。

「いいことザデク、私みたいな人間はこちらの常識なんて知らない。だからこんなことになった。事故よ事故。お前の親父とクィークを巻き込んだ多重事故よ。だからお前はきちんと真実を言える人間になるのよ。ついでにそこをわざと突いていいようにしようとしてくるクソのことは、あとになって殺したら勿体ないと思うほどに恨む」

 エリは何も教えずにあの手この手でエリを手の内に入れようとしていたのに失敗して逆恨みをしていた重臣達と、彼らが担ぐ王家とを憎んでいる。だから中央の力を削ぐ為にもと公爵家の資金繰りに心血を注いだ。お陰で公爵家は金満家になり、王家もおいそれと手を出せないくらいの規模になったのだ。

「ザデク、私のあとにまた聖女が来るでしょう。出来れば、出来ればでいいから、よろしくね」

 エリは病を抱え早世した。しかしそれまでは第二夫人のクィークにべったりと添い、クィークが産んだザデクを溺愛し、ついでにエヴェンデ公爵を遠ざけた。……彼女は男を憎んでいた。元から好きではなかったようだが、聖女という立場の彼女を手に入れんとする画策の全てが更に男嫌いに拍車をかけたように思う。

「出先であいつ死なねーかな、そしたらクィークと手に手を取って暮らすのに」と大分ひどいことを言っていた過去をザデクは知っているが、実母が彼女をすっかり姉のように慕っていたことを知ってもいるので余計なことは言わない。実に気風のいい、同性に好かれる性質の女性であったと思う。

 そんな訳でザデクは聖女の薫陶を胸に日々を穏やかに暮らしていた。もし、出来れば次の聖女の一助になれればと、それだけを思いながら。




 聖女はこの世界になくてはならない。だから、聖女エリが身罷ったと同時に次の聖女の降臨は決定していた。いつどこに降臨するかわからない、というだけで全ての準備は進んでいた。

 ついでに言えば聖女はなくてはならないが、いるだけでいい。『幸せに存在する』だけで安寧を図るのが聖女だ。だからエリが亡くなってからというもの、どこもかしこも世情が不安定であるし、実りも豊かとは言えない。

「早く降臨いただきたいが、こればかりは神のみぞ知るだからな」

 誰も彼もがそうぼやくのも仕方がなかろう。ザデクはうんとひとつ頷き返し、訓練を続けていた。

 ぶん、と模擬剣を振るい終わり、ザデクは被っていたフードを外して汗にまみれた髪を撫で上げる。すると踊り場が俄に騒がしくなった。

「第一王子殿下でも通られたかな」

「どう考えてもかの殿下は通らんだろ」

「あの方は文系だからな〜じゃなくてな。ほんと自分のことがわからん奴だな……」

 汗を拭きながらザデクは皆と待機場へと歩を進める。訓練の最中に時たま騒がしくなるのは常のことなので気にはならない。気に入りの騎士などを見に来る令嬢もそこそこいるだろう。

 身体を拭き上げて警備に戻ろうとした時、控え室に将軍がやってきた。

「ザデク! 来い!」

 片手をひょいひょいと呼ばれ、ザデクは帯剣しながら駆け足で近寄る。将軍がそのまま歩き出したのでザデクはフードを被りながらその背を追った。

「泉が光り出した」

 思う以上に大ごとであった。ここで言う泉は王家の宮の中にある泉で、聖女が降臨する場とされている。聖女はどこに降臨するか決まっていないものの、この泉は過去五割の聖女を戴いてきた場所なのだ。

「この分だと泉に降臨される可能性が高く、時間の猶予もなさそうだ。だからお前が呼ばれた」

 将軍の言葉にザデクは納得の意を表して頷きつつ、けれど過分な期待だとも思うなどする。ザデクは前聖女の祝福の子である。だから本人の意向や自信などには構わず、少しでも聖女の呼び水となるべく召集されているのだ。

 果たして、到着した泉は大仰なほどきらきらと光り輝いていた。

「遅いぞ!」

 そう吠えるのは第一王子ゼレントである。彼は当然のように側近を侍らせ、そこに踏ん反り返っていた。ザデクは静かに頭を垂れる。

 ゼレントはザデクが気に食わぬらしく、よくよく嫌味を言う男だ。それは一歩かけ違えていればエリは王家に嫁ぎ、つまり祝福の子であったのは彼だったのかもしれないという勝手な誤認が為である。かといってザデクを排することも出来ないと知っているから、代わりというや彼はいつでも口さがない。ザデクは事を荒立てるのを好まないから、いつでもそれを受け流すばかりだ。

「見ろ、泉が」

 将軍の言葉にザデクは下げていた頭を戻し、視線を上げた。すると確かに、泉は明らかなほどの光を帯びている。もはや一刻も猶予はないと言わんばかり、光がまるで個体のようにきらめいているではないか。

 と、いきなり水柱が立った。騎士達は剣を片手に、ゼレント達は後ろに下がって、荒れた泉の水面を見つめる。

「ザデク! さっさと行け!」

 ゼレントの一声にザデクは将軍に一瞬視線をやり、足を踏み出した。甲冑もそのまま、ざぶざぶと泉に入るも流石に文句を言われない。

 一拍、二拍。ゆらりと浮かんだ色を、ザデクは勢いよく引き上げた。

 きらりと黒が輝いてザデクを映す。いつかの日まで、見慣れていた色。この地ではザデクしか持たない色。

 濡れたそれがザデクを見、ザデクもまたそれを見、ぼたぼたと落ちる水滴の中で両者の時は確かに一瞬だけとまっていた。

「ザデク! 早く出てこんか!」

 とまった時を動かしたのはやはりというかゼレントだ。ザデクは一瞬で腕を下ろし、

『合掌をするな。手を合わせるな、拝むな』

 そっと、そう言葉を紡いだ。そして泉から引き上げた相手が足をついたのを確認し、そのまま手を取って泉から出る。

「聖女よ! 此度の降臨をお待ちしていた!」

 途端ザデクを押しやったゼレントは泉から登場した人物、聖女を前に合掌する。ザデクはその一連を目にすることはなかったが、結果だけはわかっていた。

 ──辺りが光り輝かない。聖女はゼレントに合掌を返さなかったのだ。

 

 

 

 新たな聖女はそのまま王家の食客として保護された。幼い形ではあるが、多くの聖女が割合そうであった前例からして子供ではないだろう。……何故推定なのかといえば、本人が口を開かないからだ。

 聖女は喋らない。うんともすんとも言わない。こちらが身振り手振り、最終的には恐る恐る女官が御身に触れて先導することでどうにか暮らしているという。

「子供用の絵本と現物とを合わせて見ながら言葉を教えているらしいんだが、喋らないから理解しているのかわからない」

「そもそも口が利けないのかもしれないしな」

「首を縦にも横にも振らぬそうだ。幾ら殿下が頑張ろうにも同じ動作ひとつ繰り返さぬわけだ、契約も成らんだろう」

 こうした噂話はどこにでも湧くもので、ザデクは聖女の身に侍ることはなくとも現状をなんとなく知りながら日々を過ごしていた。

(もしかして)

 自分の所為ではあるまいか。

 そう思うなどしたが、もしかしてどころか十中八九ザデクの所為であろう。するなするなと開口一番否定命令を下したのはザデクである。しなくてもいいのは誰かに向かって手を合わせることだけだったが、ザデクの言葉が上手く伝わらなかった可能性は大いにあった。ついでに、多分聖女と言葉を交わせる者もこの世界にザデク以外いないのだから、どうしたってザデクの所為である。

(……)

 責任感の強いザデクは思わず胃を押さえた。どうにかするべきなのだろうが、まずもって聖女に会うことなど簡単には出来ない。ザデクは一介の騎士であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。ましてや聖女の周りには王族が、いやきっとゼレントが侍っている。ザデクが姿を垣間見せただけで遠くにやられるのは決定事項だ。

「ザデク、交代だ」

「わかった」

 個人的な悩みごとはここまで。佩剣を手に、ザデクは同輩と受け持ちの交代をした。

 近衛として勤めるザデクは主に王宮の警備を行っている。行ってはいるが、ゼレントに遠ざけられているのは皆の知るところなので奥宮には遠い場所を受け持っていた。故にこそ、聖女と会うことはないのである。

(直接はおろか手紙も無理となれば……どうしたものか)

 消した筈の悩みは長閑な時間の所為で舞い戻ってきていた。石造りの回廊の脇、今の時間通りかかる人間はほぼいないのが拍車をかける。

(誰かに事情を打ち明ける……誰に?)

