やり直し

憂鬱

完結

潮風が冷たい港町で、青い電車が颯爽と走り抜けた。




ぱちり、と音を立てて照明が部屋を明るく照らす。その瞬間にしまった、と思った。


「おい」


隠す気もない不機嫌な声が私の背中で低く唸った。ほとんど反射のようにビクビクと震える身体を押さえつけ「反省した顔」をする為に少し眉根を寄せる。時間をかければかけるほど彼の機嫌は悪くなる一方だろう。すぐに振り返り「ごめんなさい」と早口で告げた私に彼は優しく微笑んだ。

「次は気をつけてね」

リビングへ入っていく彼を横目にするりと自室へ滑り込む。閉め切った扉を背にずるずると床へ座り込んだ。ツキリと心臓が痛い。痛みを和らげようと大きく吸った酸素がやけに熱くてひくりと喉が引き攣る。肺が焼けるように熱を持ち呼吸が乱れると酸欠な脳みそが思考を溶かした。

「ばかだなぁ。」

呆れた声が脳内に響く。息が苦しくてうまく考えられない。私を罵る言葉だけが嫌に反響して逃げるように目を瞑った。


コンコン、と体に伝わる振動で意識が浮上する。再び扉がノックされるのをぼんやり聞いているとかちゃりとドアノブに手がかかった

音がして慌てて足で押さえつける。

「起きてるの?」

扉の向こうにいるのは母親のようだ。ほっと安堵するがぐったりと脱力した体では起き上がるのも億劫だった。どうしようかと悩んでいると今度こそ扉が開きオレンジの光が暗い部屋に差し込んだ。

「まだ制服着てるの、ご飯できたよ」

逆光になった母親の表情は伺えない。扉が開いた事でリビングから賑やかなテレビの音が

聞こえてくる。そう長くは眠っていないのだろう。

「いらない」

起き上がる気になれずカラカラに乾いた喉でぼそりと告げる。私の返答にあっさりと了承した母親はそのままリビングへと戻っていった。そうしてすぐに、お腹空いてないって、と言う母親の声が聞こえた。リビングの真隣に位置するこの自室は耳を澄ませば大抵の音は拾う事ができた。テレビの音と談笑と、かちゃかちゃと食器のぶつかる音。賑やかな生活音を聴きながら秒針の音だけが響く静かな部屋でごろりと転がった。



それで、と目の前の男が言った。

「どんな気持ちになりましたか?」

再び目線を下げる。真っ直ぐにこちらを見つめてくるこの男が苦手であった。こちらの真意を探るような、それでいて自身の心中は悟らせないぶ厚い壁を感じさせた。

何を考えているか分からない男にこちらも身構える。何を聞きたがっている、何を言えば正解なのか。この男が俯く私を急かす事は一度も無かった。ただじっと答えを待つ。野生動物を観察する写真家のように、息を潜めてその時をじっと待ち続ける。中々に辛抱強いそれに折れるのは大抵こちらの方だった。

正解が分からないまま、思ったことを素直に口に出す。


「おなかがすいたなぁ、と。」


それだけです。と言えば無表情な男の眉が微かにピクリと動いたのが分かった。間違えた、と理解する脳より先に男がにこりと微笑んだ。ただ優しく「そうだったんですね」と溢してまたじっとこちらを見る。

ドクドクと血が巡り痛いくらいの鼓動がうるさい。この男を怒らせたらと何度も思案する。腕を掴まれれば振りほどく事は出来ず、どかりと一発殴られればそれだけでこちらの敗北は決定するだろう。怖い、怖い、怖い。

間違えたら、どうしよう。

沈んでいく思考のなかでピピッと軽快な音が響きタイマーが時間を知らせる。重苦しい空気からの解放にほっと息を吐いた。

慣れた手つきで金を払い素早く立ち上がる。去り際にまた来週、と告げる男に軽く会釈して部屋を立ち去った。


閉じられた扉の前で、鍵を探す為にカバンの中を漁る。どうやって家に帰ってきたかを思い出すの作業はもう辞めにした。結果家に着いているのだから、過程などそれほど大したことではないのだ。不安定にグラグラと揺れるドアノブに鍵を差し込みガチャリと捻る。身に纏った衣服も空っぽなカバンもベタベタと塗りたくった化粧も重たくて堪らない。歩く度にミシリと音を立てるフローリングに脱いだ服を放り壁にある電気のスイッチに手を伸ばす。パチリ、と音を鳴らすことはなく静かに白い光が部屋を照らした。

