滑走する金星

飯田華

滑走する金星

 明け方の朝、白みだした街の中を走るのが好きだ。

 回る足音。

 真横をすり抜けていく景色。

 吐く息に混じる仄かな熱。

 それらのどれもが心地よく、自然と頬がほころんでしまう。

 けれど、わたしが走る理由はそれだけじゃなかった。

 

 玄関に置いたランニングシューズに、未だ覚束ない足先を通す。爪先をトントンと三和土に打ち鳴らし踵を合わせると、ぼやけていた視界にやっと焦点が定まった。

 これから走る。それを自覚した瞬間、すっと背筋が伸びて、まだ走ってもいないのに頬にじんわりと熱が灯る。

 走った先にある光景を想像すると、顔から火でも吹き出しそうだった。

 玄関を開ける。寒々しい風が鼻先を掠めても、全身に通う熱は途切れることを知らない。浮足立った心境が無意識に視線を前へと向かせて、淡い光の撒かれた街が視界全体に広がる。

「よし」

 身体中に余りある熱量を言葉にしても、まだ足りない。あめくようにふくらはぎが震えて、どうしようもない衝動の行き場を、灰色のアルファルトの続く先に求めているようだった。

 満ち足りるためには、走るしかない。

 走った先にある、本当に見たいものを見るまでは、この熱が収まることなどありはしないのだから。

 

 普段走るコースは、自宅から走って十五分ほど離れたコンビニを一往復するという、あまりぱっとしないものだった。住宅街を縫って、オレンジと赤と緑のラインが走った全国チェーンを目指す。真横を通り過ぎていくのは若干罅の入ったブロック塀くらいで、景観としても変わり映えはない。

 それでも、浮足立つ衝動を埋めるには十分すぎるくらいで、自然と頬がほころぶ。両腕を交互に振るサイクルがどんどん滑らかになって、意識などしなくても身体が前へ前へと突き動かされていくようだった。

 アウトドアというよりはインドアな自分にとって、こんな感覚に陥るなんてつい最近まではあり得ないことだった。ほんの数か月前までは、朝七時半までベッドの上に寝転がってスマホの液晶画面を無気力につついていただけのわたしが、今ではこうして腕を振りしきって疾走している。

「はっ、はっ……ははっ!」

 なんだか可笑しく感じて、乱れ始めた息に混じって、吹き出し笑いを漏らしてしまった。道中すれ違った、寝ぼけ眼の三毛猫から胡乱げな視線を頂戴する。気まずくなって、幾分か走る速度を吊り上げた。

 ランニングの最終地点であるコンビニまではあともうすぐだった。何度も見慣れた街並みが視界にちらつくにつれ、どくどくと、いつもより温度の高い血が全身になだれ込むのを感じる。

 鼓膜が拾い上げる音が自身の脈拍一つになる。

 やがてコンビニがまっすぐ続く道路の向こうに見えてくると、本当の目的地も窺がえるになっていた。

 住宅街の縁にひっそりと建っている一棟のアパート。交差点の左角に位置しているコンビニより手前にあるその建物は、外観から随分と年季が入っていることが窺えた。錆のこびりついた外階段の手すりに、風が吹くたびにぐらぐらと揺れるトタンの庇。棟全体に塗りたくられていたであろうベージュ色のペンキは、風化と共にところどころが剥がれ落ちていた。

 そんな、もうすぐ廃墟マニアが一眼レフを持って通いつめそうなオンボロアパートがわたしの真の目的地で、最近は毎朝のようにここを目指して早朝の滑走を続けている。コンビニまで突っ切っていくのは外面の体裁を保つため。

『彼女』に、わたしの思惑を悟られないようにするためだった。

 アパートと自分の距離が縮まっていくにつれ、呼吸が肺が引き絞られるように縮まって、吐く息がコマ切れになっていく。視線は左上がりになり、さっきまでは広大だった視界が嘘のように、一点しか見据えられなくなる。

 二階の、道路側に窓を向けた一室のベランダに、一人の女性の姿があった。彼女はベランダの手すりによりかかり、ぼんやりとした視線を白む街並みに注いでいる。まだはっきりと意識を覚ましていないのか、ふんわりと欠伸を浮かべる横顔は立ち昇りつつある街によく似合っていた。

