第二話 新たなご主人様
次に私が目が覚ますとそこは、知らない天井だった。
木造の建物だ。綺麗に整えられた空間で、間違っても私がいたあの牢屋ではない。
なぜなら建物内がとっても明るいのだ。あの暗闇の部屋とは明らかに違う。
あとは、不思議なほどにやわらかい感触がしていた。
疑問に思い、自分が寝かされていた場所を見て、驚く。
「……!」
どうやら私はソファに寝かされていたようだ。
一瞬で意識が覚醒する。だって、ありえないからだ。
私の居場所はあの一畳ほどの牢屋の中だけである。あの場所はとっても硬くて、冷たいのだ。
間違っても柔らかいソファなんて無いし、こんなに明るくて上等な部屋ではない。
きょろきょろと周囲を見回すと、ここが待合室のような部屋であることが分かる。
私の身体には知らない男物の上着がかけられていて、布団代わりに私の身体を包んでいた。
そして、私は妙なことに気づく。
「ぁ……れ、こ……えが、でる」
体力が回復していた。
おかしい、どういうことだろう。直前までの私は身じろぎがやっとなほどの死にかけだったはずだ。
空腹はあるし、身にまとったボロ布や、身体の汚れはそのまま。相変わらず首輪はあるが、何故だか起き上がれるほどに体力が回復していた。
どういうことなのか分からずに困惑する。
目が覚めれば見知らぬ部屋、回復した体力、誰のものか分からない男物の上着。
とうとう、私は壊れてしまったのだろうか。
そんなことを考えて、私はふと思いつく。
ーーーーわたし、しんだの?
そうだとすれば納得がいく。
こんな綺麗な場所にいることも、体力が回復していることも。
そうこうしていると、私は話し声が聞こえることに気づいた。
音の方向は隣の部屋からだ。
なんだろう? 私はソファから降りると、ふらふらとした足取りで、音のする方向に近づくと扉に耳を傾ける。
扉の先からくぐもった声で、こんな声が聞こえた。
「ーーーー犯人はクロだったが、取り逃がした」
その声には聞き覚えがあった。
私が意識を失う直前にやってきた黒髪の青年、この声はまさしく彼の声だった。
つまり私は死んだのではなく、彼によってここに運び込まれてきたのだろう。
ーーーーたすかった、の?
いや、まだ分からない。
首輪は結局外れておらず、私が命令されなければ生きていけないままなのは変わらないのだから。
とはいえここまで運んできたのだから、殺すつもりはないとみて良いかもしれない。
でも、もしかしたらと微かな希望を抱いて、聞き耳する。
「分かった。犯人については生死を問わない捕縛依頼を出しておこう。それで、ブレード。お前さんの報酬についての話だが」
話は報酬の件に移ったようだった。
ところで、私を助けてくれた青年はブレードというらしい。
そして彼はこう言った。
「ーーーー金はいらん。代わりにあの奴隷をもらいたい」
その言葉で、私の淡い期待は打ち砕かれた。
あの牢獄から連れ出されて、助けてくれたのかとも思ったが、やはり現実はこんなものらしい。
所有者が変わるだけで、やはり私は奴隷なのだ。
よくよく考えればこれは前より不味いかもしれない。彼は恐ろしい腕力の男である。
いや、元より死にかけだった身だ。死に場所がちょっと変わっただけのこと。
期待する方が悪かったのだろう。
そのあとの言葉は耳に入らず、ふらふらとソファまで戻ったところまでは覚えている。
だが、そのあとの意識が曖昧だ。
ただ一つ確かなのは、私がブレードと呼ばれていた青年の奴隷になることだけだった。
曖昧な意識のままこれからのことを考えてみる。
ブレードという青年。いや、新たなご主人様は、とても強いのだろう。
鉄格子を腕力で捻じ曲げたことからもそれは一目瞭然だ。
そんな彼に躾をされれば、私は死ぬ。多分ミンチになる。