音が鳴ったって、文句を言う奴はいないのに。無意識なそれにふっと笑いが漏れる。出しっ放しのカップに水を注いで喉を潤すと幾分か気分が晴れた気がした。

「今日こそは、飛び込むかと思ったよ」

脳内で声が響いた。喜びも悲しみも無く、ただ平坦な声でつまらなそうに告げるのに腹が立ってぐしゃりと髪をかき混ぜた。ぐるぐると巡る思考の中で爛々と光を撒き散らす電灯に目眩を覚えもう一度壁のスイッチに手を伸ばす。狭い部屋に響く音は無く、何も見えなくなった。


ズキズキと痛むこめかみを抑え、ゆっくりと目を開く。ぷくりと浮き上がった血管が、心臓の動きに合わせてリズミカルに痛みを訴えた。カーテンの隙間から差し込む光は無く薄暗い部屋の中でゆっくりと体を起こす。ざあざあと降る雨が窓をノックして早く起きろと私を急かしつけた。ちらりと見た時計は14時を指しており約束の時間が差し迫っていることに気がつく。怠くて堪らない体を引きずってなんとか部屋を這い出ると少し雨音が弱くなったような気がした。

ガチャリと扉が閉まり、白を基調としたシンプルな密室に閉じ込められる。硬い革張りのソファに腰を下ろしたところで、男がタイマーを机の上へ置いた。

「今日もよろしくお願いします」

男がにこりと笑いかけるのに軽く頭を下げる。外から聞こえてくる雨音が静寂を殺してくれるから沈黙に甘えた。ズキズキと痛む頭がさらに雑音を生み出す。男もまた沈黙を貫いている。

「雨が降っていますね」

絞り出した声に、男は「そうですね」と返した。何か話さなければと思えば思うほど、思考はぐちゃりと濁っていく。助けを求めるようにちらと男を見ると「お話聞かせてください」と話し始めた。

後はもう出された設問に答えるのみだ。必死に作り上げた答案用紙が返ってくることはないから点数も、正誤さえ分からないけれど。

怒らせるようなことを言わなければそれでいいななんて考えながら雨音と脈打つ雑音に侵された脳みそで淡々と答えていく。


「お父さんの事が怖いですか」


何個めかの設問。正解を探そうと目を閉じるけれどやっぱり分からない。

諦めて目を開くとそこにはいつもと変わらない表情の男が座っていてこちらをじっと眺めていた。

「怖くないですよ、ただ、怒られるのが嫌いなんです。」

誰だってそうでしょう。と零せばまた沈黙が訪れる。

「お家に戻りたいですか」

こちらを見る男の顔は何故か酷く優しい表情で、ドクドクと早鐘を打つ心臓がアンバランスに乱れた。

もう一度閉じた瞼の裏で体育座りで座り込む誰かが「さみしいよぉ」とベソをかくのでつられて私も泣きたくなった。


ピンポンと鳴るより前に扉を開く。見覚えのない二人組の女性がにこりと微笑んだ。

「はじめまして、本日は宜しくお願いします。」

先日100均で買い揃えたスリッパを差し出しありがとう、と小さく溢した二人を片したばかりの部屋に招き入れる。三人分の重みを受けたフローリングが普段よりも大きく音を鳴らした。二人が椅子に落ち着いたを見てスリッパと一緒に買った100円の湯呑みをテーブルに置いた。

軽く自己紹介をきいた後で、カチカチと響く秒針の音を聞きながら茶をすする二人を見つめる。白いシャツにオレンジののカーディガンを羽織る太った女性と、カジュアルな薄茶のスーツに身を包んだ茶髪の女性。二人の対照的な風貌がおかしくてお笑い芸人みたいだなと思った。脳内で床に転げて笑う誰かが映る。

湯呑みを置きホッと一息をついた痩せた女性が「お元気ですか」と聞くので「元気です」と簡単に返す。4つの目がじっとこちらを見つめてそれはよかった、と薄く弧を描く様に見覚えがあるなと思った。あの男と一緒のこちらを探る目だ。

