TS奴隷エルフが新たなご主人様に拾われる話。

伏樹尚人

第一話 はじまりの牢獄



 目が覚めると暗い部屋だった。

 冷たく湿気が漂っている。体がだるく、酷い疲れと、空腹を感じる。

 無意識に冷えた身体を温めようと微かに身じろぎすると、ジャラリという鉄の音がした。

 その音を聞いて"私"の意識は目覚める。

 目を開いて見えるのはいつもの風景だ。

 長い間手入れのされていない、汚れた一畳ほどの小さな牢屋。

 鉄格子に映る己の姿は汚れた布に身を包んでおり、首には宝石のついた小さな首輪が嵌められている。

 碧眼は濁っていて、生気がない。見た目は小さな少女だ。汚れていて分かりづらいが長い金髪で、肌は白い。また僅かに尖った耳から人間ではないことが分かる。

 そんな少女が薄目を開けて、鉄格子を見つめているのだ。

 その代り映えしない光景を見た"私"は、かすかな意識でこう思った。

 ーーーーはやく、らくに、なりたい。

 と。






 はじまりは一年前のことだった。

 目を覚ますと俺は牢屋の中で目覚めた。


「……どこだ、ここ?」


 はじめは戸惑った。鉄格子に映る己の姿は白い布に身を包んだ金髪碧眼の小さな少女になっていて、正直に言えば夢でも見ているのかとも思った。

 どうにか牢屋から出られないかと暴れたり、手錠を鉄格子に擦り付けたり、思いつくことはすべて試したが、どうしようもできなかった。

 魔法のような不思議パワーが使えないかとも思い、瞑想してみたり、ゲームの呪文を唱えてみたりもしたが、何も起きない。

 悪い夢なら覚めてくれ、と願いながら眠りについたのを覚えている。

 だが、残念なことに一日、二日と経っても夢は覚めることなく、相変わらず己の身体はちんまりとした少女のままだった。

 幸いにして水と食事は用意されており、メイドらしい女性がペット用の銀の器に盛られたぐちゃぐちゃの肉のようなものを運んでくる。

 話しかけても彼女は完全無視で、取りつく島もない。

 運ばれてきた食事の味は酸っぱくて、匂いも腐ったような香りだ。一日目はあまりの気持ち悪さにとても食べることは出来なかったが、三日目にもなると空腹の限界になり、泣きながら食べた。

 悔しくて、不味くて、吐き気がして、苦しかった。

 その当時ですら俺はここが地獄のように感じていた。



 


 甘い認識が崩れたのはこの牢屋で目覚めてから五日経った頃だった。

 運ばれてきた食事を食べ終わった俺は、不意に身体の力が入らなくなった。

 ふらりと身体が横倒しになり、視界が明滅する。両手足が痺れたように動かなくなり、気づく。

 ーーーー毒だ。

 食事について。生きるためにどんなに不味くても食べる覚悟でいた俺は、正常性バイアスにあったのだろう。

 酷い食べ物だが、食えはすると思い込んでいた。安全な保証などどこにも無いのに。

 だが、毒を口にしてから気づいても後の祭りである。

 動けなくなった姿を確認したいつものメイドが牢屋に入ってきて、俺を軽々と持ち上げた。

 運ばれている間、どこに連れていかれるのかと恐怖が身体を支配していた。

 だが、普段牢屋から出られない俺にとって脱出ルートを構築するための重要なチャンスでもある。

 薄ぼんやりする意識の中、必死に視線を動かして、脳内にマッピングする。どうやら俺が閉じ込められているのは地下室のようだった。地下から階段を上がると上等な絨毯が敷かれた渡り廊下があり、壁には美術品らしい絵が飾られている。

 イメージは上等な貴族のお屋敷であった。

 そんな屋敷の内部地図を頭の中でメモしながら運ばれた先はお風呂場である。

 ーーーーなんでおふろ?

 そう思う間もなく、俺はメイドの手によって徹底的に洗浄された。

 そう、洗浄である。

 身体の外側はもちろん、口や股の間にまで手を入れられて、徹底的に洗われた。

 何度やめて、と叫ぼうとしたことか。だが、痺れた身体は一切の反抗が出来ないまま、悲鳴の一つすら上げることは出来なかった。


 そしてお風呂場を出されて拭かれたあと、俺は新たに用意されていた白い布に身を包まされ、ある部屋に連れていかれた。

 今思えばお風呂場で徹底的に洗われたのは伏線だったのだろう。

 部屋に入ると見知らぬ男がいた。


「ひひっ、俺はお前のご主人様だ」


 でっぷり太った気持ち悪い男だ。太い腕に短足で、歩くたびにどすんと揺れる。

 醜悪な笑みを向けられた俺は思わずぞわっと寒気がはしった。

 そのあとの展開は予想の通りだ。

 俺は性的に嬲られた。痺れた身体はまともな反抗が出来ず、されるがままだった。


 この時の俺はまだ自分が男で、ノーマルだという自我があったので、本当に嫌だったしやめて欲しかった。

 少女の身体はこういったことをするのが初めてだったようで、血が出た。痛くて涙が出そうになると同時に、どうしようもなくこの身体が女であると気づかされ、感情がぐちゃぐちゃになる。

