時を超えて生まれる前に戻り、生まれてこない道を選ぶ。
さんまぐ
時を超えて生まれる前に戻り、生まれてこない道を選ぶ。
ある日、彼が「華乃さん、俺は時を超えられるようになったよ」と言った。
私が「航くん?」と聞き返すと彼は「来週から時を超えてきたんだ」と言う。
受身がちな彼が主となって話してくる事が珍しくて話を聞くと特殊能力に気付いたのは来月の事で、少しずつ試しながら今日に戻ってきたと言う。
戻ってくるというが怪我なんかは消えているので意識だけが時を超えていると彼が左手を見せながら説明する。その左手は来週仕事中にダンボールを切っていて指も切ってしまうらしいが今は怪我の後もなにもない。
私は疑問を聞くというより彼の反応や返事を見たさに「未来には行けないの?」と聞くと「うん。試したけどダメ。過去に戻るだけ」だと言われた。
確かにこの日から不思議な事が沢山あった。
金曜日の夜に彼から電話で「映画の約束だけど、明日はいつもと違う映画館にしようよ」と持ちかけられた。
「え?いいけど…、あの映画館は航くんのお気に入りよね?」
「うん。残念だけど明日は電車は止まるし、前の席の男はマナーのなってない男で華乃さんが嫌な思いをするんだ。そして帰りにドッグランから飛び出した犬が人を襲うから危ないんだよね」
私は言われるままに受け入れて映画を楽しむ。
映画館でマナーの悪い男に遭遇したかはわからないが、電車は止まり、ドッグランから飛び出した犬は通行人を襲い狩猟犬だったので怪我は酷かったというニュースが流れた。
「違う映画館にして良かったよ。華乃さんも噛まれるんだ」
知らなかった事実に「わ、ありがとう」と感謝を告げると彼は「いえいえ、どういたしまして」と言っていた。
この日から沢山のことが起きていた。
嘘かもしれないが事件につながる事は本当に起きた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
彼はとても優しい。
だが本人は「甘いだけ」「傷つくのが怖いだけ」と言う。
彼は傷つきやすい。
でもそれはもう人の何倍も傷ついてきたからで仕方がない。
彼のご両親に会ったことがなく、年齢的に彼氏彼女だけで終わらせるわけにもいかず、どうしてもこの関係が数年続けば結婚を視野にいれるし、彼は結婚に適しているかを見てしまう。
それなのに両親に会えて居ないと言うのは色々と不安になる。
私の両親は何回か彼に会って「良さそうな子だ」「彼なら安心ね」と言って貰えていた。
まだ彼が時を超えられると言い出す前、デート中に偶然彼の知人に出会った。
久しぶりだからお茶でも飲もうと誘われて時間が夕方だった事もあり、お茶ではなくそのままアルコールになった。
誘われたがしっかり割り勘だったし、デートプランは乱れてしまい彼の顔はとても嫌そうだったが断る事をせずに着いていくとそこで少しの事を知った。
知人は私には普通に接するが彼には普通の付き合いなら言わないような事を言う。
私は彼を悪く言われて不機嫌を隠しつつも訝しげな表情をしてしまったのだろう。
その表情に気付いた知人は「あ、平気ですよ。地元では皆この感じですよ」と笑い飛ばして彼をひたすら卑下していた。
そう、卑下していた。
幼い頃の小さなミス。
私の地元にも似た子はいた。
私だってミスの経験はある。
目立つかどうかの問題で後は大人になれば些細な笑い話になるそんな話。
でも彼の地元では彼だけがそれを消せない罪、人生の大失態のように悪く言われていた。
途中で彼の家庭環境について話が出てきた。
彼は幼い頃に父に捨てられていた。
中学生になる頃出来た新しい父は父ではなかった。
あくまで母のオトコであって父ではない。
その事を身振り手振りでオーバーリアクションで話し卑下して揶揄して楽しそうに笑う知人。
何が楽しいのかわからない。
彼の受け答えのお陰でマイルドになっているが明文化すれば目も当てられない話だし知人の態度は社会人…人間としてどうかと思う話だ。