でも、私を殺すだけなら報酬を断ってまで私を貰いたいと口にした理由が分からない。
だって、私には価値がないのだ。
私は前のご主人様の言うことを何一つまともに聞くことが出来なくて、ずっと怒られ続けていた。
それにガリガリの身体だし、小さいのでご主人様を満足させることは難しいだろう。
それとも壊す前提なのだろうか? 壊すまで使うのであれば、この世界の常識は分からないけれど娼婦でもNGなのかもしれない。それなら納得できる。
そうこうしていると新たなご主人様と奴隷契約を結ぶことになった。
新たなご主人様は言う。
「……聞け、今から奴隷契約をする。契約をすれば、常にお前の状態や居場所が分かるようになる。逃げ出そうと思わないことだ」
そして私とご主人様の間に奴隷契約が結ばれた。
この時初めて知ったが、契約をするとご主人様に居場所が分かるようになるようだ。
思えば、かつての脱獄が失敗したのはこれが原因なのだろう。そりゃあそうだ。私の状態や居場所が把握されているなら逃げられるわけがない。
仮にあの場で逃げ切れても、すぐに私は捕まっていたはずだ。
ーーーーばかじゃん、わたし。
自嘲するように脳内で呟く。最初から希望など無かったわけだ。
つくづく自分は無能である。嫌になりそうだ。まあそうでなければ奴隷にはなってないだろうが。
……色々と頭を回したが大事なことは、何も変わらない。
私は奴隷で、きっと命は長くない。
でも、一つだけ良かったことがある。
それは夢にまで見た外に出れたことだ。
あの暗い部屋で独り朽ちずに死ねるなんて、考えもしなかった。
だから残り少ない時間で景色を少しでも目に焼き付けよう、そう思った。
幸せな時間はあっという間に過ぎていく。
「……人目につけたくない。羽織っておけ」
ご主人様は、私をあまり人には見せたくないらしい。
出発前に大きなコートを羽織るように命じられた。
もちろん逆らえるわけもないし、逆らう気もないので羽織る。
少し心配なのは臭いがついたと言われて、躾をされることだが、着なければ着ないで躾をされてしまうことだろう。どうしようもない。
私がコートにすっぽり包まれたのを確認してから、歩けない私を背負ってご主人様は歩き出した。私は結構汚れているはずだが、ご主人様はあまり気にしていないようだ。
街の景色を眺める時間は、この世界で目覚めてから一番幸せな時間だった。
時刻は夜。
あちこちの建物で明かりが点いていて、行きかう人々は冒険者らしい、ファンタジーで見るような装備に身を包んだ人々が目についた。
周囲の店は居酒屋だったり、色街だったり、かなり発展しているようだ。
洋風の建物が立ち並び、景色としてもとても美しく感じた。
夜なのに、あの牢獄の冷たさと違う。とにかく見るものすべてが色鮮やかで、温かみがある。
住む世界が違うとはまさにこのことだろう。
暗闇に住んでいた私にとって、この景色はとても明るく感じた。
だが、その時間はあっという間にすぎ、気が付けばご主人様の住む家に着いた。
「着いたぞ、ここだ」
ご主人様の家は二階建ての一軒家だった。
紅い屋根が特徴的な、おしゃれな雰囲気の家だ。
ご主人様に案内されて中に入ると、天井が高い広々した室内が視界に飛び込んでくる。
一階は応接室のような空間になっており、丸机とそれを挟むように二つの一人用ソファが並べて配置されていた。
机の上には魔法陣の描かれた紙のようなものが散らばり、壁には魔物らしき生き物の資料や地図が貼られている。
部屋には別の部屋に繋がる扉が三つあった。それぞれキッチン、トイレ、洗面と風呂場に繋がっているようだ。
また二階は私室と客室、倉庫になっているらしい。
そしてご主人様は汚れた私を向いて、言う。
「まずは、服を脱げ」
私はピクリと身体を震わせた。
早速らしい。今の体力で果たしてご主人様の相手が出来るだろうか?