「貴女が施設を出て半年が過ぎますね。病院へはちゃんと通っていますか」

病院とはあの硬い革張りのソファがある密室の事で、いつも会話をするあの男とはつまり私の主治医であった。毎週月曜日の16時。決まった時間にちゃんと通っていると返すと今度はすんなりえらい、と声が返ってきた。

あの男と目の前の二人は繋がっていて、私が毎週せっせと通院している事などはとっくに知っているのだろう。

「____さんもとても気にされていましたよ」

同情する様な生ぬるい声色にざわりと心が波立った。聞き覚えのない名前だが貼り付けた笑顔でにこやかに返す。「18歳になると施設にはいられないから、本当にごめんなさい。今日で、これで最後だから。」

太った女性が申し訳なさそうに眉根を寄せる。

17歳、高校二年生の冬に児童相談所に保護されて、そのまま一年と少しを養護施設で過ごした。当初通っていた高校へは通えなくなり高校3年生の夏に通信制の高校へ転入。卒業まであと半年という所で、私は慣れ親しんだ母校を後にした。中学から通っていた5年分の思い入れがある大切な場所だった。その後は施設と学校とアルバイト先のスーパーを往復するだけの毎日を過ごし、高校を卒業した途端ぽいと社会へ放り出され家族も金も無いひとりぽっちでこの安いアパートへ転がり込んだ。

高校を卒業してから半年。18歳をとっくに過ぎていても施設を出てから少しの間は保護観察期間なのだろう、が、先程太った女性が言っていた通りそれも今日でおしまいという事だ。

数回に分けて現状を報告し聞かれたことにきっちり返す。時々ふざけた調子で冗談を言うと二人分の笑い声と安心した様な表情が見えてこちらもほっと息を吐いた。

「それじゃあ、がんばってね。何かあったら、いつでも頼ってくださいね。」

空になった湯呑みを置いて、痩せた女性が椅子を引いた。それに習ってもう一人も立ち上がり玄関へ向かう。

今日はありがとう、と立ち去る二人を見送る。太った女性の方が振り向き去り際に手を伸ばした。反射で差し出したこちらの両手を包み込み目を見つめられる。


「貴女はしっかりしているから大丈夫。幸せになってね。」


それじゃあと手を離されバタリと扉が閉まる。二度と使い所がないだろう二足のスリッパが寂しく佇んだ。柔らかくて温かいふくよかな感触を思い出して自身の手を見つめる。

空になった湯呑みを片そうと手に持った瞬間、最後に言われた言葉が脳を突き刺し目の前がカッとなった。ガシャン、と大きな音を立ててそれは床に散らばった。粉々になった陶器をぼんやり見つめる。鼻の奥がツンとしてじわりと目に膜が張った。

「しっかりしてるのに、良い子なのに、どうして捨てられたの。」

呟いた声が自分のものじゃないみたいに、ひとりぼっちの部屋に吸い込まれて消えた。




腹が立った。と素直に告げると、珍しい私のきっぱりとした物言いに男は嬉しそうに笑った。

「家から連れ出したのはあの人たちなのに。そうでなければ、今頃私は家族みんなで幸せに暮らしていたと思う。」


「それじゃあやっぱりお家に戻りたいってことですか」


「それは、よく分からないけれど」


「分からないか」


モゴモゴと喋る私につられたのか男もモゴモゴと歯切れの悪い返事をした。相変わらず硬くて座り心地の悪い革のソファに身を沈めて思案する。


「でも、仲が良い家族でしたよ、一緒に遊んだり楽しい時間もありました。」


叱られた子供が言い訳する時みたいなぶっきらぼうな物言いが口をついた。世間は私を被虐者にカテゴライズするけれど、そんな実感は正直無い。家に戻りたいも、戻りたく無いもどちらも本心で、相反する感情が一つの体で渦巻いているから時々狂ってしまいそうになる。


「どんな時が楽しかったですか」


男の単純な言葉に、はたと時間が止まったような感覚を覚えた。ぐるぐると脳内で記憶を漁るがこれといったエピソードが浮かび上がらない。思い出の中の父親は黒く顔を塗り潰されていてどんな顔をしていたかちっとも分からなかった。記憶の中の彼は大きくてゴツゴツした指で私の頰を撫ぜる。真っ黒で見えないのに優しく笑っているのが分かった。