 ここで実家たる金満エヴェンデ公爵家の権力を、あるいは聖女という存在を利用しようという頭がないところが実にザデクの性質を表していた。

 ザデクは公爵家嫡男にありながら、己の身が『聖女の祝福によって成っている』ことを理解しすぎている。これがゼレントであったならば増長して手がつけられなくなっていたのかもしれないが、ザデクは反して万事控えめな男に成長していた。

 己の見目も武勇も、何もかもが聖女の〈祝福〉の賜物。ならばそれに相応しくあらねばならないが、出過ぎぬ程度の立ち位置はきちんと決め置かねばならない。

 他人に言わせれば頭の固いことこの上もない有り様であったが、これこそがザデクという男なのだった。

「……どちら様でいらっしゃいますか?」

 悩む端、そっと気配が滲むのにザデクは小さな声を出す。職務第一、気配がはっきりとしたものであったならザデクはきびきびと動いたことだろう。しかしそれはあまりにも覚束なく、小さかった。

(使用人の子供が迷い込んだか、それともどこぞの貴族の子供かな)

 子供だと判断したので柔らかに応対したつもりである。だが、応えはない。では確保して侍女に引き継ぎ、と顔を巡らせたザデクは刹那、時をとめた。

「……」

「……」

 フード、というよりか、テーブルクロスらしき物を被った少女の顔に、ザデクは見覚えがある。

 ちょっと前に、泉の中で、びしょ濡れで。

「……」

 何事もなかったかのように顔を戻し、一拍。

『聖女様』

 ザデクは端的に少女を呼んだ。

 長閑な庭である。人影もなく、サボるには絶好の機会だ。だが、ザデクはそうはしなかった。

『すみません。私は今、仕事中です。だからこのまま話します。私の言葉、わかりますか? わかる、床か壁、一回叩く。わからない、二回叩く』

 コン。微かな音にザデクはいよいよ腹に力を入れる。喋れるかはさておき、聖女はザデクの言う言葉がわかるという。ならば会話が成り立つ筈だ。

(有難うございます、お母様)

 心の内で感謝を捧げ、ザデクは前を向いたまま小さく口を開く。

『外に出ていい、言われましたか』

 コンコン。

 まあそうだろう。でなければクロスなど被って一人でこんなところにはいない。多くの護衛と侍女に囲まれてしずしずと移動している筈なのだ。

『部屋に戻りますか? 戻るなら侍女を呼びに行きます』

 コンコン。

(嫌か……)

『では、そこにいるといいです。ただし静かに』

 ザデクは仕事中だ。誰に救いを求めることもならぬのならば、そのまま務めるしかない。

『聖女様』

 とはいえ現状都合がよいと思い直し、ザデクはそのまま口を開いた。

『私は手を合わせるなと言いました。でも喋るなと言ってはいません。合掌以外、好きにしていいです』

 勿論応えはないが、ザデクとしては昨今の懸念が晴れた瞬間である。実に伸びやかな気持ちで背が正されるほどだ。

 頭の固いザデクがそうして職務に忠実である内に少女は静かに戻っていった。ザデクも後を追わず、そうして全ては終わった。

 ──筈だった。

「……」

 翌日同時刻、少女はまたしてもザデクの元へとやってきた。昨日と違うのは、その手に教本と思わしい物と絵本とを抱えている点であろう。

 少女はべったりと石畳の上に座り込むと、絵本の一部分を指差してザデクを見上げる。

「王様」

 更に別のところを指差す。

「りんご」

 更に別のところを指差す。

「馬」

『……言葉の練習、しますか?』

 コン。石を一回叩く音に息を吐き、ザデクは覚悟を決めたのだった。




「……なるほどなるほど……」

「如何なされましたか陛下」

「いや、こちらの話さ。どうやら悩みごとがよき方向に進みそうでね」

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