 男はどうやら性格も最悪らしい。

 俺の苦悶の表情や溢れる涙を見れば痛がっていることは一目瞭然だったはずだが、苦しむ姿を見せるほどに、彼は笑みを浮かべると容赦なく股を責め立てた。


 はじめは痛みだけだったが、執拗にされ続けると気づけば体が熱くなり、嬌声が漏れる。嫌なのに、体が跳ねる。

 この男の悪辣な点は、俺が絶頂しても責め苦を止めないことだ。気持ちいいところから降りてこれないまま何度も何度も、悲鳴を上げても、謝っても、自分が満足するまで好き放題にする。


「やめて、やめてください! おねがい! ねえ! やめて! 死んじゃうっ! 死んじゃうからっ!」


 もうわけが分からなかった。

 頭の中が沸騰して、もはや痺れが取れても動くことすら出来ないほどに俺を使った男の、にちゃりとした笑みが思考にこびりついて離れない。

 やがて俺は意識を失ったらしい。

 気づけば牢屋の中にいて、股の痛みとともに、男の凶悪な笑みが脳裏に浮かんだ。

 痛くて、気持ちよくて、苦しい記憶を思い出して俺は泣いた。

 考えが甘かった。これまではただ閉じ込められていただけで、地獄なんかじゃなかったんだ。

 俺はこの家の奴隷で、あの男がこの家の主人。あの男は最悪で、文字通り物として俺をもてあそぶクソヤローである。

 心臓が壊れるくらい沸騰した脳と身体は、快楽よりも苦痛の方が勝っていた。

 男が主人ということはこれから先、何度も俺を使うのだろう。

 一回だけでこれなのだ。こんなのが何回も行われたら、間違いなく壊れる。

 殺される、死んでしまう。

 怖くて怖くてたまらなかった。ポロポロと涙が枯れ果てるまで泣いて、気づけば朝になっていた。







 二週間が経った。

 男は二~三日に一度のペースで俺を使っていた。

 行為の前にはメイドが必ず俺に痺れ餌を食べさせ、風呂場で洗浄を行う。

 脱獄。その二文字は常に頭をよぎっていた。

 ……ハッキリ言うと一日でも早く逃げ出したいのが本音である。でも、もし捕まってしまったら今の責め苦より酷い地獄を見せられることは間違いない。

 その想像をすると怖くて怖くて、とてもではないが情報無しで運を天に任せて逃げ出すことは出来なかった。

 情報を集め、一回目で確実に決めなければならない。

 そこで男の夜伽に呼ばれるたびに観察をして、屋敷の住人や時間帯ごとの差異、脱出ルートの調査を行った。

 そして遂に脱出ルートを発見したのだ。

 地下から風呂場に移動するまでの途中で、歩かされながら窓の外を覗いていたところ、ふと庭師が小さな扉をくぐって外に出ていくのが見えた。

 外には見張りらしき人物もおらず、距離的にも廊下の窓から飛び出していけばものの十秒もせずに脱出できる。あとはどう気づかれずに逃げ出すのか、なのだが。

 その時、更に運が良いことに、屋敷のメイドの噂話が聞こえてきた。


「三日後に王城の人が来るらしいわ。ご主人様、また荒れるわね」

「まあまあ。終わったらすぐ、あの奴隷を抱いて鬱憤を晴らすでしょう。彼女、お気に入りみたいだし」

「それより、出迎えと送り出しの準備もしなくちゃいけないわね。来た時だけならともなく、帰りの時まで外でずらっと並ぶのどうなのかしら?」

「こら、滅多なこと言わない! 誰かに聞かれたら不敬罪よ」


 とりとめのない話であったが、重要なワードが混ざっていた。

 三日後。王城の人が来たとき、屋敷の住人は出迎えのために外にずらっと並ぶ。

 つまりその間は殆どの屋敷の住民は屋敷内におらず、表の門にいるということ。

 そしてあの男は王城の人間が嫌いであり、会談が終わればすぐ俺を抱くかもしれないということ。

 この「すぐ」というタイミングが重要だが、文字通り送り出しが終わった直後にすぐ抱くつもりであれば、恐らくメイドは客人の送り出し中か、それより前のタイミングで俺を風呂場で洗おうとするはずだ。

 もしそうだとすれば、俺は牢屋を出されたあと、メイド一人どうにかすれば逃げられる可能性が高い。

 不安は、正直ある。でもチャンスだった。

 風呂場で洗われている間もそのことが頭から離れない。

 が、男の前に出るとすぐにそんな思考は霧散した。


「っ……あぁあぁあああ! やめてええ! たすけて、たすけてくらさい!」


 責め苦は相変わらずで、俺がやめてと叫んでも、泣いて謝っても許してくれず、何度も何度も執拗に虐めてくる。

 その日も、たっぷりと弄ばれた俺は意識を失った。





 三日が経った。

 メイドはいつものように食事を運んでくると、去っていく。

 これまでの経験上、俺が抱かれる前にメイドは必ず皿が空になっているかを確認していた。

 つまり次にメイドが来たときに皿が空になっていなければ、彼女は牢屋を開けないだろう。

 そこで俺は事前にある仕込みをした。

 牢屋の隅にある壊れたタイルをはがし、下に小さな穴を掘ったのだ。

 脱出には到底使えない小さな穴だが、バレずに一食分を捨てるくらいはできる。

 一日一食だけの貴重な食事だが、背に腹は代えられない。


 そしてメイドが去ったあと、人がいないことを確認して、俺は食事を穴に捨てて、タイルで蓋をした。

 そして痺れているかのように地面に横倒しになり、待つ。

 それから三十分ほどして、カツンカツンという足音が聞こえてきた。

 思わず心臓がバクバクとする。だが、バレれば一貫の終わりである。

 いつものように痺れ薬を食べて倒れていると勘違いしてくれるだろうか?

