羊に抱かれて
桑鶴七緒
羊に抱かれて
ここ数年不眠症に悩まされている。
定期的にクリニックで受診して処方箋をもらっている。睡眠導入剤はこれまで何種類かは試しているものの、朝方に目が覚めてしまう症状がどうも気に入らない。
自宅にいる際は必要な時だけパソコンやスマートフォンを使い、就寝前は見ないようにしている事を心がけている。
しかしだ。なぜか気が立っているのか毎日途中で目覚めてしまうのがどうも気に入らない。
一度気になってしまったものをどう処理しようかあれこれ頭の中で整頓しようとも、結果的にはこの脳内の問題になる。
昔からよく眠るときにか羊を数えて気持ちを落ち着かせると自然と眠れる、なんていう迷信があるが、数え始めると何十頭もあの柵を飛び越えている光景がとめどなく頭の中をぎゅうぎゅうに詰めていかれて、しまいには羊達が鳴きながら爆破するというなんとも残酷な結末が膨らんでしまい目が覚めるのだった。
また1ヶ月が経ったある日の午前。
いつものクリニックに行き待合室で待機していると、受付の事務員に名前を呼ばれて診察室に入った。
「あれからいかがですか?」
「相変わらず眠りは浅いです。明け方の同じ時間になると目が覚めて、ずっとそこから起きている感じですね…」
毎回この会話が続く。
主治医も毎度ながら淡々と僕の話を聞いては専用のパソコンでカルテにカタカタとキーボードを鳴らして打っていく。
「他に気になる事はありますか?」
「あの…またなんですが、睡眠導入剤の効き目がないような気がするんです。新しいものに変えてもらえませんか?」
「そうですね…これは今年に出たばかりの新薬なのですが、試しに4週間分お出ししましょうか?」
「え、あ…はい。じゃあ出してください」
今日の会話はものの5分程度で終わってしまった。その後、向かい隣にある薬局で待っていると、医療機関の案内情報が掲載してある冊子に手を伸ばしてしばらく目を通していた。
以前よりも精神科医の数が増えて来たな。
今の主治医も約8年は診てくれているが、そろそろ変えてもいいのだろうか。
そんな事を考えていると、薬剤師が僕を呼んだので会計口に行き先程の新薬について説明を受け、支払いをした後家に帰った。
自宅の玄関から居間に繋がる廊下にはゴミが壁に沿って散乱していた。袋に集めてゴミ箱に捨てて服も着替えずにそのままベッドに飛び乗った。少しばかりかお腹がすいてきたので、昼食を摂ることにした。
とりあえず冷凍庫に入っていたチャーハンでも温めるか。皿に取り出して電子レンジで温め、カッ喰らうように残さず食べた。
お腹を満たしたところで、部屋着に着替えてゲームの続きをした。
数時間。なんだか妙につまらなさを感じる。
再びベッドに寝転がり1時間程仮眠をとったが、頭がギンギンに冴え過ぎて眠れるどころではなかった。
当たり前だ、ゲームを立て続けに夢中になってやったものだしな。
スマートフォンを開きSNSを見続けていると、更に時間が経ち時計を見ると、19時を回ろうとしていた。冷蔵庫を開けると食材が無くなりかけていたので、一駅隣のところにあるスーパーへ出かけた。
金曜日の夜という事もあり、店内は人で溢れかえっていた。適当に食材や菓子を買い長い列に並んでレジを待っていると、後ろにいる親子連れの人が子どもをあやしながら軽く叱っている声が耳に入っていった。
会計を済ませ買い物袋に荷物を入れて自宅に帰った。
夕食を済ませてテレビを見ていると、実家の弟が電話をかけてきた。
そのうち僕の所に遊びに行きたいと言ってきたが、弟が高校生でアルバイトもしていないから貯金もないだろうというと母親から借りてでも行くと半ば強引に告げて来た。
またそのうちに考えておくと返答して電話を切った。
風呂に入り浴室から出た後ビールを飲もうかと手を伸ばしたが、新薬の事が頭をよぎり今日は飲むのをやめておいた。
就寝前の時間になった。薬局からもらった袋を取り出して説明書きの用紙に目を通した。薬品名はJUST SEEP SREEPER。どこかの家具ブランドの名称に似た名前だが、細かい事は気にしないようにしよう。
へぇ、特有の即効性があるから服用後はすぐにお休みくださいか。まさか夢の中に羊の群れでも出てくるのだろうかなどとふざけ半分で鼻で笑った。
1回につき2錠。それ以上の服用はしないでくれとのことだ。とりあえず新薬を飲んで口の中に水で流し込んだ。