しかし命令に逆らうことは許されない。
私は震える手で、その場で服を脱いで全裸になる。
ご主人様は私の身体を一瞥すると、目つきが鋭くなった。
何か、不興を買ったのだろうか。不安になるが、そのまま数秒経ってもご主人様は何もしないので、私は得体のしれない恐怖を感じていた。
なんで、何もしないのか。私の傷が醜くて抱く気がしないのか。それとも、こっちの反応を見ていて、少しでも反抗的ならそれを理由に罰するつもりなのか。
分からない、分からないが、私が悪いのは間違いない。
逆らうつもりがないことをアピールするために私は土下座する。
「わ……た、し。さ、から……いません……」
「い、いこに……し、ます……か、ら」
「どう、……か、……ゆるし、くだ、……さ」
途切れ途切れだがどうにか言い切る。
するとご主人様は元の表情に戻し、少しきつい口調で言った。
「別に、俺は怒っていない、謝るな。それより風呂は入れるか?」
「は……ぃ」
私が頷くと、ご主人様は私を抱えてお風呂場に運んでくれた。
そしてお湯を出して、ゆっくりと私にかける。
「しみるだろうが、我慢しろ」
ご主人様はそう言って、私の身体を洗い始めた。
私はされるがままだが、底知れぬ恐怖を感じ始める。
何故かと言えば、異常に優しい対応だったからだ。この世界で目覚めてからこれほど優しくされたことはない。
だからこそ、何を考えているのか分からなくて怖い。
だって、奴隷に優しくしてもご主人様にメリットなど無いのだから。
ご主人様は私の身体を一通り洗い終わると、タオルで私の体をふき、私の髪を乾かすと、大きな白シャツを渡してくる。
「それを着ろ」
どうやらご主人様のシャツらしい。
ぶかぶかのシャツは、それでも私の身体を覆い隠すには十分なサイズで、纏っていたボロ布に比べれば遥かに清潔だった。
お風呂を出た後のことだ。
ご主人様は今日は夜伽をせずに寝るつもりのようで、私を連れて二階に上がると、一つの部屋を示してこう言った。
「ここがお前の部屋だ」
そう言って見せられた部屋は、六畳ほどはある部屋だった。
柔らかそうなベッドに、丸テーブル、高級そうなチェアや、タンスなどが置かれている。大きな窓からは街の美しい夜景が見えた。
あまりにも上等すぎる部屋だ。
ご主人様の言葉の意味が分からず、私は思わず固まる。
「へ……や……?」
「あぁ、そうだ。今日からここで寝ろ」
信じられない。ご主人様は何を考えているのだろうか。
この部屋は人間の部屋であって、奴隷が使っていい部屋ではないのはどう見ても明らかだった。
私がまごまごしていると、ご主人様は「さっさと休め」と言って扉を閉める。
残された私は呆然としたまま、ご主人様の言葉の意味を考えた。
私は要領が悪いけれど、経験則で知っている。
これは罠だ。ご主人様の言葉をそのまま受け止めて、ベッドで寝ようものなら恐ろしい目に遭わされるのは明らかだ。
何よりもあんな上等なシーツを私の身体で汚しては、殺されても文句は言えない。
上等といえば、今羽織っているシャツもご主人様のものである。私はシャツに変なしわが出来ないように慎重に脱いで、丁寧に折りたたみ、テーブルに置いた。
よし、これで汚さずにすむ。
あの私専用のボロ布と違ってこの服はご主人様の物なのだ。考えすぎかもしれないが、少しでも怒られる理由を作ってはいけない。
全裸になった私は改めて考えを巡らせる。
ご主人様の言葉は「今日からここで寝ろ」だった。
重要なのはご主人様の言葉には、ベッドで寝ていいなんて一言も言っていないことだ。ご主人様が出したのはあくまで、この部屋で寝て良いという許可だけ。
とすると私がとるべき行動は、ベッドではなく、地面で寝ることである。
そもそもが奴隷に綺麗なベッドを使わせるというのが変な話なのだ。
ーーーーたぶん、まちがって、ないよね。
自問自答して、他に納得できる答えが見当たらなかった私は頷く。
そして地面に敷かれた絨毯にも触れないようにして、横たわった。
木で出来た地面は、あの牢屋に比べると遥かに暖く、清潔だ。
目を閉じると、すぐに意識が闇に落ちていった。
翌日。
「起きろ」
私は何者かに声を掛けられて目を覚ました。