 けれど、その表情よりも目を引くのは、さらさらと宙に毛先を舞い上がらせる、金糸のような長髪だった。朝の冷気をまとった風に吹かれるたび、糸の束がほどけ、空に金色の幕が展開される。

 そのはためきに、目を奪われて。

 喉元と眼球の動きが、一斉に停止する。

 数秒間ほどの一方的な邂逅はあっという間に終わって、いつの間にかアパートの前を通り過ぎてしまっていた。彼女が視界の端からいなくなった後も、心臓の鼓動が休まることはない。

 足先を左側にくるりと回して、コンビニの敷地に足を踏み入れる。その間もとぼとぼと歩みを止めず、できるだけ歩幅を前へ前へと刻んでいた。そうでもしないと、後ろを振り返ってしまいたくなる。もう一度、あの光景を目にしたくなる。

 心が横向きの重力を帯びたみたいに、引っ張られる。

「…………はぁ~~~~~」

 馬鹿だなぁわたしとため息を零しつつも、ちらりと後ろを向く。

 最近は、ずっとあの人に会いに行っている。

 ずっとずっと、絶えず、一方通行の軌道に乗り続けているのだった。

 

 最初は、朝早くにコンビニに出かけた帰りのことだった。

 いつもより早く目覚め、せっかくだからと家から少し離れたコンビニへ赴こうと足を伸ばした早朝。お目当てのものを買って家路につく最中、アパート二階のベランダに立つ彼女を見たときの感動は、今でも鮮明に再現できるほどにはっきりとしていた。彼女はそのとき、煙草を左手の人差し指と中指の間に挟んでいて、ときおり先を口元に引き寄せ、ただ一人の喫煙を楽しんでいた。

 くゆる煙と、舞う金色。

 目を奪われ、視界の端に焦点が合わされる。あり得ないほど、自分の身体の構成要素がぐるぐると混ぜ合わされ、別の存在になったかのように不安定で、足元がぐらついた。

 要するに、なんだろう、非常に青春めいた感情が胸中に巣食ってしまった。

 そのときからずっと、わたしは名前も知らない彼女を視界に入れるために早朝のランニングを続けていた。初めて彼女を見かけたときから、冬本番の今に至るまで走ることをかかさなかった身体は少しずつ鍛えられていって、ランニングを始めた当初より格段に走るフォームも耐久力も向上した気がする。別に運動部に所属しているわけではないから直接日常生活の役に立つことはないけれど、ああ、成長しているのだなという実感だけは手に入れることはできた。

 けれど、自分が少々気持ち悪いことをしているのも自覚している。ときどき走るのをやめてしまおうかと思うこともある。なにせ、相手は自分のことなど一切知らないのだ。そんな相手のことを毎朝、目に入れるためだけにあくせく走るなんて、変態じみている。ストーカーに片足突っ込んでいると言われても致し方ないレベルだ。

 けれど、やめようと思えば思うほど、爪先はアパートの方へと引き寄せられていって、目に見えない引力のようなものを直に感じる。

 彼女はまるで、惑星のようだった。わたしはその軌道上に乗っかってしまったが最後、もう逃れることなどできないのだ。

 ぐるぐると、朝日の昇りゆく街並みを回って、一人勝手にきらめきを見据える。

憧れだけで、足先は動く。

 そのことを何度でも証明するように、わたしは毎朝、玄関に降り立つのだった。


 







 

 自分に禁煙なんてできると思っていなかったのだから、人生というものは本当に何が起こるのか分からないのだなと、最近になって実感し始めた。

 今日も私は、朝方のベランダの手すりにゆったりと体重を預ける。明るくなりだした街の風景を、地面よりほんの少しばかり高い位置で眺めていると、日々の疲れがじわじわと冷気に浸み込んでいく気がして心地よかった。音の少ない景色というのは日中騒音に囲まれている自分にとっては新鮮で、最近はいつも、この時間帯に目を覚ましていた。