男は私の答えをじっと待っている。

カラカラに乾いた喉が張り付いてはくはくと数回息を飲んだ。

「私、笑窪があるんです。お母さんにもお兄ちゃんにもなかったけれど、私と父だけ両頬に笑窪が。お揃いだねって、父がよく言ってくれたんです。」


何故だかすごく緊張して体中の毛穴からじんわりと汗が滲み出た。乾いた喉を潤そうとなけなしの唾を飲み込んで余計に口が渇いて困った。


静かに電気を付けて、服を放って、蛇口を捻って水を注ぐ。カップから溢れた水が渦を巻いて排水溝の奥へ消えていくのを見つめながらぐいとコップを煽った。カラカラに渇いた喉に冷えた潤いが心地良く染み渡る。

「つまりはさ、楽しかった時なんて無いんだよ」

脳内で響く声も冷たかったけれど全然心地良くなくて思わず舌打ちをした。

胡座をかいた足に肘をついて、片手で頬杖をついている誰かが見える。

「うるさいな、あの時は咄嗟に思いつかなかっただけだよ。」


「そうかなぁ」


煽るような声色に苛立つのと同時にギクリとと体が強張った。脳内で声が響くのは日常でも、返事があるなんて初めての事だった。

初めての会話にドキリと心臓が跳ねる。


「お前だれだ」


誰もいない部屋で自分の声が間抜けに響く。


「オレはお前だよ」


「いつからいるんだ」


「ひどいな、ワタシはずっと一緒にいたよ」


そうか、と腑に落ちた。ずっと一緒にいたのか。飄々と話す声に段々と冷静になる。

声ははっきりと聞こえるのに顔や姿を捉えられないのが不気味だった。名前を知れば、性別くらいは分かるかもしれない。


「名前を教えてよ」


「ツバサ」


「男か女か分かりにくい名前だな」


外れた思惑につい苛立った声が出たが、ツバサはケラケラと笑い転げた。その日の夜。同居人ができた気分になって浮かれた脳みそが一人分にしては多すぎる量の味噌汁を作って、またツバサの笑い声が脳内で反響した。



グツグツと鍋が煮立って、今にも溢れそうな無数の泡が鍋の蓋をカタカタと揺らした。

「おい、鍋危ないぞ」

ツバサの声で振り向くとせり上がった熱湯が今にも吹きこぼれそうで慌てて火を止める。

すっかり大人しくなった泡がしょんぼりと鍋の中へ萎んでいくのを見つめながらほうとため息をついた。

「すっかり忘れてた、ありがとうツバサ」

どういたしまして、と返すツバサにもう一度礼を言って鍋へ手をつけた。水を吸ってぶよぶよと太った麺を皿へ移す。

以前よりもさらにスムーズに会話ができるようになったツバサは本当に同居人のようで、ひとりぼっちの部屋は随分と賑やかになった。

「随分夢中になっていたね」


液晶に映るのは、知らない港町の風景。


「家族に会いに行こうと思って」


「………」


「病院の先生も児童相談所の女も、私を家族から遠ざけようとするの。家に戻りたいか何度も確認して。きっと、私が戻りたくないって言うまでずっと。」


ツバサは何も言わない。


「私が良い子じゃなかったから怒られるんだよ。お父さんもお母さんも悪くない。でももう大丈夫。」


「次はもっと上手くやれる。」


私が言うより先にツバサの声が響いて、中途半端に紡いだ声がはく、と音にならずに消えた。私の気持ちを理解していると分かったのと同時にツバサの表情が浮かない事に気がついて、ざわりと不安が募る。

いつもは鈴が鳴るみたいにケラケラと笑うツバサの声が今は低く唸った。


「楽しい事なんか無かったでしょ」


「思い出せなかっただけで、無かったわけじゃない。」


ツバサの強い語気に、負けじと低い声が出た。誰よりも私を理解してくれていつだって隣で支えてくれた。ツバサに否定された事でぐわりと脳に血が上り、苛立ちに似た何かが沸々と湧き上がる。これは怒りか、悲しみか。