目を開くと目の前には黒髪の男が立っており、思わず悲鳴を上げそうになるが、はたと昨日の出来事を思い出す。
ーーーーわたし。このひとのどれいに、なったんだった。
そして、自身の失態に気が付いた。
奴隷が、主人に起こされるとは何事だ。近づいてくる足音に気づけないとは自分自身に驚愕してしまう。
何をやっているんだ、と思いながら私は地面に頭を擦り付けた。
「ごめ、……な……さっ」
ごめんなさい、と謝罪の言葉を口にしようとするが、口が上手く動かない。
そういえばいつから食べ物を口にしていなかったか。昨日は体力が回復していたことや、初めて見た街の風景で忘れていたが、依然として身体は限界寸前らしい。
視界がくらくらする。
けれど、ここでご主人様の手を煩わせるわけにはいかない。そうやって頭を下げているとご主人様が尋ねてくる。
「なぜ裸で床に寝ていた? まさかベッドの使い方を知らないのか?」
命令に従って頭を上げる。
なぜ、と言われても。
ベッドを使っていいなんて言われていないのだから、当たり前だ。
でも私は何かを間違えたらしい。心臓がドクドクと早鐘を立てながら、どうにか、言葉を伝える。
「ぇと……ど、れいは……ゆかで、ねるもの、で」
「でも、ゆかで……ねる、と……ごしゅじん……さまの、ふくを、よごす……ので」
そう伝えるとご主人様は、自分の頭に手のひらを当てると溜息を吐きたそうな顔を浮かべた。
その表情を見て私は完全に間違えたことを悟る。
怒られて、躾されるやつだ。今日が私の命日だったらしい。びくりと身体が震えだす。
その様子を見たご主人様は、こんなことを口にした。
「……思ったより重症、か。昨日も言ったが、この部屋はお前のものだ。家具は好きに使え。あと明日からは服を着て、ベッドで寝なさい」
「ぇ……、……は、ぃ」
そ、んな権利を奴隷に与えて良いのだろうか。使えるのは嬉しい、けれど。
そう尋ねたいが、ご主人様の言うことは絶対だ。奴隷は意見をしてはならない。
部屋の家具を好きに使っていい、服を着る、ベッドで寝る、という三つの命令を脳に刷り込む。
同時に、間違えた私に対して躾をしないのかと不思議に思うが、ご主人様は特に私を罰するつもりはないようだった。
私が小さくうなずくと、ご主人様は言う。
「分かったならいい、朝食にするぞ」
シャツを着て、一階に運んでもらった私は、ソファに座らされた。
ご主人様は仏頂面のままキッチンから美味しそうな朝ご飯を運んでくる。
この世界に来てから初めて見たが、パンとスープにコーヒーだ。
そもそも人間の食べ物自体、ここに来てから初めて見たと思う。奴隷用のぐちゃぐちゃ肉しか貰えなかったし。
スープやコーヒーからは湯気が出ており、作りたてであることが分かる。
これは、人間の食事だ。
それなのにご主人様は当たり前の顔して私の前にも同じメニューを並べていく。
どういうつもりだろう? まさか食べていいというわけではあるまい。
随分久しぶりに見た美味しそうな食事だ。良い香りがするので、飢餓状態の私の身体は食べたいと訴えている。
ひとえに食べずに「まて」が出来ているのは、以前された命令によって許可なしでの食事がとれないからだ。
ご主人様は何でこんなことをするのだろうか。
考えて、思いつくのは、私の浅ましさや卑しさを試しているのではないかということ。
わざと美味しそうな食事を出して、もし私がそれを口にしようものならそれを口実に躾を与えるのだ。
そういえば、と私はふと思いだす。
犬の躾では、食事に飼い主の許可が必要であると教え込むのが重要らしい。
フードの入った食器を前にして「まて」「よし」と許可を与えることで、飼い主の指示に従うこと、自分の食事は食器の中にあるものだということを教えることが出来る。
これもその一環かもしれない。
食べてはいけない人間の食事を出して、私が口にすれば罰する。まあ私は既に許可のない食事が出来ないので意味はないが、ご主人様は私が過去にされた命令を知らないはずなので、地道にトレーニングを始めようとしたのだろう。
そんなことを思案していると、ご主人様は不思議そうな顔をして言う。
「なにを見ている、早く食べろ」
「!?」
私は驚いた。
私の食事? これが? そんな馬鹿な。躾の一環ではなく?