 まだ誰も活動していない時間の中、自分だけが息をしている感覚は、優越感に似た高揚をもたらす。毎日のように社会の歯車としてあくせく働いている身としては、歯車の音が聴こえない瞬間はなによりも心と体が休まるときだった。

 だからこそ、煙草の煙をくゆらすのにも精が出る、というのが前までの私だったのだけど、最近はコンビニで一箱五百円もする銘柄を買わなくなり、衛生上健やかな日々が続いていた。

 理由は、毎朝のようにアパート前の道路を駆け走る、一人の少女にあった。


 彼女のことを最初に意識したのは確か、数か月前くらいだっただろうか。その日もわたしは白みゆく街並みを眺めながら、煙草の煙をくゆらせていた。「最近値上がりがはげしーんだよなぁ」と、右手に持つお気に入りの銘柄の箱にため息を吐いて、ゆったりとした時間を享受する。そうやって出勤までの時間をそうして潰して、出勤ギリギリの時間になって初めてあたふたして、急いで最寄り駅へと駆ける。それがモーニングルーティンと化していた。

 煙草を吸い続けて長かったからか、大学生の頃よりも目に見えて体力の乏しくなった自分を自覚はしていた。けれど、早朝の煙草をやめる気にはさらさらならなくて、日々の毒抜きを必要としている自分に半ば、嫌気が差していたような気がする。

 何かに寄りかからないと、生きてはいけない。

 当たり前ではある摂理だけれど、その寄りかかり先に選んでいるものが体内を燻らせていく筒であることは手放しに喜べなくて、ふらふらと視線を彷徨わせていた。

 何か光るものを、求めていた。

 その往生の先にいたのが、名前も知らない、ただ走る姿しか見たことのない彼女だったのだ。

 彼女を見つけたとき最初に思ったことは、「若者は元気だなぁ」という、悲壮めいた感想だった。今の自分には到底できそうにはない疾走をしながら、アパート横を駆けていく彼女。肩の高さまで切り揃えられた黒髪がぱらぱらと風の中撒き散らされて、全力疾走を緩めない彼女は陸上部か、あるいは他の運動部なのだろうか、私がベランダに立っているときには大抵目にしていた。

 いつもコンスタントに手足を振りしきりながら、私の眼下を通り過ぎる光景は爽快で、つい視線で追いかけてしまう。

 視界の一端に現れてから見えなくなるまで。ほんの数秒間程の一方的な邂逅は、私に煙草を吸う以外の時間の潰し方を教えてくれたのだ。

 彼女を見出してから、今に至るまでに、私は煙草をやめることができた。けれど、早朝ベランダに顔を出す習慣は取りやめていなくて、煙草を吸う代わりに、手すりに寄りかかりながら彼女を待っていた。

 その軌道を、視界に収めるために。


 今日も、彼女の疾走を見下ろすことができた。ウインドブレーカーを着込み、いつもの短髪を宙に翻らせる彼女とは一度として話したことも、ましてや目線があったこともないけれど、彼女の走るフォームを見られるだけで私は満足していた。

 彼女が前へ前へと手足を突き出すフォームは、きれいだった。まるで、夜空を翔ける衛星のように、私の視界に光をもたらす。朝日に透かされた世界に衛星と見るというのは矛盾しているけれど、彼女から発せられる印象は夜のものに近かった。

 当たり前のように黒の彩りを撒き散らす。軌跡を描く。

 自分しか呼吸していないと思っていた世界に、一人分の呼吸音が一つと、足音二つ。

 生きる渇望が、前進に満ち溢れていく。

 だからこそ、いつか、彼女にお礼を言いたいと思っていた。話したことのない彼女に対してどう声をかければいいのかまだ想像がつかないけれど、とりあえず彼女のおかげで禁煙できたことを一方的に感謝したい。

 ありがとうと言って、隣に立ちたい。

 ベランダで眺めるだけじゃなくて。

 一緒に走りたいのだ。私は。

だから。

「週末はショッピングモール、行くか」

 彼女のいなくなった道路にぽつりと、独り言を落とす。

 走るためにはまず、形から。

 ランニングシューズを買おうと、心に決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

滑走する金星 飯田華 @karen_ida

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