トロッコ
芥川龍之介/カクヨム近代文学館
トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後ろに
ある夕方、──それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村はずれへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、そのほかはどこを見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、いちばん端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、──トロッコはそういう音とともに、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。
そのうちにかれこれ十間ほど来ると、線路の
「さあ、乗ろう!」
彼らは一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初
しかしトロッコは二、三分ののち、もうもとの終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
良平は年下の二人といっしょに、またトロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かないうちに、突然彼らの後ろには、誰かの足音が聞こえ出した。のみならずそれは聞こえ出したと思うと、急にこう言う怒鳴り声に変わった。
「この野郎! 誰に断わってトロに触った?」
そこには古い
そののち十日余りたってから、良平はまたたった一人、
「おじさん。押してやろうか?」
その中の一人、──
「おお、押してくよう」
良平は二人の間にはいると、力いっぱい押し始めた。
「われはなかなか力があるな」
他の一人、──耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。
そのうちに線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」──良平は今にも言われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起こしたぎり、黙々と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、
「いつまでも押していていい?」
「いいとも」
二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
五、六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。そこには両側の
「登り
蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と言った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の
三人はまたトロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、おもしろい気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれればいい」──彼はそうも念じてみた。が、行くところまで行きつかなければ、トロッコも彼らも帰れないことは、もちろん彼にもわかり切っていた。
その次に車の止まったのは、切り崩した山を背負っている、
しばらくののち茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「ありがとう」と言った。が、すぐに冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匂がしみついていた。
三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心はほかのことを考えていた。
その坂を向こうへ下り切ると、また同じような茶店があった。土工たちがその中へはいったあと、良平はトロッコに腰をかけながら、帰ることばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」──彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を
ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、むぞうさに彼にこう言った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向こう泊まりだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの
良平は一瞬間あっけにとられた。もうかれこれ暗くなること、去年の暮れ母と岩村まで来たが、今日の
良平はしばらく無我夢中に線路の側を走り続けた。そのうちに懐の菓子包みが、邪魔になることに気がついたから、それを
竹藪の側を駆け抜けると、夕焼けのした
蜜柑畑へ来るころには、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば──」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕闇の中に、村はずれの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駆け続けた。
彼の村へはいってみると、もう両側の家々には、電灯の光がさし合っていた。良平はその電灯の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を
彼の家の門口へ駆けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の
良平は二十六の年、妻子といっしょに東京へ出て来た。今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、その時の彼を思い出すことがある。全然なんの理由もないのに?──
(大正十一年二月)
トロッコ 芥川龍之介/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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