食え、という許可が出たことで命令の縛りが無くなった。
あまりに信じられなくて、私はついご主人様に聞き返してしまう。
「ぃ……い、の……です、か?」
「子供が遠慮するな」
二度も許可が出た。
飢餓の身体は食事に支配され、もう我慢など出来ない。
以前の命令の中に「手を使って食事を摂ってはいけない」があるので口を近づけて、スープをなめる。
一瞬で脳が支配された。
ーーーーおいしい、おいしい、おいしい、おいしい!
生臭くも、腐った香りも、ぐちゃりと嚙み心地の悪い感触もない。
多分これは人間にとっては普通の野菜スープなのだろう。
けれど、この世界に来てから初めて感じた"人間の料理"は、私にとっては飲んだ瞬間に身体が喜びを感じるような味わいだった。
ダメだ、涙がでてきそうだ。そうやって私が感動に打ち震えているとご主人様が真面目なトーンで尋ねてくる。
「……待て、なんで手を使わない?」
早く残りを食べたいがご主人様の問いかけは絶対である。
私は食べるのをやめて、回答する。
「……ぇ、と……まえに……てをつかわずに……たべろと、……いわれた、ので」
何か粗相をしてしまったのだろうか?
私は心配になる。
食べる前ならまだ良かったが、一口でも口にした今、私の身体は食べる前以上に早く食べたいという感情に支配されているのだ。
いや待て。逆にこれが狙いだったのかもしれない。
一口でも食べ、美味しさを味合わせてから、これ以上は食べるなと命令するつもりなら、奴隷のことをよく分かっている。
一度手に入れた幸せを手放すほど、より絶望は深くなるのだ。
そして案の定、私の言葉を聞いたご主人様の目つきが鋭くなった。その表情から怒りを感じ取った私は、やっぱりそうだと震えだす。
ーーーーこの、ごしゅじんさまは、きちくかもしれない。
物理的な躾ではなく、精神的な躾とは思っていなかった。
私が呆然としていると、ご主人様は言う。
「……食事には手を使え。食器もだ。使い方は分かるか?」
「ぇ……?」
分からない。いや、食器の使い方は分かる。
……分からないのはご主人様の考えだった。
手を使っていい。食器も使っていい。それらを解禁する理由が分からないのだ。
もちろん、私自身は手や食器が使えた方が嬉しいのは確かである。
命令されたばかりの頃は、犬のように食べることに対して、尊厳が奪われたと感じていたし。
理由はなんだ? 行儀が悪いから? まさか。
そしてもう一つ分からないことがある。
なぜご主人様はわざわざ食器の使い方が分かるか、などと尋ねてきたのか。
使う許可だけを出して、私が使い方を間違えたことを指摘し、怒るなら分かるけれど、わざわざ使い方が分かるか聞く必要など無いはずだ。
分からない。でも、ご主人様の手を煩わせるわけにはいかないので私は答える。
「つ……かい、かた……わかり、ます」
そう言って私はスプーンを手に取り、記憶の中にある所作を思い出す。
背筋を伸ばし、なるべく綺麗に見えるような動作で左手を更に添え、スプーンを皿の縁辺りからスープに入れてそっとすくう。
私の口は小さいのでスープをたくさんすくうことはしない。
ポタポタ零して机を汚すことも許されないので、スプーンの背を不自然にならない所作で皿に軽くぬぐい、そっと持ち上げる。
そして口元に運び、音を立てないように口の中に流し込むようにして飲んだ。
ここまでやってから思ったが、もしこの世界と前の世界のスプーンの使い方が違ったらどうしよう。
記憶の中の世界ではスープは音を立てずに飲むのが美しかったはずだが、こっちでは音を立てた方が美しいとかなら、無知をさらしただけだ。
少し怖くなって、私がご主人様の方に視線を向けると、ご主人様は僅かに驚いた表情で私を見つめていた。
その反応を見て、どうやら違ったらしいと私は思う。
素直に使い方を尋ねていれば良かった、と後悔するがもう遅い。
私はこわごわとご主人様に尋ねた。
「あ……あの、……なにか、まちがって、……いたで、しょうか?」
「……いや、問題ない。少し驚いただけだ」