知人の話を要約すると彼の今父は父ではないので彼に対して子供に対する扱いをしない。
あくまで妻になった女性のおまけ。戸籍上の関係、社会的地位や世間体から育てるだけで親子ではない。
母は仕事が忙しいからか彼をネグレクトしていた。
その為に彼には必要な教養なんかが不足していたのだろう。だからこそ学校で小さなミスをしてしまう。もしかしたら忘れ物が多かったなんて話も、母に相談できずに何処で揃えたらいいかわからずに買いに行く事が出来ずに持っていけなかっただけかもしれない。
そして目の前で子供がからかわれていても母はネグレクトをしていたようで全部彼が悪い、自分一人で何とかしろと突き放していたのだろう。
親が出来た事で試すように探るように皆でよってたかって彼にアレコレやったと知人は武勇伝のように語る。問題はその父に相当する人物はそのアレコレに一緒になって参加をして守るべき息子を揶揄った。
それを見て周りはエスカレートする。
母親は最早母ではなく夫のオンナでしかなく彼を庇う気もなく夫に追従する。
そうなれば周りも公認されたとして揶揄い続ける。
そして中学生の時に弟が生まれてからはゼロだった愛情はマイナスになったらしい。
それを武勇伝のように、楽しい子供時代の思い出のように、笑い話のように話して旨そうに酒を煽るロクデモナイ知人ですら眉をひそめるような出来事が起きる。
両親は社会人になって働きに出た彼の稼ぎをあの手この手で徴収し始める。
「どうやっても地獄、どうやっても底辺で、仕方ないから皆で力を合わせて独立させてやったんですよ」
そう言った知人の顔はこれが本当のドヤ顔だろう。自信に満ちて居た。
だから彼はこの場も断れなかった。
重い十字架のように付き纏う恩と義理と負い目が彼を縛り付けていた。
彼はこんな話を私には聞かれたくなかっただろう。
彼の両親は飼い殺しに出ていて、でも歳の離れた弟にも部屋が欲しいとなった時、彼を無一文の裸一貫で家から追い出そうとしていた。
それを見かねた知人達が力を合わせてなんとか独立に漕ぎ着けていた。この知人ですら見かねるのだから相当だろう。
だから何をしても構わない。
何を言っても構わない。
その集大成が今だろう。
もう沢山だった。
だがそこで終わらなかった。
「コイツのお袋さんは歳の離れた弟と商店街で買い物してて、うちの母さんに会ったりすると「息子さんも独立させた方がいい、ウチの子はこの不況の中でも1人で独立してくれたのよ」ってドヤ顔で語るんですよ。何も知らないから凄い滑稽で皆で笑ってますよ」
そう言いながら知人は大ジョッキを煽ってチョリソーを食べる。
その後も知らなくてもいい話は続き、彼は辛そうにその場で大人しく酒を飲んでいた。
この日から連絡はメールのみになって2週間ほど会えなくなった。
ようやく声が聞けた日、彼は「あの話で華乃さんに嫌われたと思ったんだ」と言っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
育った環境が異常だったが彼は決して変人ではない。
彼の友達夫婦から子供が生まれたから会ってほしいと言ってもらえた日、お祝いを持って2人でお邪魔した時、目の前の光景は私も私の地元で見たことのある普通の付き合いだった。
帰り道、彼にその話をすると「うん。地元を離れてから出来た友達は皆あんな感じで俺を受け入れてくれるよ」と嬉しそうに語っていたので私は「それが普通、航くんは普通なんだよ」と返すと照れくさそうに笑った後で少しだけ悲しげな顔をした。
この後も不思議な出来事は続く。
折角ペット可の物件に住んでいるので猫を家族に迎えたいと言い、彼もそれに賛成してくれて居たが突然やめようと言ってきた。
彼はメモを取り出すとそこには私の日記の内容が書かれていた。
最初は写すなんて悪趣味だと思ったが…よく読むと今日これから書く事や明日以降の事も書かれて居た。