 お願いします、お願いします、お願いします。

 思わず身体がこわばる。

 小さく息を吐いて、意識してだらりと力を抜き、薄眼を開けて様子をうかがった。

 どくん、どくん。

 メイドは牢屋の前まで来ると、空になった皿と倒れた俺をちらりと確認してから、牢屋の鍵を開ける。

 まだだ。俺はタイミングを見計らう。

 そして、メイドが俺に手をかけようとしたときーーーー!

 俺は起き上がると、手錠のかけられた両腕で思いっきりメイドの頭を打ちぬいた。


「ぐっ!?」


 メイドはくぐもった悲鳴を上げてふらつく。

 だが、もし彼女が悲鳴の一つでも上げればバレてしまうかもしれない。そのまま俺は二度、三度と両腕を振った。

 人間を殴ったのはこれが初めてだったが、これが失敗すれば自分は死ぬかもしれないと思うと俺という人間は案外、非情になれたらしい。

 手錠という武器と、うまく不意をつけたのも良かったのだろう。

 メイドは倒れると同時に、ゴンッ! と鉄格子に頭をしたたかに打ち付けて動かなくなった。

 思わず殺してしまったかと思ってぎょっとするが、生きてはいるようだった。


「……ごめん」


 謝罪の言葉を口にして俺は牢屋を飛びだし、階段を静かに登っていく。

 そして一階に出て、周囲を見回すが人の気配はなかった。

 どうやら周囲に人はいないようだ。情報通り、多くの使用人たちは来客の送り出しをしているのかもしれない。


「……」


 慎重に、当たりをつけていた窓まで移動して、そっと開ける。

 からりと音を立てて開いた窓めがけてよじ登って、俺は庭へと飛び降りた。

 生足が地面と草木に触れる。その感触を確かめて、こくりと喉を鳴らす。

 これで、あとは裏口まで走るだけだ!

 外に出ればこんな屋敷とはおさらばである。

 数週間の監禁生活で体力が落ちた身体を動かし、息を切らせて駆けだした。

 そして素早く裏口まで辿り着き、木で出来た扉を押して、外へと飛び出してーーーー。


「…………えっ」


 俺は立ち止まった。

 裏口の真ん前にはでっぷりと太った男ーーーーご主人様が立っていたからだ。

 なぜヤツがここにいるのか? 分からない。ヤツは王城の人間と会談をしているはずだが。

 思考が固まって、俺は立ち止まる。

 目の前の男は下卑た笑みで俺を見つめていた。まるで俺がこのルートから逃げ出すことを分かっていたかのように。

 

「ひひっ、やっぱり逃げ出したな。どうやら躾が足りねえようだ。優しくしすぎたらしい」


 躾、と男が呟くと身体が反射的にびくりとした。

 潜在的な恐怖が身体を支配する。

 優しくしすぎた? あれが? あれが生ぬるく感じるほどの躾とはいったい何をするつもりなんだ?

 蛇に睨まれた蛙のように動けない。だが、ここで捕まっては恐ろしい目に遭うのは間違いない。

 ーーーー逃げなくては。

 そこで俺は声を出そうとした。

 動かなくなった身体を動かし、恐怖を振り切るためだ。

 ある実験によると、声を出すことには恐怖を抑制する効果があるらしい。

 恐怖を感じたら大声をだすように指示したAグループと、恐怖を感じても声を出さないように指示したBグループでは、Aグループの方が遥かに早く、脈拍数や呼吸数、筋状態が平常値に戻るのだ。

 そう冷静に思考して、さけぼうとして、

 

「……っ! …………!」


 ……声が出ない。

 なぜ声が出ないのか分からずに混乱する。身体も相変わらず硬直したままで、微動だに出来ない。

 こわい、こわいこわいこわい。

 視界に涙がにじむ。自然に身体が震えだす。

 なぜだ。頭はこんなに冷静だというのに。

 人は極度の緊張状態に陥ると声が出なくなることがあるらしいとも聞くけれど。

 まさか、これが?