ご主人様の返答は曖昧だった。
多分、私の所作が間違っているのだと思うが、教えてはくれないようだ。
これはきっと最初から食器の使い方を尋ねなかったからだろう。
とはいえ、問題ないとも言われたので、私はそのまま同じ動作でスープをすくった。
うん、美味しい。
一説によれば美味しいものを食べると幸せな気持ちになれるらしい。まさに今の私がその状態だった。
でも表情にはおくびも出さない。前のご主人様のもとにいた頃は、怯えや恐怖、快楽に溺れた表情は喜ばれたが、喜んでいる姿などを見ればすぐに鞭で叩かれたものだ。
嬉しくて、美味しくてたまらなくて、思わず頬が緩みそうになるが、我慢だ。
長年培ってきた表情筋の扱いはお手の物である。
……そう思っていた。
「ぁ……れ?」
どうしたことだろうか、視界が滲む。美味しいのに、スープがしょっぱい。
不思議に思った私だが、すぐにその原因に気づいた。
涙。私の目からぽたりと涙が落ちているのだ。それは私が着ている服を濡らしていく。
あれ、おかしいな。いつもなら、簡単に抑えられるのに。
前のご主人様に使われて、泣き喚いたときも、鞭で叩かれたときだってもっと我慢できたのに。
ダメだ。こんな姿を見せてはまた怒られてしまう。ただでさえご主人様の服を濡らしてしまっているのだ。
「今度はどうした。なんで泣いてる?」
「ぁ、……ご、ごめ……な、さっ……ふっ、ぐ、……ふぇ」
涙が止まらない。
苦しみなら耐えられる。
でも、今回は美味しくて、幸せなのだ。
いつも食べていた肉とはまったく違う。溢れ出る感情が抑えられずに、私は涙を堪えようとするが、まったくもって効果が無かった。
私はどうにかご主人様の問いかけに答えようと口を開く。
「ひっぐ……ひとの……たべ、もの。ひ、さびさ……に……たべた、ので……」
「…………そうか」
ご主人様はそう言って、黙り込んだ。
私の涙はしばらく止まらなかった。
酷い粗相だったが、ご主人様は何も言わなかった。
結局ご主人様は何も言ってこなかった。
それが私にとってはありがたかった。
せっかくのまともな食事なのだ。すべて味わわなければ死んでも死にきれない。
涙をこぼしながらもスープを五分の一ほど飲んだ私は、パンにも手をつけることにした。
パンくずがこぼれないように、パンを一口サイズにちぎる。そしてちぎったパンにバターを塗り、一口で頂く。
ふわふわと柔らかいパンは、甘く優しい味だった。
まともな固形物を口にしたのはいつぶりだろうか。ぐじゅぐじゅの肉は奴隷の食べ物だが、あれは普通の人間にとってまともではないことは分かっている。
いや、今はあの肉のことはどうでもいい。
目の前のパンを一噛み一噛み、味わって噛む。
もしかしたらこれが最後の晩餐かもしれない。だって、こんなにおいしい食事なのだ。奴隷が普段味わえるものではない。
でも、それでも良かった。死ぬ前にこんな美味しい食事が摂れるなど、奴隷の身には幸せがすぎるのだ。
だから、だろう。
しばらく食事を味わっていると、私の身体に妙な異変が起き始めた。
視界がくらくらするのだ。
いや、朝からくらくらはしていたが、明らかに程度が違う。世界がぐるぐると回転しているかのように感じる。
なんとなく気持ち悪い。もっと食べたいのに、食べ物が喉を通らない。
耐えられなくなって、カチャンと食器を更に置く。
音を立ててしまったからだろうか。ご主人様がこっちを見ていることに私は気が付くが、身体のコントロールが効かない。
せめて食器や、食事を倒さないように椅子からずり落ちるようにして、地面に横たわる。
ーーーーなに、これ。おなか、いたい。
息が荒い。急に腹痛が止まらなくなり、お腹を押さえる。
「ーーーー!」
ご主人様が何やら叫びながら私のそばに駆け寄るが、もはや声は聞こえていなかった。
この症状は初めてだ。動悸がひどく、汗が出て、ひどくふらふらする。
食事後の体調不良といえば毒があるけれど、あれとはまた違う。痺れ薬ではなく別の毒なのか?