「俺は来月から時を超えてきたんだ。華乃さんは黒と白の模様が可愛い猫のフリックを家族に迎えるけどその子は今既に病気で来月それがわかって落ち込むんだ。だから俺は日記を覚えて昨日に時を超えてきて全部メモをしたよ」
悩んだ結果「食事もとりたくない。航くんが心配してくれているけどフリックが可哀想でならない」という一文を見て猫を迎える事をやめた。
ある日、急に外出しようと言われて朝早くに家を出て結構遠くの観光地化した商店街まで来て散策をした。
賑やかで歩き食いを推奨している露店で珍しい食べ物を買って2人でシェアをする楽しい時間。だが彼は「そろそろかな…」と嫌そうに言うとスマホが鳴った。
とても暗い声で「はい」と言った彼は「すみません。今地元にいません」「今は埼玉です」「はい、ですので帰ると終わってしまって居ます」と言って電話を切る。
何かと思って聞くと、今日は弟さんの運動会で親の代わりにビデオ係をして荷物持ちをしてと言う為の電話で「この前は2人でのんびりしてたら無理矢理呼び出されて華乃さんが嫌な思いをしたんだ」と言う。
私は彼の事が気になって「航くんは?」と聞くと「夕方、録画チェックをすると言われて実家に連れていかれてビデオのセンスがないって華乃さんの前で言われて、ビデオ撮影がうまくいかなかった腹いせに華乃さんは「君みたいな子はもっといい彼氏が出来るから俺の彼氏をやめた方がいい」って言われて「はい」って返すまでしつこく言われて居たよ」と話していた。
この後も彼は色々と話してくれた。
「いつものお店なんだけど、女性店員さんと男性店員さんが間違いから喧嘩を始めてしまって、巻き添えの華乃さんが謝ったのに女性店員からひどい事を言われて傷付くから今日はやめよう」
この話は提供順を間違えて男性店員が私の席に食事を運んでくる。
それに気付いた女性店員がいつも間違えると言って客席で喧嘩を始めてしまい、私が仲裁のつもりで手をつけていないから下げてくれと言うが「それを運ばれたお客様の気持ちとかわからないの?」と言われて舌打ちまでされるらしい。
「ここの料理が1番喜んでいたんだよ」
「え?他も食べたの?」
この話は最初に食べたパスタがハズレでデート気分が台無しで何回も食べ歩いてくれたと言う。
「第二位はお寿司であれも美味しかったんだけど今日はカレーだったよ」と笑って教えてくれる。
嫌な思いをしないデート。
本当にトラブルもなく幸せな時間を過ごす。
もう週末に一緒に居られるのが楽しみでならなかった。
少しして決まっていた事のように婚約をした。
彼に「時を超えてきた?」と聞いてみたが彼は「しないよ」と言って笑う。
本当か確かめる術もない話を私は信じることにする。
疑いようもなく彼は力を奮ってくれて一緒にいる日…だけじゃない。
電車で嫌な事のある日なんかは教えてくれて1本早めたり遅めたり指示をしてくれる。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
彼の両親と弟との顔合わせは淡々粛々と過ぎた。
嫌そうに値の張るお店を予約して、店員さんには時間が無いのでハイペースで料理を提供して欲しいと頼んでいた。
これは長時間になるとアルコールの回った彼の両親が彼をことさら悪く言い、結婚後の生活に口を出してきて、彼には弟を育てるのに使うから仕送りをしろ、私に仕事をやめて彼の両親の世話をしろとしつこく迫るらしい。
彼は「多分これが最適解。これでもお店選びから始めて料理の値段をギリギリまで下げて、時間もある程度調整した結果なんだ。許してくれないかな?」と辛そうに言う。
ここで私は気付いてしまう。
食事処の予約は前日なんかじゃ済まない。
今回も半月前から予約していた。
そして予約を取るたびに親に電話をしてお伺いを立てたのだろう?
もしかしたら店や料理に文句を言われた場合もある。
そこから今までのデートで「華乃さんが1番喜んでくれた所」と言ってくれた言葉の意味と重さを知って申し訳なさで私は彼を抱きしめてお礼を言うと驚かれてしまった。
彼は何回時を超えたのだろう?