 混乱状態から立ち直れないまま、ぼんやりと俺は男を見上げる。

 はやく逃げなくては、見つかってしまった、手錠で殴り掛かろう、身体の大きさが違いすぎる、勝てるわけがない。

 思考がぐるぐると浮かんでは、消えていく。

 気が付くと、男の手が迫っていた。


「ーーーーっ!?」


 喉からヒュッという呼吸音がした。

 男の手は、俺の頬にあてられていた。大きな手だ。俺の小さな手のひらとは比べ物にならない。その気になれば俺の首だって簡単に折ってしまいそうな大きな手。

 心臓が張り裂けそうなほどドクドクと音を立てる。

 恐怖で目を見開いた俺を、男は見下ろしてこう言った。


「二度と、俺に逆らえないようにしてやる」


 そして男は懐から注射針のようなものを取り出すと、動けない俺の首筋に突き刺した。

 途端に力が抜ける。ポタリと涙がこぼれ落ちる。

 視界が激しく明滅し、立っていられない。

 どさりと地面に倒れこんだ俺は、そのまま意識を失った。 







 次に目が覚めたとき、俺はいつもの牢屋に閉じ込められていた。

 微かな痛みを感じて首筋に手をやると、酷く冷たい。

 触るとそれは硬くて、輪っかのような形をしていた。


「これ、は……首輪?」


 鉄格子に映る自分の姿を見て、初めて首輪を取り付けられていることに気づく。

 外そうと手錠がかけられたままの手で力いっぱいに握りしめるが、とてもではないが筋力でどうにかなる代物ではなかった。

 そして昨日の出来事を思い出す。

 どうやら、俺は脱獄に失敗したようだ。

 身にまとった白い服が僅かに土と草で汚れていたことがそれを裏付けていた。

 冷静に思い返して、じんわりと恐怖が全身を包む。

 よく考えなくともこの状況は不味い。俺はあの男のメイドを殴り倒し、脱獄しようとしたのだ。

 今まで以上に待遇は悪くなることは間違いない。さらに言えば、今まで話はしていないものの、特に俺に意地悪などをしなかったメイドを一方的に殴り倒したのだ。

 彼女が引き続き食事を運んでくるなら、もしかしたら何かやり返されるかもしれない。

 一度考え始めると悪い想像が止まらない。


 そもそも、なぜ脱獄がバレたのだろう?

 男はやっぱり逃げ出したな、と言っていた。とすると彼は元々俺が逃げ出そうとしていたことに気づいていたようだ。

 とすると、あのメイド達の会話が罠だったのか。

 それとも逃げるために探りを入れていたのがバレていた?

 あるいは、この部屋を監視する何かがあって、俺が食事を捨てていたのを見られた?

 そんなことを考えていると、いつものようにメイドがやってくる。

 俺が昨日殴り倒したメイドだった。何をされるのか分からなくて、硬直する俺をちらりと見た彼女は無表情のまま、餌を牢屋に置くと、こう言った。


「手を使わずに、食事を食べなさい」


 狭い地下室では声が響く。

 ハッキリと聞こえたその言葉の内容は、犬のように食事をしろとのお達しだった。

 一瞬、意味が分からなくてキョトンとする。

 が、直後、信じられないことが起きた。


「ーーーーごほっ、がぶ……けほっ、けほっ」


 気づけば視界が地面を向いていて、視界一杯に餌が広がっていた。

 自分の意識とは関係なく体が動き、目の前の餌を食そうとしたのだ。

 まったく食べる準備もしていなかった俺は、口の中一杯に広がる不快な香りでむせつつも、食事を止めることが出来ない。

 まるで催眠とか、洗脳されたかのようだった。意識はあるのに、己の意思で体を動かすことが出来ず、ただ命令をこなす機械になってしまったかのように、一心不乱に食事を摂らされる。

 やがて、皿が空になったことを確認してメイドは俺に命令した。


「今後、許可なく自分や他人を傷つけることを禁止します。また許可のない食事の禁止と、壊れることの禁止を言い渡します」


 その言葉は、水が地面にしみこむようにすっと脳に刻まれた。

 自分や他人を傷つける行為の禁止。許可のない食事、壊れることの禁止。

 自分の身体が自分の思い通りに動かせない現実を味わった俺は、精神が削られたようなショックを受ける。

 恐らくはこの首輪が原因なのだろう。

 だが同時に不思議な点もある。彼女はなぜ脱獄禁止を言い渡さないのか。もちろんこちらとしてはそんな命令をされない方がありがたいのだが、何故?

 メイドはそれだけ命令すると空になった皿を回収して去っていく。

 その姿を見送ったあと、俺は実験をすることにした。

 さっきの命令に本当に逆らえないのか?

 そのために、軽く力を込めて自分の腕をつねろうとして。


「……あ、れ?」


 身体が動かない。

 指先を、ほんのちょっと力を籠めるだけで達成できるようなことだ。

 そんなことが、できない。

 自分自身を傷つけてはならない、という縛りが破れない。

 それを確認した俺は、そのことが信じられなくて、恐怖で自然と息が荒くなる。

 逆らえない。逆らってはいけない相手に手を出してしまった。脱獄なんて考えなければ良かった。そうすれば、こんなことにはならなかったのに。

 だが、後の祭りだ。

 どうしようもない現実に、涙がこぼれる。

 冷たく暗い牢屋の中で、すすり泣く声が響いた。






 この世界に来てから二か月が経った。

 私の首に掛けられた首輪は服従の首輪というらしい。

 これを掛けられると、命令に逆らえなくなるのだとか。


 ここ一か月ほど、男は毎日私を使うようになった。

 初めて行為に及んだ頃は、私の股や胸を責め立てることが多かったが、最近は穴という穴を使うようになった。

 何せ私は命令に逆らえない。口を使えと言われて、相手の愚息を嚙みちぎってやろうかと思っても、相手を傷つけてはいけない命令によって、身体が勝手に傷つけないように、宝物でも扱っているのかのように大事にあつかってしまう。

