夢喰いの夢

外清内ダク

夢喰いの夢


 夢喰いの魔物は夢を見ない。医者が病んではいないように、神父が天国にはいないように、夢喰いもまた夢に冒されてはいないのだ。

 彼の仕事はひとを夢から救い出すことだ。おおくは黒檀色の夜に、ときには乳色の昼に、彼は家々を回り、眠る人々のそばへ寄り添う。鼻先をそっと相手の額へ付ける。そうしてひとを惑わす夢を吸い上げ、飲み込んでしまう。夢にはさまざまな味があるが、特に甘く舌触りのよい夢ほど、むごくひとを苦しめる。そんな夢の匂いを嗅ぎつけると、夢喰いは、気の毒でいてもたってもいられなくなる。

「ああ、確かに夢は、そこにあったはずなのに」

 夢を喰い取ってやると、ひとは決まってこのように嘆く。

「今ではもう、それが何だったのかさえ思い出せない。あれほどこの胸を焦がしていた炎は、いったいどこへ消えてしまったのだろう……」

 とはいえその懊悩もいっときのこと。すぐにひとは炎の熱さも喪失感も忘れ、憑き物の落ちたようにすっきりした顔で現実を生き始める。それを見ると夢喰いはほっとする。自分が大切な、ひとのためになる役割を果たしているという自信はある。夢を除かれた人間の苦悩は、薬の苦みのようなものだ。そう頭では理解していても、あまりに誰もが嘆き悲しむものだから、夢喰いはいつも不安に思っているのだ。

「僕は本当に正しい仕事をしているのだろうか。ひとはなぜ、夢を失くしてああまで苦しむのだろうか。そも夢とはいったいなんだ?」

 あるとき彼は夢喰い仲間を訪れ、率直に疑問を口にした。仲間は首をかしげ、なんともいえない困った顔をするばかりだった。

「夢とは何か、だって? お前も海は知っていようが、大海の底まで潜ったことはあるまい。空は知っていようが、蒼穹の果てまで辿り着いたことはあるまい。そんなことを知って何の役に立つ?」

 もっともなことだ。彼はすっかりしょげかえってしまった。夢の正体は自分には分からない、そう思えば思うほど、憧れはかえって膨らんでいくようだった。そして憧れが膨らめば膨らむほど、己の生業への疑問がいやましていく。

 ひょっとしたら、自分のしていることは間違いなのではないだろうか。夢はひとにとって、本当は大切なものなのではないだろうか。夢を失くしたひとがやがて何事もなく落ち着くように見えるのは、単に自分の中の苦しみに耐える力を身に着けただけではないだろうか。自分はひとを助けるつもりで、実はとんでもない悪行をしてしまっていたのではないか。

 もしそうだとしたら……自分にはもっと別の生き方ができるのではないか?

 夢を喰い潰すのではなく、夢を育み守る生き方。夢という病を癒すのではなく、病の中で生きる人の背中を支える仕事……

 その日から夢喰いの挑戦が始まった。夢の匂いを嗅ぎつける力が、もっとも甘い夢に苦しむひとを探し当てるのに役立った。最初に出会った夢の罹患者は、英雄志願の若き兵卒だった。夢喰いは兵卒の前に姿を現し、優しくこう語り掛けた。

「じきに戦が始まるよ。英雄になる好機がやってくる。君は民草に讃えられ、美姫をめとる栄誉を得、歴史に武名を刻みたいのだろう? さあ、今がその時だ! 剣を取れ。僕がそばについている」

 兵卒は大いに励まされ、勇んで戦場へ飛び込んでいった。彼は実に勇敢に戦い、7つの首級しゅきゅうを挙げた。彼は将軍から兵の模範であるとして称賛され、たちまちのうちに昇進した。そして数日後、彼は荒野に積み重なる腐れた死体のひとつとなった。

 夢喰いは落胆した。だが胸の中にはまだ炎のように熱い感情が燃えさかり、絶え間なく夢喰いを焦がしていた。ひとつの失敗で諦める気にはなれなかった。

 次に見つけた罹患者は、貧困に苦しむ少年だった。少年はただ金を持たないがためだけに、母親と妹を病気で失った。ゆえに彼は商売の成功を夢見た。大金を稼ぎ、あのような苦しみとは無縁の人生を送りたかったのだ。夢喰いはこの少年の前にも現れ、そっと囁きかけた。