顔合わせは淡々粛々だが嫌な空気は無かった。
小学校高学年の弟さんは私をお姉さんと呼び、よそ行きがアルコールで剥がれない彼の両親…彼の母とその男は「よろしくね華乃さん」「航と仲良くしてやってくれ」で済み、食事に関してもややハイペースだが早すぎるとクレームの起きない時間。
料理に舌鼓を打ち楽しい時間の間に会が終わり解散になる。
この正解に行き着くのに彼は何回苦しんだのだろう。
聞いてみたが彼は笑顔で「大丈夫だよ」としか言わなかった。
この日を終えれば後は結婚まで平和な日々を過ごす。
まだ両親の顔合わせはあるが、申し訳ないが私は両親にある程度の事情を打ち明けて彼が時を超えずに済むように守ろうと思った。
そんな日々の中で久しぶりに強烈な不快体験をした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
彼の大叔母が亡くなった。
婚約者という事で私も葬儀の場に呼ばれる事になる。
通夜と葬儀。
通夜はまだなんとかなったが葬儀は酷かった。
あの両親は周りから恨みでも買っているのか、その恨みが全て彼に向かっているような感じがした。
彼は会う人…遭う人全てから一度は揶揄われるか悪く言われる事が決まっているのか、そしてその全てを笑って眺める狂った両親や親族達。
笑顔が全てを許すように激化する。
その笑顔はあの知人の笑顔を彷彿とさせていた。
土地柄なのかもしれない。
歳の若い親族まで彼を見下すその現場。
オマケのおまけにされた私も不快体験をしたが何より彼を思うと言葉に詰まった。
彼は帰宅後に「ありがとう華乃さん」「ごめんなさい華乃さん」と言って泣いてから「結婚をやめない?」と言ってきた。
嫌がる私に「大丈夫、出逢う前まで時を超えて逢わなければいいんだ」と彼は言う。
私は初顔合わせを思い出した。
短期バイト先の新人同士。
お互いはじめましてで打ち解けて、一緒にお昼を食べてバイト代で夕飯を食べた。
そう、あの日に彼が居なければ今はない。
私は頑としてそれを認めず「忘れない!そんな事をされても絶対にまた逢う!何度だって結婚をする!」と言って抱き締めると彼は「でも…、華乃さんまで悪く言われていて嫌だったよ」と言い、私は恐る恐る「これが最良だったんだよね?」と聞くと彼は「うん。お通夜で20回、葬儀は42回。到着時刻から座る座席、話しかける人の順番、色んなものを試して、これでもまだ1番マシなやつ」と答えた。
まだ1番マシなやつ。
なんて怖い言葉だ。
これで?
お通夜の場では4時間。
葬儀の場では6時間。
彼からしたら通夜で80時間悪く言われて、葬儀は252時間も嫌な思いをした。
1番マシ、それならば一番酷いのは?考える事も嫌だった。
私は我慢出来ずに「無理しないで!」と言うと「でも、華乃さんに嫌な思いをして欲しく無い」と言って悲しい笑顔をされた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私はここで心を決めた。
どうせ悪く言われるのなら何をやっても構わない。
没交渉にした。
彼にも仕事を変えてもらって県外に住んだ。
結婚式は不況と引っ越しを理由にしてやらなかった。
私の父母は残念がったが真剣に話すと理解を示してくれた。
写真館で彼と私の写真で済ませた。
彼は私の父母に申し訳ない事をした、普通の結婚相手ならとまた謝ったが私は「いいの、お父さんもお母さんも真剣になりふり構わない相手が出来てくれて嬉しいって航くんを歓迎している」と言った。
子供は2人授かった。
彼と話して男の子には一二三。女の子は蓮と名付けた。
親バカと言われようとも可愛い2人をこれでもかと愛情を注いで育てた。
彼は環境が悪かっただけで、新天地では普通にパパ友も出来るし、ちょっとしたミスを必要以上に悪く言う人は居ない。そもそも悪く言われることなんてない。