 服従の首輪による命令は絶対だ。

 この口調も、激しい行為の中で耐えられず、相手のやる気を削げないかと一度、「俺は男だ」と口にして男口調で話すようにしたところ、一人称を「私」にすることを命令されてしまった。

 それ以降、私は自分の思考の中ですら「俺」という一人称を使うことが出来なくなった。

 命令は身体だけではなく、思考すら奪うことが出来るらしい。

 今まで当たり前に使ってきた一人称すら簡単に奪われた私は、心身ともにボロボロだった。

 そもそも最初に行為に及んでから二週間を耐えきれたのは、男が私を使うペースが二日から三日に一度だったからだ。

 一度目の行為から、次の行為までに体力が回復できたからこそ、あれだけの責め苦でも耐えられた。

 それが毎日、毎日である。

 朝起きれば身体は酷く重く、股がじんじん痛む。食事は一食しかなく、激しい行為で体力を奪われて常に空腹だが、その食事すらメイドの許可がなければ食べられない。

 許可のない食事の禁止。これは大きな問題である。

 仮に脱獄できても、首輪を取れない限り、私は人の許可がないと食事が摂れないので、どうしたって誰かに管理されないと生きられない。

 思えば、脱獄禁止を言い渡さなかったのは食事の許可制があったからなのだろう。

 命令に逆らえないうえ、食事すら許可が必要な私はもはや一人では生きていけない。

 奴隷。そう奴隷だ。

 本当の意味で、私は奴隷としてしか生きられないことに気づいたときは、狂いそうなほど精神的なショックを受けたが、壊れることも許されない。

 そう、壊れないのだ。

 肉体も、精神も普通であれば、とっくの昔に壊れていた。

 それが壊れていないのはひとえに最初の命令が生きているからだ。どんなに身体がおかしくなりそうなほど責められても、どんなに短期間で酷使されても、命令が生きている限り私の思考は冷静で、壊れることが許されない。

 そして、今日も。

 カツンカツンという足音が聞こえると同時に、私は牢屋の隅で震えだす。


「……ぁ、……あぁぁ……」


 また始まるのだ。

 あの時間が、嫌で嫌で仕方ないあの時間が。

 視界が涙でにじみ、へたりと座り込んだまま、どうすることも出来ない。

 いやだ、いやだいやだいやだ。

 だれかたすけて、たすけてください、おねがいします。

 だが、助けなど来ない。

 そして私はメイドに連れられて、風呂場で洗われたあとに、ご主人様に責められた。

 今日も私は壊れない。






 この世界で目覚めてから半年くらい経った。

 ご主人様は私に飽きる様子はなく、毎日使い続けていた。

 最近は少しイライラしているようで、前よりも激しい使われ方をするので、私は毎日死にそうになる。

 自分でもよく生きていられると感心するくらいだ。

 気絶してもすぐ叩き起こされて、また使われるので、昼夜の概念すらなくなってきたし、何日経ったのかすら記憶がやや曖昧になってきた。

 半年くらいと表現したが、実際にはもっと長いかもしれないし短いかもしれない。

 疲れているからか最近は食欲もない。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 最近のご主人様はとにかく当たりも強いのだ。

