タイマーの鳴らない世界
今回も目が覚めた。
今日は、本を読むことも、ノートに物語を書くこともしない。
リュックに文庫本や紙袋、炭酸ソーダを詰めていく。
この世界での久しぶりの外出だ。
ガチャッ、とドアノブを回した。
左右を確認する。
人通りはない。
僕は、外へ出た。
この世界での久しぶりの散策だった。
相変わらずゴミやがれきのせいで歩きづらい。
辺りを見渡すと、ガラスが割れている建物もある。
道までそのガラスの破片が侵食している。
見上げれば、雲一つないまっさらな空。
汚いものをすべて地上に落としたような空に、太陽が輝いている。
床に散らばったガラスが、陽の光を反射させて輝いている。
その光景を、きれいだと思った。
駅は、以前とあまり変わりない姿だった。
幸いなことに電車が動いているようだ。
カツ、カツ、と階段を上がると、その音が響くほど人の姿がなかった。
しばらくすると、時刻表を無視してホームへ入って来た電車に乗り込む。
てきとうな席に座った。
僕以外の乗客も、まばらではあるが、何人かいる。
しばらく僕はその乗客たちの様子を横目で観察したが、害がないと判断した僕は、リュックから文庫本を取り出した。
目的の駅に電車が滑り込む。
下車した乗客たちが規則正しくホームを流れていく。
僕はその流れを後方から遅れて追っていた。
この駅に降りるのは久しぶりだった。
駅は、以前の美しかった姿を今でも窺い知ることができる。
上へ顔ごと視線を向ける。
天井がガラス張りのアーチになっている。
ガラスは、今はところどころが割れている。
以前は多くの人で賑わっていた駅だ。
あの頃、誰もが駅の美しさを誇らしげに口にしていた。
ガラスのアーチの向こうに飛行船が飛んでいるのを見た日には、皆こぞって写真を撮っていたものだ。
だが、今はそのような光景は存在し得ない。
飛行船は飛んでいないし、ガラスは割れたままだ。
ただ、僕は、今の駅も悪くないと思う。
むしろ今の駅の姿の方が美しい。
そう思うことさえある。
無人の改札を通り、駅を後にした。
陽の光が街に降り注いでいる。
暑い。
何もしていなくても汗が滴り落ちる。
ただ、今は幾分かマシかもしれない。
以前だったら多くがコンクリートで覆われていただけだ。
今は違う。
自然のカーテンが引かれ、緑が灰色の部分を覆っており、そこかしこに日陰を作り出している。
何にしろ、今この瞬間はありがたい限りだ。
そんな光景を横目に歩を進める。
たて横に伸びた大通りをいくつか曲がると、目的の公園に到着した。
公園の敷地内の階段を上り終えると、いよいよ目的の場所だ。
そこは公園の一部でしかないが、開けているためにイベントスペースとして使われる。
実際に今もイベントが行われている。
古本市だ。
簡易的に組まれた木製の本棚に、本がところ狭しと並べられている。
料理、おりがみ、各種図鑑、絵画。
ジャンルごとに区分けされている。
まだ始まったばかりなのか、暑さのせいか、人はまばらだ。
僕も、色々な棚を見回った。
そのたびにてきとうな本を取り出して試しに開いてみたりした。
ただ、そうはしていても、最後に足を止めたのはやっぱり文庫本のコーナーだった。
文庫は、区画としては一番大きい。
僕は、端から順に本の背表紙を目でなぞり始めた。
探し物の検討は、ある程度つけておいてある。
それは例えば、過去に読んだ物語の続編であったり、歯抜けになった未読の物語であったり、お気に入りの作家の作品であったり。
この日に備えて一応の準備はしてきた。
ただ、実際は思い通りにはいかないだろう。
準備したものはほとんど無駄になることもだいたい予想がつく。
だが、それでいいのだ。
むしろ、脱線を望んでいる節さえある。
足に力が入る。
自分の今後の楽しみが、今日ここでの自分の選択に委ねられている。
そう思うと、責任は重大だ。
そうではあることは分かっているのおだが、今この瞬間を楽んでいる自分にも気づかされる。
右手に下げた紙袋の重さを感じながら、僕は公園の中で立っていた。
一仕事を終えたような心地いい疲労感。
ようやく落ち着くことができた。
改めて古本で溢れた会場を眺めてみる。
結局、時間が経過しても人の数はそれほど増えなかった。
人が入れ替わってはいる。
ただ、皆やっていることは大して変わらない。
みんな思い思いに棚を覗き込んでいる。
相変わらず日差しが強い。
会場の人々を容赦なく照らし、黒い影を作り出している。
その中で、一際小さな影があることに気づいた。
少年だ。
無理やり被らされたであろう麦わら帽子を被った少年が、他の参加者に構うことなく、通路となっている締めの上に座り込み、一心不乱に一冊の本を読みふけっている。
この歳から本に夢中になっているのは将来有望だ。
無責任な期待を抱く自分を笑いながら、そろそろ帰ろうか、と少年に背を向けて歩き出そうとして踏みとどまった。
自分が少年だった頃はどうだっただろう。
視界の中の少年は動かないまま。
しばらく少年を眺めながら、自分を重ね合わせようとする。
だが、うまくいかない。
そのとき、視界の中で動きがあった。
意識がそちらへ持っていかれる。
少年の向こう側からこちらに向かって人が歩いてくる。
女性だった。
ショートカットを揺らしながら距離を詰めてくる。
女性は最初からこちらへ向かって来るつもりだったのか。
それとも、僕がジッと見ていたのが無礼だったろうか。
目線を外そうとした。
すると、ふいに、女性が僕の目の前で止まって言った。
「〇〇くん」
その瞬間、頭の中にイメージが流れ込んできた。
人が立っている。
たぶん女性だ。
だが、逆光のせいで表情がはっきりしない。
誰なのかさえ分からない。
それなのに、不思議と温かいものが自分の中に沸き上がることが実感としてある。
場所は、教室?