昔は何を着ても悪く言われるからと無難な黒と白、無地しか着れなかった彼が今は私の買った柄物や明るい色の服を着てくれる。
笑顔も増えて本当に生き生きとしてくれている。
この地に永住して幸せに生きる。
私はそう思っていた。
だが…手遅れだった。
子供達が高校生になってアルバイトで家を開ける日が増えるようになると彼のため息の回数が増えた。
何かの病を疑って彼に聞いてみると「ここは本当にいい所だね。ここに決めてくれて連れてきてくれた華乃さんには感謝しかないよ」と言って彼は泣いた。
そして「幸せを知ったら今までの…あの地元で過ごした半生の酷さを痛感したよ。一二三も蓮も幸せそうで、勿論中学や高校もトラブルがあるから俺は時を超えてやり直してきたんだ」と続ける。
まさか未だに過去へと時を超えて最良を選んでくれているとは思わなかった。
話を聞くと一二三は中学校の部活動でサッカー部とバスケ部で悩んでいたがバスケ部を選んだ先では不良の先輩から目をつけられてしまって再起不能の大怪我までしていたらしい。蓮も塾選びを間違えて悪い友達が出来て夜中に補導された事から高校選びに失敗していたらしい。
「何度も時を超えて、やり直してきたから2人のアルバムは笑顔で満ちていて、それを見ると本当に嬉しい気持ちの後で俺の人生はなんて無駄だったのだろうと思ってしまうんだ、そして華乃さんや一二三や蓮達をやり直す事で幸せにしたように俺もやり直したいと思うようになった」
そう言った彼は「ここのところずっとやり直すとしたら、どうしたらいいのか…どこからやり直すかを考えていたよ」と言い、少し言葉に詰まった後で「生まれる前まで時を超えるしかないと思ってる」と言った。
「俺は生まれてこない道を選びたい」
深く静かにゆっくりと心の奥底から出てきたその言葉に私は怒った。
彼は私たちとの生活が幸せでたまらない。
幸せだからこそ昔の不幸が際立って何かにつけて思い返されて辛くなると言う。
私はカウンセリングを勧めたが「もう試したよ。ダメだったんだ」と言われた。
もう時を超えていた。妙案の思い浮かばない私は感情に任せて声を張る。
「私を1人にするの!?私は忘れない!航くんを忘れない!」
かつて言ったその言葉を再び言ったが彼は八の字眉毛の困り顔で「忘れるよ。華乃さんは忘れる。この生活も15回目なんだよ。カウンセリングに失敗して華乃さんが悲しんだから時を超えてきた。このままでは華乃さんを悲しませるから幸せにしたくて離婚も提案したけどうんとは言ってくれなかったから時を超えてきた。でも華乃さんはどれも覚えてないよね?」と言った。
狼狽える私に彼は辛そうな顔で優しく微笑んで「大丈夫、いつ消えるかは言わないよ。今は決心がつくまで幸せな日々を送らせて。大丈夫、時を超えて今朝に戻ってため息に気を付ける。聞かれてもこの話はしないからね」と二度も大丈夫と言っていた。
私は必死に忘れないと心に決めて自分に言い聞かせた。
家中に「忘れない」とメモを書き、アルバイトから帰ってきた一二三と蓮から心配されてしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
荷造りの終わった私は明日家を出る。
社会人も2年目、安定した収入と無理のない仕事で生活の基盤もできた気がする。
1人でやってみたいと両親に相談をすると両親は少し驚いた顔をした後で了承してくれた。
荷造りの終わった部屋は寒々しくてなんか心細くなる。
そんな時、父がノックと共に現れて話があるなんて言った。
最後のお小言は男を連れ込むな、計画性を持て、無理をするな、限界を感じたら帰ってこいだと思っていたが全く違っていた。
父は一冊のノートを取り出すと「読みなさい」と言った。
軽くめくると私が小さい頃から今日までの事が書かれていた。日記だろうか?