 夜伽中に少しでも気に入らないことがあれば怒鳴り散らし、躾と称して鞭で痛みつけるようになった。

 痛くて、怖くて、辛くて、おかしくなりそうだ。

 特に、ここ数日は私が何をしても怒られている。

 俺を満足させろと言われて、一生懸命にご主人様を気持ちよくしても、もっと丁寧にしろと言われて鞭で叩かれる。

 かといって丁寧にやると、主人を焦らすつもりかとまた鞭で叩かれる。

 痛くて痛くてたまらなくて泣いて謝っても、また怒られる。

 私はこれを一種のマインドコントロールなのではないかと思っている。

 いわゆるダブルバインドという手法だ。

 例えば上司が、部下に資料を持って来いと伝えて、部下が資料を持ってくるとする。

 この時、上司は必ず「遅い」などの別の理由をつけて部下を罰する。

 何をやっても後出しで別軸の条件を提示し、それを達成できなかったと非難し続けることで、相手の精神を壊す手法だ。

 平たく言えば何をやってもダメだと相手に思い込ませるためのテクニックである。

 これを逃れるには、いくつかの手法がある。

 例えば相手の言っていることが結局どっちなのかの認識をしっかりすり合わせるとか、相手の本質を見極めて最善の行動をとるとか、適当に受け流すとか、関係性を断つとかだ。

 だが、私にとっては、どの手法も使えない。


 相手の言っていることの認識をすり合わせる? 無理だ、ご主人様は私の言葉などまともに聞こうとしないし、自我を持つほどに鞭で叩く。持ってなくても鞭で叩く。

 相手の本質を見極めて最善の行動をとる? 無理だ。ご主人様は仕事や現実の鬱憤を私で晴らしたいだけで、最善の行動をとったところで難癖付けて鞭で叩いてくる。

 適当に受け流す? 無理だ。とてもじゃないけど耐えられない。性のはけ口にされ、暴力を振るわれ、すべてを否定されるこの状況を受け流せるほど私は強くない。

 関係性を断つ? そんなことが出来るのならとうにしている。


 そこまで考えて、私は無意識にお腹をさする。

 最近少し妙なのだ。食事量が少ないのに、お腹が張っているような気がする。

 ご主人様の相手をするときも、何故か本能的にお腹を庇わなくてはいけないという感覚がしていた。

 その様子を見たご主人様は、ニタリと笑みを浮かべた。


「おまえ、まさか妊娠したのか?」


 妊娠。

 そうだ、そういえば私はご主人様に遠慮なく精を注ぎ込まれ続けている。

 私は男だったので、それを考えないようにしていたが、そうかもしれない。

 実際に、生理は来ていたので、子供は作れる身体なのは確かだ。

 そこまで考えてふと思い返す。

 ……そういえばしばらく、来ていないような。


「…………ぁ」


 嫌いで嫌いで仕方ない相手の子供が、私のお腹の中にいる可能性がある。

 それはとても、とてもおぞましいことだったが、同時にふと思う。

 流石に、この血も涙もない男でも、自分の子供であるならば、大事に扱うのではないか?

 もしそうなら子供を産むまでは、痛い目に遭わずに済むかもしれない。

 そう思った私は、正直に話した。


「……わかりま、せん。でも、さいきん……お腹が張っている、ような」

「そう、か」


 そう言うとご主人様は私の腹を見つめて、手で触れる。

 そして、勢いよく殴りつけた。


「ーーーーあ、あぁああっ!?!?」


 激しい痛みがはしる。だが、ご主人様は止まらない。

 私の腹を何度も殴りつける。痛くて痛くて、たまらず私は悲鳴を上げた。


「ごめんなさいご主人様! 許してください!」


 ご主人様の手は止まらない。

 私は泣き叫ぶしかできなかった。なにせ命令で逆らえないのだから。

 そして執拗に私を嬲った男は、最後にメイドに命令すると私に何やら薬を飲ませた。

 それは、妊娠中絶するための薬らしかった。

 今日も私は壊れない。





 



 この世界で目覚めてから一年くらい経った、と思う。

 もう日付感覚がない。

 変化といえば、私がご主人様によって中絶させられてから、首輪に変な宝石をつけられることになった。

 紫色に怪しく光る宝石だ。時折、ぼんやりと光るが何の効果があるのかは分からない。

 それよりもだ。最近はずっと体調が悪くて、つらい。

 ふらふらするし、食欲もないし、頻繁に熱っぽくなるし、ずっと思考がふわふわしている。

 ご主人様も忙しいのか、私を使うペースが落ちた。

 偶に私を使うと思えばすぐに飽きたかのようにポイすることも多い。

 というか屋敷全体で妙に人が減っている気がする。メイドに連れられたお風呂までの道すがら、見かける使用人の姿は少なくなっていた。

 どうしたのだろうか、と思いつつ情報が足りないので分からない。

 ただ一つ分かるのは、早く洗浄し、身体を差し出さなければまた鞭で打たれるということだけだ。

 相変わらずの地獄のような日々だが、人間とは慣れる生き物である。

 冷たい牢獄も、地獄のような責め苦も、あれだけ気持ち悪く思っていた男との行為も、吐き気を催す食事も、すべて慣れてしまった。

 日常と化したのだ。もはやそれを当たり前だと吞み込めるようになった。

 だって私は奴隷なのだから。

 そう思えるようになってふと鉄格子に映る私の姿を見ると、以前よりずいぶんやつれているように見えた。

 目は生気を失っていて、細かった腕は更に細くなっている。

 その様子を見て私はふと思う。

 ……これは、そろそろ死ぬのではないか?

 私の身体は、病気にでもなってしまえばころっと死んでしまいそうなくらい、弱っているように見えた。

 服に包まれた身体は傷だらけで、見るだけで痛々しい。

 鞭で打たれ始めたばかりの頃は、身体を洗うことが苦痛だった。水がしみるのだ。だが、その痛みにも幾分か慣れ、洗う手を止めることはない。

 この頃には私は、自分が生きたいのか死にたいのか分からなくなっていた。

 死ぬことへの恐怖はある。でも、それ以上に鞭で打たれたり、激しく罵られたり、命令されることは苦しい。

 何をやっても怒られるので、ただ命令されたとおりにやって、怒られたら受け入れて、ただ時間が過ぎることを祈って耐える。

 ご主人様には勝てないので、泣いたり、わめいたりはしてしまうけれど。

 でも耐え続けていればご主人様は私を虐めることをやめてくれるのだ。

 時間は私の味方である。うん、私はとても冷静だ。

 今日も、私は壊れていない。








 この世界で目覚めてから何日経ったのだろう。

 もう日付感覚は完全に無くなってしまって、分からない。

 分からないと言えば、最近ご主人様に呼ばれなくなった。

 どのくらい呼ばれていないかというと、一か月以上だろうか? お陰で私は日がな一日牢屋の中にいる。

 食事は相変わらず一日一食だ。

 体調も変わっておらず、悪いままなので、食べることがしんどい。

 熱っぽくて、頭が痛くて、くらくらして、動く気がしない。

 食べたあとに吐いてしまうこともしばしば。

 私が命令で逆らえなくなってから、トイレ用の壺を置いてくれているのでそこで吐いている。

 というよりもそこでしか吐けないというのが正しい。

 トイレ用の壺が置かれた際に、決められた場所以外で排せつや嘔吐することを禁止されてしまったからだ。

 最近はメイドによる掃除の頻度も減っているので、地下室の衛生状態は悪い。

 普通の人なら多分酷い臭いがするのだろうと思う。

 ……私はもはや慣れてしまったので何とも思わないけれど。

 それにしても苦しい。

 私は奴隷なので看病してくれる人間がいないのは当たり前だ。

 前の世界では、こういうとき……どうだっただろうか。記憶が曖昧になっている。

 前の世界の私はどんな人間だっただろうか? 男だったような、気はするけど。

 あぁ、それにしてもやることがない。

 体調が酷く悪いので、寝転がったまま考え事をするほかに何も出来ない。

 地下室にこもっているせいか、太陽が恋しい。

 ……暇だから夢でも考えてみようかな。

 うーんと、暗い場所にずっといるから、明るいところに行ってみたい。

 草原を走りまわったり、海を見たい。それとご飯を食べたい。人間用のご飯。贅沢が許されるなら白米とみそ汁。

 目を閉じてぼんやりと想像する。かつて見たそれは、どんな景色だったか。どんな味だったか。

 そうしてまどろみの中で、私は眠る。

 今日も、私は壊れない。








 ご主人様に呼ばれなくなってどれだけの日にちが経過したのか。

 あまりにもパッタリと無くなったので少し不思議だ。

 最近は屋敷全体が少し静かになった気がする。人の気配が前よりしなくなっている。

 牢屋の端がポタポタと雨漏りもするようになったが、メンテナンスされる様子はない。

 あと、最近はメイドが地下室に来る頻度が落ちた。

 一週間に一回くらいの頻度で来ては、複数日分の食事をまとめて置いていく。


「それは食べて構いません」


 ただでさえ腐りかけの食事なので、数日経つと完全に腐るが、それでも切り詰めて食べないと、次にメイドがくるまでのご飯が無くなってしまう。

 まあそうでなくても食欲が無いので、一口ずつしか食べれないのだけれど。

 前よりもお腹の調子が悪くなっていて、以前より更に体調が崩れやすくなった気がする。

 あと殆ど人と接する機会がなくなって、独りぼっちなので寂しい。

 ご主人様に呼ばれなくなってから長い時間が経ったことで、必然的に私の肌も汚れてしまった。

 当然だ。抱かれる前にしか私はお風呂に入れてもらえないのだ。着ている布もボロボロになってきていて、もはやボロ布と化していた。

 身体はますます痩せてきて、とうとう手錠から手が抜けるほど細くなった。

 きっと服をめくればあばら骨が浮き出ていることだろう。

 でも、動ける元気もないので私は何も出来ない。

 そんな中でも私は冷静に思考を回す。

 考えることは、ご主人様はいつまで私にご飯を用意してくれるのだろう、ということだ。

 私は奴隷である。

 今までご主人様は私を抱くために、私にご飯を与えて生かしておく必要があった。

 けれど、今の私はご主人様にまったく呼ばれない。つまりご飯を与えておく理由もなければ、生かしておく理由がないのだ。

 こうなると近いうちに、ご飯が貰えなくなるかもしれない。

 そうなれば私はお腹がすいて、この牢獄の中で飢え死にするだろう。

 ……飢え死にはきっと苦しいだろうなあ。どうせなら寝ている間に死ぬとか、一瞬で死ねたら楽なのに。

 それにしても、身体の調子が悪い。

 最近は立ち上がることが難しくなってきた。身体を起こすのがやっとで、こほこほとせき込む。

 特にしんどいのがご飯を食べることだ。メイドにされた最初の命令、手を使わずに食べなさいというあの言葉の効果は未だに有効なので、這いずるようにして食べている。

 慢性的に体調が悪い状態が続いているので、思考もネガティブだ。

 この頃から私は、少しずつこんなことを思うようになってきた。

 ーーーーらくに、しにたい。

 できるなら、眠るように死ねれば楽だろうか。

 そうでなくても今の自分の身体の状況から考えると、あと一回ご主人様に抱かれたら確実に私の身体は壊れるだろう。まあご主人様もこんな傷だらけの女なんてもう相手したくないのかもしれないけど。