それとも、と考えているとふと思い当たることがあった。
ーーーーわたし、さいごに、たべたの、いつだっけ?
断食をしていた人間が急に普通の食事を摂ると、消化器官に負担がかかり、危険な状態になることがあると聞いたことがあった。
もしやそれか?
だとすれば、自業自得である。自分自身の卑しさが引き起こした天罰だ。
苦しさが止まらない。音も聞こえず、視界がちかちかし始める。世界がくるくると回る。これは不味いと思ったが、もうどうにもならない。
薄れゆく意識の中、しかし私は思う。
でも、死ぬ前に美味しいものが食べれて、良かった。
……どうやら私は死ななかったらしい。
目を覚ますと自室のベッドに寝かされていた。
そう、あの白いベッドだ。暖かくて、ふわふわで、心地よい。
あまりの心地よさにこのまま眠っていたい気持ちもあるが、奴隷に怠惰は許されない。
心の甘さを振り払うようにしてベッドから起き上がると、気持ちの悪さは消えていて、立ち上がる分には支障がなさそうな感じだった。
あれからどれだけの時間が経ったのだろうか。
ともかく、情報が足りないので私はベッドから降り立つ。
身体はかなり回復しているようで、牢屋の中にいた頃感じていたような倦怠感はない。
とりあえず部屋を見回すとテーブルの上に僅かに液体の入ったビンと何枚かの用紙が置かれているのを発見する。
なんだろう? あんなものはなかったはずだけど。
近づいて覗きみると何やら紙には文字が書かれていた。
「……あ、れ?」
その時私は妙なことに気が付いた。
用紙に書かれた内容が読めるのだ。知らない言語だが、なんて書かれているのかが分かる。
どういうことだろうと首を傾げながらも内容を読んでみて、私は青ざめた。
「こ、これ……契約書?」
用紙の内容は契約書だった。
何の契約かというと、ハイポーションの購入契約書と書かれている。
用紙にはハイポーションの効果や、使用用法などの他に購入にあたっての金額が書かれていた。
……その額、なんと一億ゴールド。
「いちおく……!?」
私にはこの世界のお金の知識は無い。でも恐らく一億は高いだろう。
ハイパーインフレーションでも起こしていない限り、一億なんて額は庶民には縁のない数字だ。
読み進めると契約書は既に締結されており、支払い済となっていることが分かる。購入者欄にはブレードというご主人様の名前がしっかり記載されていた。
ここで大事なのはなぜ、ご主人様がハイポーションなどを購入されたのかということだ。
今にも死にかけだった私の身体が回復していて、謎の液体が入った空き瓶、ハイポーションの書類が私の部屋に置かれている。
点と点が線で結ばれ、一瞬で答えに辿り着く。
あまりにも荒唐無稽で、信じがたい話ではあるが、ここまで状況証拠がそろっていれば否定することは出来なかった。
どうやらご主人様は、一億ゴールドを支払って私を生かしたのだろう。
「なんで……っ!?」
分からない。意味不明だ。
ご主人様の狙いがまったく分からない。
私を生かすことに意味があるとでもいうのだろうか。それとも、それほどまでに私に価値があると思っているのか?