すると、30分もしないうちに眠気がやってきたので、照明を消してベッドに横になった。
その日僕は夢を見た。どこかで見たことのあるのどかな緑色の風景が視界に入り、牧舎らしきところから、何かの鳴き声が聞こえて来た。
ああ、あいつらだ。
いつしかの夢で見た羊だ。
石垣で出来た低い塀が僕の目の前にある。そこへ牧舎から一頭ずつ羊が塀に向かって勢いよくジャンプして軽々しく飛び越えてきた。
おお、やるじゃん羊。
数メートル間隔を空けて羊が次々と塀を越えている光景を眺めていると、今度は僕の視界がおぼろげに霞んできて次第に目を閉じてしまった。
しばらくして夢から醒めると居間の天井が目に入ってきた。時計を見てみると朝6時。
途中で目覚めることなく眠ることができていた。しかも頭の中もすっきりしていて起き上がった体も不快に感じていた痛みや違和感がない。
いつ以来だろうか。まだ今の症状にかかる以前の自分に戻ったような感じがした。
そうこうしているうちに出勤時間が迫ってきたので、慌てて支度をして、家を出た。
その日は一日中薬の副作用も出ずに半ば軽い足取りで仕事に集中することができた。
20時。自宅に帰ってきた。若干の残業もあったがその分給与も出ると上司が言ってくれた。
明日も少し早めの出勤になるので、早めに寝ることにしようと決めた。
夕食を済ませて1時間もしないうちに、就寝時間になっていた。薬の服用の間隔が短めだが、今夜は仕方あるまい。
新薬を飲んでベッドに入り、疲労感も出て来たのかまたもやすぐに眠りについた。
またあの牧舎のある風景の場所が目に写った。
ああ、羊がこちらに向かって低い塀を一頭ずつ軽やかに飛び越えている。
羊が1匹、羊が2匹。そしてしばらく時間が経つとその数も増えていった。
羊が128匹、羊が129匹…。
あれ、次の羊が牧舎から出てこないなぁ。
僕はその塀を越えて牧舎の方へ向かって様子を見に行った。すると1頭の羊が背を向けて何かを食べている。牧草にしてはグニャリという違和感のある生々しい音が聞こえてきた。
恐る恐る羊の背中に近づき覗き込むと、僕の主治医をむさぼるように赤く染まりえぐられた体の生肉を音を立てて食べていた。
僕は足がすくんでいたがその場を離れようとした時に、
牧舎を飛び出し、塀に向かって全力で走った。
羊も生肉の血を口につけて長い牙を出しながら僕に突進してくるように追いかけてくる。
塀を越えて走り続けていくと
すると、強い振動が扉を突いてきた。
羊がどす黒い唸り声を上げて鳴いている。今にも扉を壊してこちらに向かってきそうだ。
どうしよう、このままだと僕も食べられてしまう。
助けてくれと何度も声を上げて叫んだ。
次第に視界が霞んできて、目の前が暗くなってきた。やがて、目を覚ましていくと、そこは僕の部屋の天井が目に入ってきたので、飛び起きた。
寝汗をかきながら息を切らして時計を見てみると、朝の5時半だった。起床時間ちょうどだった。
とにかく夢で良かった。
いつも通りに朝食を摂り支度をして家を出て電車に揺られながら職場へ向かった。
4週間後、クリニックに行く時間になって最寄り駅のホームで電車を待っていた。
プラットフォームの奥から何かの群がる鳴き声が聞こえきたので、壁に寄りかかっていた体を正して、線路の手前まで出てみると、羊の大群が線路を勢いよく駆けていく光景が目に入って唖然とした。
しばらくして目を擦り辺りを見回すと人が何もなかったかのようにホームに並んでいた。
やがて電車が入ってきたので、車内に入り通勤路を通っていった。
何が起きたのかわからないがきっと幻覚を見たのかもしれない。
クリニックについて診察の番になり、主治医にも夢の話をするとクスクスと笑っていた。
そうだ、夢は夢なんだ。
薬の副作用を聞いたが、そのような幻覚は起きる事はないと話し、体質に合わなければまた別の処方箋を出すと言ってくれた。
その晩、いつも通りに薬を飲んでベッドに入り照明を消した。
明日は休みだ。
これで少しは安らいで眠れるに違いない。
僕は目を閉じて次第に深い眠りについた。
そして、その隣には1頭の羊が優しい眼差しで眺めながら僕の寝顔を見ていた。
了
羊に抱かれて 桑鶴七緒 @hyesu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます