沼に毬

ハヤシダノリカズ

ぬまにまり

「すっごく、すっごく好きになっちゃったんだけど、ユージは私の事なんて、なんとも思ってないの」そう言った依子よりこの目からこぼれた涙が頬を伝って流れている。

「やめときなって。ろくでもない男だよ、ユージ君って」人目も憚らずに泣きながらグチグチと感情を垂れ流す依子に半ば呆れながら、でも、私は本心からそう言った。

「彼に抱かれるのは嬉しいの。彼の指が、彼の唇が私の体に触れる度に、『好き』とか『愛してる』って言いたくて仕方なくなるの。でも、それを言ったら重い女だと思われそうで……」

 おいおい、そういうアケスケな事を言うんじゃないよ、このバカ女。少し離れた所に立っているカウンターの向こうのバーテンダーは、私たちの話を聞いてないような顔をしてくれているけど、しっかり聞こえてるに決まってる。ちょっと話の軌道修正をしなくっちゃ。


「依子って、昔っから、好きになった男に振り向いてもらえた瞬間、その男の事がイヤになってたじゃない。ほら、野球部の山本君もそうだったし、水泳部の高岡君の時もそうだった。そういうの、蛙化現象かえるかげんしょうって言うんだってさ」私は最近仕入れた知識を披露する。

「え、なに?カエルカ?」依子は目を大きく見開いて私の方に顔を向けた。もう涙は止まってる。結局そう。あなたはいつもそう。自分に酔って感情をあっちやこっちに振り回してスッキリするのが好きなだけ。中学以来の腐れ縁とは言え、ホント、バカな女。そういう振る舞いをする女がいるだけで、女全体が軽く見られるんだから、同性として迷惑極まりない。


「うん。蛙化。蛙化現象。この言葉は、グリム童話のカエルの王子様からのものらしくってね。知ってる?カエルの王子様の話」私がそう言うと、依子はフルフルと首を横に振った。私はあやふやな記憶を辿りながら説明を続ける。

「ある国の王女がさ。森かどこかで遊んでた時に、金の毬を泉だか沼だかに流してしまってね。それで途方にくれていたら一匹のカエルが寄って来て、『あの毬をとってきてやるから、その代わりにオマエを抱かせろ』って言ってきた」

「きゃ、気持ち悪い」依子は両手で口元を隠しながらそう言った。いつも通りのオーバーリアクションだ。

「ま、気持ち悪いよね。だから、王女は大切なその毬を取ってこさせるだけこさせて、後はガン無視で城に帰った」

「そりゃ、そうよ。私だってそうするわ」ホントサイテーな女だな。それなら、毬を諦めろ。

「ところが、しばらくすると城にそのカエルがやって来て、その約束を破った王女の父親である王様に事の顛末を話した。すると、それを聞いた王様は大激怒。約束をそんなに簡単に破るとは、と怒ったんだね。そして、王女の寝室に王女とカエルを押し込んで二人っきりにした」

「なにその頑固オヤジ。大切な娘がカエルなんかに抱かれていいとかどうかしてるわ」毬を諦めていればこんな事にはならなかった訳だが。……、女同士の付き合いはめんどくさい。的確なツッコミを口に出すのはタブーだ。私は依子にしている童話の説明と、私の依子への感情の、発声のオンオフを間違えないように気を付けながら説明を続ける。


「そう、そして、ベッドの上に上げろと詰め寄ってくるカエルの気持ち悪さにキレた王女はカエルを掴み上げると壁に向かって思いっきり投げつけた」

「そうよ!そうこなくっちゃ!」

「すると、さっきまでカエルだったそれはカッコイイ王子様になっちゃった」

「え、どうして?」

「カエルになる呪いをかけられた王子の、その呪いを解く方法が王女とのスキンシップだったとかじゃない?カエルが思っていたスキンシップとはいかなかったけど、王女は素手でカエルを鷲掴みにしたから、呪いが解けた、みたいな」

「えー。いい加減だなぁ」

「ともあれ、王女はその王子と結ばれ、めでたしめでたし、ってお話」

「ふーん。で、その話だと、気持ち悪いカエルが王子になって、キライが好きに変わるって事じゃないの? なんで、私が好きだった山本君とか高岡君をイヤになった話が、その、カエルカなの?」