「次会ったら今度こそ殺されるよ」


目の前がカッとなって、がしゃんと音を立てて目の前の皿が床へ飛び散った。太った麺の死体がびちゃりと倒れ伏すのを見て茹だった脳があっという間に冷える。物にあたるのは私の悪い癖だ。冷静になろうと目を瞑り深く呼吸をすると、地べたにしゃがみこむツバサの姿があった。その姿を見て私はすっかり納得した。


「お前、まだあの家にいるのか」


思わず口を開けば顔を上げたツバサが目を見開いてそれからわなわなと震えた。そこにいたツバサは想像よりもずっと幼い顔立ちをした子供の姿だった。

子供は赤く染まる顔を隠そうともせず湧き上がった感情をそのまま大声で放出した。


「おまえが置いていったんだろう」


はぁはぁと肩で息をするツバサを前にしてもこちらの心は凪いだままだった。冷静な頭が興奮した様子のそれを見つめる。


「一人だけ逃げ出しやがって、自分だけ幸せそうな顔をして。」


「幸せなんか、これっぽっちも感じてないよ。忘れたいのに忘れられないのはお前がいるからだろう。」


私が忘れている記憶は、ツバサが覚えている。施設で過ごす間、無意識に全ての思い出をツバサへ押し付けた。でもツバサの存在を感じる限り、私が忘れている記憶の存在も認識してしまう。

忘れちゃえば楽なのに。嫌いになれたら、幸せになれるのに。

お前の事が憎いよ、と告げれば見開かれた瞳がぱちりと瞬きをして涙がつるりと頰を伝った。ヒクリと引き攣った喉が痙攣し掠れた声帯を震わせる。


「ボクが。ボクがいるせいでお前は幸せになれないのか?」


信じられないと言った表情でこちらを見つめる。潤んだ瞳からボロボロと涙が溢れてざあざあと雨が降った。ズキリと頭が痛んで思わず俯くと両足に透明な液体が絡まっていた。

ちゃぷちゃぷと揺れるそれは次第に嵩を増し膝を覆いあっという間に私の下半身を飲み込んだ。激しくなる雨が視界を悪くしてめそめそと泣き続けるツバサの姿が小さくなっていく。いつのまにか胸まで浸かった水が大きく揺れてそのままちゃぽんと水中へ沈んだ。



とても、仲の良い家族だったんです。

父と、母と、三つ離れた兄がいて、三角の屋根が可愛らしい一軒家に住んでいました。 海が近くていつも潮の香りがするこの街に、家族四人で暮らしていました。

ざぶんと波が押し寄せて汚れたスニーカーを洗い流す。想像よりも冷たいそれにぶるりと体が震えた。

私は生き物が大好きで、小さな犬を買ってもらって、花と虫と、それから金魚を数匹育てていました。お父さんは怒ると怖いけど、そうでない時はとっても優しくて、器用で何でもできるカッコいい人でした。そんなおとうさんのことが私は大好きで、その為に私は良い子でいないといけない。

芯から凍る様な冷たさに足先の感覚が無くなる。それでもゆっくりと足を進め海を踏み歩いていく。ざぶんざぶんと揺れる波が海の奥へと招き入れてくれているようで冷たい体が少し暖かくなった気がした。

おとうさんはいつも私を選んでくれた。

一緒に食事をする相手も、ゲームをしたりお出かけしたりする時も、大事なお仕事場でさえ私を連れて歩いてくれた。

そして彼は何より海が好きだった。

地面から足が浮いて揺れる波に飲み込まれる。前も後ろも分からなくて何かに縋りたくて必死に手を伸ばすけど掴んだ海水はぜんぶするりと逃げていった。寒くて鼻がキンと痛む。息が苦しくて酸素を取り込む為に上を向くけどどこが上かももう分からなくて。

もういいかと脱力した後でぽっかりと浮かび上がった月が私を見下ろしていた。


「海になったら、良い子じゃなくても、愛してくれるよ。」


嬉しくて嬉しくて涙が溢れた。

あぁでも、海が好きだったのはお母さんだったかもしれない。

「ばかだなぁ」

呆れた声が脳内に響いた。

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やり直し 憂鬱 @akitarita

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