 今日も私は壊れない。







 更に月日が経った。

 この頃には私の意識は朦朧としていて、起き上がることもせずに横たわったままになっていた。


「……私がここに来るのは今日が最後です」


 メイドも地下室に来なくなった。

 とうとうご主人様は私を処分することにしたのだろうか。

 最後ということでいつもより多い食料が渡されたので、それを少しずつ食べて、水は雨漏りで飢えをしのいでいる。

 それでも、身体が駄目になってきているのは確かだ。長い監禁生活で味覚がおかしくなってきたのか、雨漏りを飲むと金属のような味がすることがある。

 かと思えば、水の味に戻ることもあり、不思議だ。

 あとは、そうだな。トイレについて。

 トイレのために這いずることは億劫だが、命令が生きているので指定された場所でするしかない。とはいえそのトイレもメイドが来なくなってから、中身が捨てられていないのでそろそろ限界量も近い。

 まあ同時に私自身の食事量も減ったことでトイレをする機会も極端に減っているわけだが。

 この頃には、私はもうそろそろだなと感じていた。

 いよいよもって限界が近い。

 壊れることを禁止されているため、可能な限り現在の状況下で長生きするための行動をとり続けているが、それも頭打ちだった。

 今思えば、こうやって体調が悪くなり始めたのは首輪に宝石がつけられてからだ。

 この首輪、どうも私の力を吸い取っているような気がする。

 とはいえ原因が分かったところで、私にこの首輪を外す手段はないわけなのだが。


「……ぁ………ぅ」


 声を出すことも難しいほど、衰弱している。

 だから無駄なエネルギーを使わないように動かない行動を取る。

 はやく、らくになりたい。






 


 もう何日経っただろうか。

 最近は目が覚めたり、意識が無くなったりしている。

 意識も薄らぼけで、起きたときにぱちりと目を開けて、すぐに意識を失う。

 酷い空腹を感じる。一刻も早く食べ物を食べなくてはと身体が叫んでいる。

 しかし、既に食べ物は尽きた。

 せめてものと、雨漏りする水に向かって口を開き、こくりと飲む。

 今回は水の味だ。味覚も安定しないらしい。

 これが末期の水だろうか、なんて自虐を考えてみるが、笑うほどの余裕もない。

 苦しくて苦しくてしかたないので早く終わってほしい。

 そうして意識を失い、また目覚める。

 そして。

 そして、最初に戻る。

 





 

 目が覚めると暗い部屋だった。

 横倒しの私は僅かに目を開けて、いつもの風景を目にする。

 お腹がすきすぎておかしくなりそうだが、命令で壊れることが出来ない。

 部屋は長い間手入れがされておらず、汚れた一畳ほどの牢屋だ。

 鉄格子に映る己の姿は汚れた布に身を包んでおり、首には宝石のついた小さな首輪。

 相も変わらず私は、目に生気がない小さな少女のまま。今にも死んでしまいそうな姿に見える。

 あぁ、おなかがすいたなあ。

 はやく、おわらないかなあ。

 らくに、しにたかったなあ。

 思考が定まらず、ぼんやりと目を開けたまま動かないでいると。


 ーーーーふと、音が聞こえた。

 ずしんずしんと揺れが起きたり、人の叫び声がする。

 それはしばらくの間続いたが、やがて止まった。


「…………、」


 何が起きてるんだろう? 少しだけ気になったが、衰弱した身体は動かない。

 それ以上におなかが空っぽで、意識がまた明滅する。

 次に眠ったらもう目覚めずに済むだろうか。

 そうであれば嬉しい、そんなことを思い、目を閉じた。

 そして、緩やかに落ちていく意識に身をまかせて、


「…………!」


 コツコツという足音が聞こえた。

 足音は恐怖の対象である。脳みそに刷り込まれた恐怖が私の意識を呼び起こす。

 そして、私は足音が妙なことに気が付いた。

 この足音はメイドではない。何度も聞いた彼女の足音に比べて、今聞こえている音は明らかに重い。

 これは、まさかご主人様だろうか?

 いや、しかしまさか。ご主人様がこのような場所を訪れるわけがない。

 でも、もしご主人様であれば出迎えなくてはならない。

 どうにか身体を起こそうとするが、少し身じろぎできるくらいで、起き上がることが出来ない。

 これは、また怒られてしまう。

 私は最期まで怒られて、叩かれて死ぬのだろうか。

 どうせならもっとマシな死に方をしたかった。

 足音の主は、私の牢獄の前で立ち止まる。私は微かに目を開けて、それを見た。

 黒い髪の、鋭い目つきの青年だ。大剣を持っており、いかにも冒険者らしい服装に身を包んでいる。顔は、かなり整っていた。

 ーーーーそれは、知らない男だった。


「……ぁ、……ぇ……?」


 だれ? 私はそう尋ねようとしたが微かな音が漏れただけだった。

 青年は牢屋の中で倒れる私を見下ろしていたが、何を思ったか鉄格子に手をかけると、そのまま力任せにこじ開ける。

 するとギギギギィ! という金属が折れ曲がる音がして、鉄格子がこじ開けられた。

 その光景を見て私は驚愕したが、衰弱しきった身体では反応できない。

 青年は私のもとに駆け寄ると、私の耳を見て驚いた顔をした。


「これは、エルフーーーー?」


 何やら呟いているが、意識が朦朧として聞き取れなかった。

 意識が落ちていく。青年は私を軽々と持ち上げてどこかに連れて行こうとしているようだが、どこに行こうとしているのかは分からない。

 そして私の意識は暗闇へと沈んでいった。




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