「さぁ、なんでだろ」手の平を高速でクルクルさせるバカさ加減がそのままじゃないか。「その辺りはよく分からないけど、この童話を逆再生したら、王子様がキモいカエルになる訳だし、あ、そうか。だから、【蛙化】か」そういう事かと私は心の中で膝を打つ。「好き好きと憧れていた王子様的な男子が、いざこっちに振り向いたらキモいカエルでした。あぁ、もう、ムリムリムリムリってなるのが蛙化現象で、依子はいつもそうだな、って話よ」

 説明した私自身、分かる様な分からない様な内容だと思ってしまったけれど、やっぱりというか、案の定というか、依子はキョトンとした目でこっちを見てる。


「はぁ。そうかな」私の説明を理解しようと歩み寄ろうだなんて気持ちが1mmもない依子は一歩も動かないまま、【私って可愛いでしょ】的な仕草と佇まいでテキーラサンセットをちびりと一舐めした。

 たぶん、女子力という部分において、私は依子に随分負けている。私は目の前の1パイントグラスのギネスをゴクゴクと喉の奥に流し込んで、「ふーーー」と長い溜息を吐いた。


 ユージ君に振り向いてもらえたら、依子はその時ユージ君を嫌いになるのだろうか。

 それよりは、遊ばれるままに股を開いているのが幸せなのだろうか。


 ---


「やぁ。アリコさん」そう声をかけて来たのはユージ君だ。昨夜、依子の愚痴を散々聞かされた私の気持ちなんてお構いなしといった風情で、やわらかな笑顔を浮かべながら彼は私に近寄ってきた。

「こんばんは、ユージ君。どこへ行くの?」

「どこへ行く、っていうか、銭湯帰りだよ」見れば、上下ジャージで首にはタオルをかけている。一時間の残業を終えて出て来たスーツ姿の私とは大きな差だ。

「いいご身分ですこと」

「いやぁ、明日をも知れぬ自由業、湯にでも浸からにゃ、やってられないって事で」

 クシャッと見せる笑顔。目尻の皺が自然体で、それが人懐っこさを覚えさせる。

「そ。それなら、今日はお仕事を終えたって事ね。じゃ、ちょっと付き合いなさいよ」

「えぇ。もちろん。喜んで」ユージ君は人からの誘いに躊躇なく乗る。湯上りでジャージだろうが、手に持っているチープな袋の中に脱いだパンツが入っていようが、手持ちのお金が数百円だろうが、『ちょっと待って、一度家に帰ってから……』なんて事は言わない。

「ちょっと歌いたい気分なの」

「あぁ、それなら、DOYAどやに行きますか」

「そうね」

 ユージ君と私は並んで歩きだす。

 なんの気負いもない様に見えるユージ君の歩き方は、誰かを不快にさせるなんて事はまるでないのだけれど、ジャージ姿に加えて、真っすぐに伸びた背筋と堂々と張った胸が堅気カタギの人間にまるで見えない。スーツ姿の会社員からすれば、その自由さが羨ましいのか、すれ違う人々が皆ユージ君の顔を見上げては複雑な表情を浮かべて通り過ぎていく。

「身長、いくつだっけ」私はユージ君を見上げながら聞く。

「186、だったかな」


 ---


 私たちの共通の友人である土屋つちや君がやっているDOYAというお店は、元はドレスで着飾ったおねーさんが付いてお酌をしてくれるクラブのような店だったらしいが、土屋君がお父さんから引き継いでからはカラオケパブのようなスタイルで営業をしている。要は女性店員が愛想を振りまいてくれないスナックだ。歌っても歌わなくてもいいこの店は、渾身の力を込めて一曲だけ歌いたい時なんかに重宝する。見ず知らずの他の客に聞かれるのは良くも悪くも、だけど。


「いらっしゃい」土屋君が私たちに気付いて声をかけてくれた。「早い時間からのご来店、ありがとうございます」この店は遅がけの客が多い。土屋君は触っていたスマートフォンを置いて、おしぼりを取りにバックヤードに入ってすぐに戻って来た。客は私たち二人だけだ。私たちは土屋君の前のカウンターのスツールに並んで腰をかける。

「アリコさんは仕事帰り? ユージは……ナニ帰りなんだ?その恰好」土屋君は私たちにおしぼりを出しながらそう言った。

「ナニって銭湯帰りだよ。いい湯でしたー」そう言って、ユージ君は屈託なく笑う。ユージ君のいいトコロは誰に対しても自然体で和やかなトコロだ。人を選んで態度を変えている姿を私は見た事がない。