それとも私が知らないだけで、一億ゴールドとは安いのだろうか?
分からない、情報が足りない。
でも、もしだ。もしも一億ゴールドがとても高額だとしたら、私はどうやってそれをご主人様に返せばいいのか。
そんなお金。稼ぐあてもなければ、稼げる能力も私には無い。
「どうすれば……」
呆然と私が紙を眺めていると、不意に扉が開く。
慌てて振り返ると、そこにはご主人様が立っていた。ご主人様は私を見て声をかけてくる。
「起きて、いたのか。体調はどうだ?」
「は……はい、身体は……だいじょうぶです」
「そうか」
ご主人様は頷いた。
私はおずおずと尋ねる。
「あ、あの……おしえてほしいことが、あります」
そういって私は契約書を見せる。これだけはどうしても聞かなければならない。
「あ、あの。ご主人さま。これは……私の治療にかかったお金、ですか?」
「……そうだ」
私の質問にご主人様が頷く。
やっぱりだった。ご主人様は私を生かすためにお金を支払ったらしい。
いったいなぜ? なんのために? いくつもの疑問が浮かぶが、大事なのは奴隷のためにご主人様のお金を使わせてしまったという点である。
奴隷がご主人様にお金を払わせるなど言語道断だ。もしそんなことが起きたら、どんなに理不尽なことでも、すべて受け入れろと前のご主人様は言っていた。
なんでも奴隷がご主人様に使わせた分は弁償しなければならないそうだ。本当であれば働きで返せなければ身体を売り、臓器を売らなくてはならないが前のご主人様は私を使うこと自体を働きとみなしてくれて、許してくれた。
でも、今回はどう支払えばいいのだ。どれだけの働きをすれば返せたことになるのか。
「あ……あのっ、ご主人さま。一億ゴールドは、どのくらいの価値なのですか?」
「金のことなど気にしなくていい」
「……それでも、それでも教えてください。どうか、お願いします」
これはご主人様であっても譲れない点だ。
重ねて尋ねると、ご主人様はハァとため息を吐いて答える。
「……大まかに言えば、この家が二軒買える」
「家が、にけん……っ!?」
とても高額だった。
この世界でも認識が同じかは分からないが、家といえば人間が真面目に働いて、一生に一軒買うものである。
それが、二軒買える値段。
そんなもの、私に支払えるわけがない。身体を売っても、恐らく全然足りない。
臓器を売れば足りる、のだろうか? 相場が分からない。
とんでもないことになってしまった。私はどうすればいいのだ。
そもそもこれは一生かけて払えるものなのか?
どうすればいいか分からない私は、尋ねる。
「ご主人さま……わたしは、わたしは何をすればいいのでしょうか?」
「ベッドで寝ろ。飯を食って、身体をなおせ」
ご主人様はぶっきらぼうに答えた。
だが、私の求めている回答はそうではない。恐らくは答えるつもりがないのだろう。
ご主人様は私に何を求めているのだろうか。私の何にそんな価値があるのだろうか。何のためにご主人様は私を助けたのだろうか。
だが、私はそれ以上口を開けなかった。命令されてしまったからだ。
「…………は、い」
奴隷は、ご主人様の命令に逆らえない。
奴隷は、ご主人様の手を煩わせてはいけない。
奴隷は、ご主人様の時間を奪ってはならない。
ただ速やかに、正確に、ご主人様の言うことに答えなければならない。
服従の首輪の効果もあって、逆らえない私はベッドに入り、身体を休める。
そして考えた。
ご主人様は私に金を払えとも、臓器を売って金を作れとも、働けとも言わなかった。
ご主人様にとっては私はただの負債でしかないのに。
なぜ、なぜ、なぜ? 思考を回しても思い当たる答えがない。
ご主人さまはいったい何を考えているのか。
大きな謎を抱えつつも、私は新たなご主人様のもとで奴隷として生きていくことになるーーーー。
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