進み続けた時間の先で
暖かい陽光、と形容するには、いささか不愉快な風が遠くから吹き付けてきた。
今日の日付は八月十七日、天気は晴れ。湿度は、視るだけで憂鬱になるので確認するのを止めた。
沈みかけた陽が橙色の光を放っている。薄明が名残惜しそうに空を舞って、校舎の周りに立ち並ぶ木々を照らしていた。一階の廊下で走っているのは運動部だろうか。汗水たらしながら、青春の一コマを今も刻み続けている。
屋上から見える景色は、何一つ変わっていない。
七年前に取り残されたかのような、そんな風景だった。
その中で、一際異彩を放つ影があった。
その恵まれた長い四肢に、白いワンピースを纏って。儚げな雰囲気と共に屋上に立つ姿は、視ようによっては幽霊に見えるのかもしれない。でも、俺からすれば、今の彼女は生命力に満ち溢れているように見えた。
「遅かったな?薫君」
「まだ待ち合わせまで時間あるんですけど」
くるりと振り返る体に呼応して、しっかりと手入れされた長髪が靡く。
「三十分前行動は基本だ」
「そんな無茶な……」
「ふふ、冗談さ。私も郷愁に浸りたい時ぐらいあるということだ」
遠くを見つめたその瞳には、複雑な感情が入り混じっているように見えた。
「私はこの景色を、どんな気持ちで見たのだろう?」
「……どう、ですかね」
ここでいう私とは、タイムリープが起きなかった世界線の不知火遥の事なのだろう。
失意の中で、自死を決めてこの景色を眺めた時、彼女はどんな気持ちで、どんな足取りでここを歩いたのだろうか。この世界には存在しないことだというのに、考えられずにはいられなかった。
「……君のおかげで、時間軸は元に戻った」
あの後、先輩も俺と同じように違う時間軸の俺を助けたらしい。
先輩が言うには、異常が治まったことでその異常の一つである自分たちも元の時間軸に返された……かもしれないそうだ。細かいことは今でもわかっていない。
「そうですね」
「私たちはまだ共に時間を歩んでいる。素晴らしいハッピーエンドだ」
仰々しく語る口調とは裏腹に、顔には影が落ちていた。
その気持ちは、灼けるほど強く理解できる。
「だが私たちは、きっと救われなかったのだろうな」
「……」
気づいてもらえないまま意中の相手を失い、その姿を追うように自死した女。
自分を覆い隠し、自己否定と矛盾の間で死んだ男。
ハッピーエンド、その幕を一つくぐった先の舞台では、目を覆いたくなるようなバットエンドが広がっていた。俺たちは、無理矢理脚本を修正したにすぎない。彼らの感情は、彼らの軌跡は、もう俺達二人しか知らないのだろう。
「これで正しかったと思う。でも、たまに感じるんだ」
「正解とは何なのか」
「その通り。勘が良いね」
「推測ですよ」
極論、平易な言い方をしてしまえば科学者は正解を求めるものだ。定義だの定理だの、最終的に一つに収束する答えを求める。だが、それは本当に正しいのだろうか。俺達が掴み取った世界が、他の幾つもの世界を踏みつぶした。
いくつもの願いや祈りが、無かったことにされた。
正解は、誰のためにある?
「これは、きっと抱えて行かなきゃいけないことなんでしょうね」
「あぁ、そうだな。私たちの責務と言えよう」
失わせた者達を生んだ、選んだものの宿命だ。
「だからこそ、歩き続けていたい。私は挑戦に勝ってしまったからな」
「手袋、拾っちゃいましたしね」
「そうだな」
責務をしょい込んで、重圧で潰れているようじゃ話にならない。
あの世界で俺が悩んだ分、遥さんが考えた分、俺が悩んで、遥さんが考えなきゃいけない。
「タイムリープの謎も、きっと解き明かして見せる。何かが起こした奇跡だとしても、起きた以上現象だ」
「ブレないですね」
「今更かい?」
「今だから、ですよ」
七年前の事を話せるようになった今だからこそそう思う。
ブレずに、彼女が隣に居続けてくれている事が嬉しかった。
「それで、明日の用意終わったんですか?」
「大体はね。後は、体育館のセッティングをするだけだ」
俺達がここに居るのには理由がある。
単なる不法侵入ではなく、俺たちは客人だ。この高校を卒業した天才科学者である不知火遥と、その助手である俺を呼んでの講演会が明日この学校で開かれるのだ。奇しくもタイムリープがあった日付の翌日だったのは、流石の遥さんでもびっくりしていた。
「思い出にふけるのもそろそろやめようか。私に怒られてしまいそうだ」
「『怠惰だねぇ私。それなら変わってあげた方が良かったんじゃないのかい?』じゃないですか?」
「あ、言いそうだね」
ふふ、と彼女が微笑んで。
湿った夏の風が、擽るように通り抜けて行った。
「ここで死んだ私の思いは、私がどこまでも連れて行ってやる」
握った拳を空へ突き上げて、独り言のように呟く。
「語りついで、繋いでいくのも科学の一端だ」
だから、彼女はこの仕事を受けた。
ここから生まれていくであろう才能の卵たちを、育てるために。そして、追いついて見せろという挑発でもある。何回でも繰り返して、飛び越えて見せろと。
「何回でも話して、書いて、残してやろう。それが、私が私にしてやれる最大限の科学だ」
「手伝いますよ、何処までも」
「あぁ、助手なんだからね」
かつ、かつと軽やかな足音を刻みながら、先輩が出口へと向かっていく。
その背中を押すように、夕暮れは煌々と輝いていた。
「よし、薫君」
「はい、遥さん」
思い出すように、紡いでいくように。
俺たちは、同じタイミングで。同じ時間を刻んだ口で、叫んだ。
「「さぁ、楽しい楽しい
タイムリープまで、あと15分 獣乃ユル @kemono_souma
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