「アリコさんは一杯目、ジントニックでいい? ユージは風呂上りって事は……」

「うん。ビールがいいな」

 そんなやり取りの中、土屋君はカラオケの選曲端末をさっと私に出してくれた。

「そんなに『歌いたい』って顔に書いてある?」私は土屋君に言う。

「あぁ。そりゃあもう。って、アリコさんはうちには歌う為に来てくれるじゃないですか」土屋君はそう言って笑う。


 私とユージ君の前にジントニックと瓶ビールが置かれ、そして、イントロが流れ始めた。壁にかかっているモニターに表示される映像を一瞥すると、土屋君は再びバックヤードに入って行って、出てきた時にはその手にエレキギターを持っていた。

「ユージ、はい」土屋君がそれをユージ君に渡すと、ユージ君は「ん、あぁ」と受け取って、腰の前に構える。それらは私が歌い出している間に行われた一連の動きで、エレキギターのコードがアンプに繋がったブンッという音が私の歌声に一瞬重なる。


どうしてどうして僕たちは出会ってしまったのだろう

こわれるほど抱きしめた


 この一小節の後、ユージ君のギターが入ってきた。エフェクターを介さない素っ気ないエレキギターの音。だけど、それはカラオケ音源の音の厚みを増して私の歌を心強く後押しする。歌詞なんて見なくても歌えるんだけど、顔は歌詞が流れる画面に向けて私は歌う。


すりきれたカセットを久しぶりにかけてみる

昔気付かなかったリフレインが悲しげに叫んでる


 ギターのフレットを押さえるユージ君の長い薬指に見とれてしまわないように、私は懸命にモニターの文字を追いかける。


 ---


「アリコさん、お仕事忙しい?」土屋君が私に話しかけてくれた。いつの間にか店の中は大入りで、ユージ君は私とは逆隣ぎゃくどなりに座った外国人となにやら話している。仕事で日本に来ているアメリカ人といったところだろうか。西洋人の年齢は今一つ分かりにくいが、三十代前半くらいの男性だ。

「そうね。それなりにね。さてと。明日も仕事だし、そろそろ帰ろうかな。土屋君、チェックお願い」

「はーい。ありがとうございますー」

「あ、アリコさん、帰るの?送るよ」ユージ君が私の方に振り向いて言う。そしてすぐに、向こう側のお兄さんに何やら英語で話して爽やかな笑い声を上げながら、二人して拳を軽くぶつけ合った。その外国人のお兄さんも満面の笑みを浮かべている。

「つっちゃん、ゴメン、ツケといて。今日、銭湯帰りでお金持ってなくて」

「はいよー。湯冷めすんなよ」

 そんなやり取りをして、私たちは店を出た。


「ギター、弾けるんだね」

「弾けるという程のものでもないさ」

 並んで歩きながら私たちは話をする。

「英語も流暢だった」

「まぁ、でたらめだよ。勢いでそれっぽく話しているふうだよ」

「どんな話をしていたの?」

「そうだね、あのお兄さんもモノづくりに関わる仕事をしているらしくてさ。僕が最近作っているモノの画像や動画を見せていたら、オー!クール、とか、ユーアーグレイトアーティストとか大げさに褒めてくれてね。嬉しくなってつい話しこんじゃった。ゴメンね」ユージ君はそう言って一旦立ち止まり、ペコリと頭を下げた。私は頭を下げたユージ君の正面に立って、彼の首に手をまわし、背伸びをして軽く唇を合わせる。

「今日はうち、来る?」私はなるべく素っ気なく、ユージ君を誘う。

「んー。そうだね。お腹も空いたし、何か作ろうか」

「バカね。料理でもてなすのは女の方よ」

「じゃあ、今日はアリコさんの手料理をご馳走になろうかな」

「えぇ。喜んで」


 ---


 昨日の依子の愚痴はとても良く分かる。

 ユージ君の唇、ユージ君の指先、ユージ君の手のひら、ユージ君の髪、ユージ君の肌、ユージ君の筋肉、薄明りの中でも分かるユージ君の表情、その目……。優しく激しく私を見下ろしているユージ君に『好き』とか『愛してる』だなんて言えない。私が漏らす『気持ちいい』って言葉は『好き』とか『愛してる』と同義だなんて言えない。


 ユージ君はカエルでも王子様でもない。ユージ君はそう、沼そのもの。私が毬なら、風が私を岸まで運んでくれる事もあるだろう。でも、どうやら私は毬ではないらしい。


 ただ、ユージ君と並んで歩く帰路は私の足を毬のように弾ませた。

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沼に毬 ハヤシダノリカズ @norikyo

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