いや、学校の中なのはたしかだが、たぶん木工室かどこかだろう。
僕に向かって必死の表情で何やら話している。
外から聞こえてくるにぎやかな声とのアンバランスさが妙な感じだ。
「はーい」
我に返ると、少年が渋々と返事を返し、立ち上がって女性の方へ寄っていった。
女性は少年の手を取り来た道を戻っていく。
僕はその間じゅう、彼らが見えなくなるまでその場に立ちすくんでいた。
セミの鳴き声が公園の中で響いている。
一人取り残された僕は、周囲を見渡した。
隅の方にベンチがある。
導かれるようにゆっくりとそちらへ移動した。
行きの電車以来、腰を下ろしていない。
本を見ている間も、歩ったり止まったりを繰り返していたため、歩数以上に疲労を感じる。
ベンチに座るとミシと乾いた音を立てた。
リュックから炭酸ソーダを取り出し、一気に飲む。
ソーダが喉を通っているのを感じながら、視界には青空が広がっているのが見えた。
ソーダを飲み終わっても、顔を上に向けたまま、顔に陽の光を一身に受けていた。
あれはなんだったのだろう。
あれは僕のオリジナルの記憶だったのか。
ポケットからタイマーを取り出す。
タイマーはまだ鳴っていない。
カウントダウンを続けている。
たしかに、僕は自分の故郷を見失っていた。
色々な世界を行き来しすぎたからかもしれない。
いつからか記憶がぼやけている。
ただ、これまで旅してきた世界の中に僕の故郷がある。
それはたしかなはずだ。
そんなことになって以来、自分の中のささいな揺らぎでさえ気になって仕方ない。
故郷へつながるヒントを無意識に探している自覚がある。
だけど、未だにその確証を掴めてはいない。
そもそも今さら何をもって僕は自分の故郷と断定できるのか、僕には分からなくなっていた。
タイマーは、もともと僕が設定したものだ。
一つの世界に入れ込み過ぎないように。
時間感覚が分からなくなることを防止するためのタイマーだった。
どの世界でも一定の時間が経過すると鳴るようにしてある。
ただ、困ったことに、僕はどうやら自分の故郷の世界でもタイマーを設定してしまったようだ。
油断していた。
どの世界でタイマーが鳴っても、僕は自分の故郷を認識できるものだと思っていた。
まさか自分自身の故郷を忘れるなんて夢にも思わなかっただろう。
今となっては笑えない冗談だ。
からになったソーダのボトルを空にかざす。
キャップを持ちながらボトルをくるくる回すと、陽の光がボトルのわずかな凹凸に反応して煌めく。
そんな光景を見ながら思う。
故郷でもタイマーを設定したのは、事故だったのだろうか、それとも_。
立ち上がり、公園の入り口まで向かう。
階段を上がって来たこの公園は、街から見ると高台になっている。
公園からは、街を見下ろす格好だ。
僕は、街を見下ろす。
そこにはかつて栄華を誇ったビル群が見える。
それが、今は自然に帰ろうとしている。
この光景をキレイだと思っていた。
そう思うのは、この世界にとって僕がただの観光客という無責任な存在だと、自分のことを思っているからだろうか。
もしこの世界が僕の故郷の世界だったら、そのとき僕はこの世界をどう思うだろうか。
足元に視線を落とす。
スニーカーの靴底を地面に擦り付けた。
僕は、この世界に立っている。
そんな実感がある。
正面へ向き直り、目を閉じる。
視界を閉じてみると、強い日差しの他にわずかな風が肌をなでていることが分かる。
左手に持った紙袋が重く感じられる。
ただ、身体全体はとても軽い。
タイマーが鳴っている。
僕は、この世界を飛び立つ。
タイマーの鳴らない世界 反田 一(はんだ はじめ) @isaka_haru
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