「なんと健気なひとだろう。君の夢は正しい。君のすることは正しい。さあ、懸命に働くがいい。できることはなんでもやって、大いに富を築くがいい。君の夢が清らかであることは、僕が保証しているのだから」

 それで少年は奮起し、一生懸命に働いた。ひとに与えるものはなるべく少なく、自分の掴むものはなるべく多くと心掛け、あらゆる手段によって金を稼いだ。みるみるうちに財産は膨らんでいき、少年が青年になる頃には街一番の富豪へとのしあがっていた。だが、なぜだろう、不思議なことに彼を恨む者が現れだした。その中のひとりに背中を刺され、彼はせっかくの財産を使う暇もなく死んでしまった。

 夢喰いの失望は大きかった。せっかくうまくいきかけていたのに、つまらない不運によって夢の道はまたしても断たれてしまった。だが夢喰いはまだ諦めなかった。

 最後の罹患者は、絵描きを志す乙女だった。彼女は絵が好きで、好きで、たまらなく好きで、だから絵とともに生きたいと願っていた。だがこの世に優れた芸術家はあまたある。彼女は新たな絵を描くたびに、より優れた別作家の作品に打ちのめされ、自分の才能の乏しさに苦悩するのだった。

 夢喰いは乙女を正面から見つめ、切々と訴えかけた。

「諦めてはいけないよ。一度や二度の、十度や百度の失敗がなんだ。さあ、筆を取るんだ。僕がここで見守っていよう。もう一度描いてごらん。もう一度、もう一度……」

 乙女は力強く頷き、全身全霊を込めて絵にとりくんだ。男遊びもせず、結婚の誘いも振り切り、半端仕事でかろうじてその日暮らせるだけの稼ぎを得て、浮いた時間を残らず創作に注ぎ込んだ。描いて、描いて、描き続けて、十年、二十年という時が過ぎた。かつて乙女であった女性は、いまや老婆になりかけていた。そして彼女の絵が世間の評価を得ることは、ついになかった。

「なんてこと」

 死の床で老婆は涙を流す。

「全てを投げうって励んできたのに。何も得られず、時ばかりが過ぎ、引き返しようもないところまで来てしまった。ああ、愚かな夢など抱かなければ。あのとききっぱりと諦めていれば。苦しみばかりで何の果実も実らない、荒野の枯れ木のように寂しい人生を送ることはなかったのに。私は何のために生きてきたのだろう。私は何のためにこの世に在ったのだろう。夢さえなければ。夢という病さえなければ、私はもっと……もっと、別の……」

 老婆は死んだ。

 そして夢喰いは。ああ、夢喰いの魔物は……

 涙の味を、彼はこのときはじめて知った。脳天から左右に引き裂かれたかのように、彼を恐るべき苦痛が襲った。夢喰いは呻いた。嘆いた。のたうち回った。なぜこんなことになってしまったのだろう。彼の囁きは多くの者を不幸にしてしまった。こんなことのために生きてきたわけではなかった。そのはずなのに、彼の中の暗い炎は、今なお熱く、身体を内から焦がし続けているのだ。

「僕はただ、夢を知りたかっただけなのに! 夢と共に生きる人々の胸に、喜びを育ててやりたかっただけなのに! 僕はいったい、なんてことをしでかしてしまったんだ!」

 その夜、黒檀色の夜、夢喰いは疲れ果てて眠りについた。

 すると、闇の中からそっと忍び寄る影があった。それは夢喰いの同族の魔物であった。魔物は眠る夢喰いの額に鼻先を付け、しばらくじっと寝顔を見つめていたが、やがて飛び立ち、夜空へ溶けて消えた。

 日の出とともに夢喰いは目覚め、自らの身に起きた異変に気づいた。彼は戸惑った。何かが足りない。奇妙な欠落感が脳の奥にこびりついていた。まるで自分の頭の中から、ひどく大きなものが、ぽっかりと抜け落ちてしまったかのようだ。ぞっとするような悪寒と喪失感が夢喰いを震わせた。

「ああ、確かに何かが、そこにあったはずなのに。今ではもう、それが何だったのかさえ思い出せない。あれほどこの胸を焦がしていた炎は、いったいどこへ消えてしまったのだろう。僕は何を失ったのだろう。僕は何を見ていたのだろう。何も思い出せないのに、なくてはならないものを失くした、その確信だけがここにある。

 僕の口に残る奇妙な苦味――!?」



THE END.

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