だが字に見覚えはない。
これは?と聞く私に父が「驚かずに聞きなさい」と言った。
もう13年も前の夏の日の事、8月の頭から群馬に住む祖母の家にお盆まで泊まりに行き、お盆に顔を出した父母と帰るのが習慣になっていた頃、ある日曜の朝に男の子が1人でウチに来たと言う話だった。
最初、男の子を私の同級生だと思った母は私の不在を告げると「はい。知っています。お父さんとお母さんに会いに来ました」と言って頭を下げるので母は訝しみながら父を呼んで玄関で良ければ話を聞くと言うと男の子は「ありがとうございます」と言って玄関で自己紹介をした。
男の子の住まいは少し離れた所で電車を乗り継いで来たと言っていて、信用して貰いたくてと言って保険証まで見せてきたと言う。
そして困惑する父母に「僕は未来から意識だけ時を超えて来ました。身体はこの時のものです」と言ってこのノートを見せてきたと言う。
子供らしくない字体と文体。
誰かに書いて貰ったのではと疑う前にメモ用紙とペンを取り出して目の前で字を書くとノートのものと一致していて疑いようもない。
「彼は私しか知らない秘密の思い出を知っていて、驚く私に「お義父さんが疑うだろうからそれを話すといいよと言ってくれたんです」と言うんだ」
ここまでされると信じる他ないとなった父母はノートを見ると私が家を出る日までの事が事細かに書かれていた。
「バタフライエフェクトと言うそうです。僕の行為で何か変わってしまうかもしれません。もしも華乃さんが違う人生を歩んだらこのノートは破棄してください」
その言葉に父は疑問を持って聞くと「未練です。華乃さんは本当に優しくて僕には勿体無い人でした」と言って男の子は泣いていた。
男の子は未来の旦那様だった。
私と付き合っている時に過去に意識だけ時を超えて戻れる力に目覚めた彼は私と暮らすために何百とやり直して幸せな結婚を手にしたと言っていたが、彼は生まれの不幸を呪っていて、その呪いのせいで幸せになり切れずに、私といて幸せを享受する度に過去の不幸が襲いかかってきて苦悩した結果、この時を超えて過去に戻ってやり直せる力を使い、生まれる前に戻ろうとした事、生まれてこない道を選ぼうとしている事を父母に告げた。
だが彼は時を超える直前に未練として、遠出をしても怪しまれない年齢のこの夏の日に戻ってきてノートを仕上げるとウチまで持ってきたと言う。
与太話やペテンを疑いたくなるが、ノートには中学高校の体験や知りようのない運動会なんかの結果、受験先で候補にするか悩んでやめた父母もしらない学校。大学で受講した講義やゼミの話、友人達の事なんかまで書いてあった。
「お父さんは信じたの?」
「信じるしかないさ、言うと変わるかも知れないからと言われていて黙って見守っていると全てが当たる。明日の引っ越し先のことまで全部当たっている」
「その男の子は?」
「引き止めたが行ってしまったよ。彼の言った生まれの不幸について聞いたら「お義父さんもお義母さんも変わりませんね。優しい声で聞いてくれます」と言って触りだけ教えてくれたよ。抗いがたい子供の身では耐え難かっただろう。そのノートも彼を苦しめる人間に見つからないように書いて隠してなんとか持ってきたそうだよ」
父は言葉に困りながらネグレクトをされて頼れる者の居ない彼の日々、これから私と逢うまで続く苦難の日々の触りだけを話してくれた。
聞いていて悲しくなる私に父はもう一冊のノートと便箋をくれた。
「これは?」
「彼が置いて行ったノートと便箋だよ。先に渡したノートの通りに華乃が成長して家を出る事になったら渡してほしいと言われていたんだ。違う道に進んだら破棄してくれと言われたけどそんな事にはならなかったね」
「中を読んだの?」
「読まないさ。彼を見て彼の言葉を聞いたらそんな真似できないよ」
私は2冊目のノートに手を伸ばして開くと「華乃さん、引っ越しお疲れ様。読むのは新居かな?でも華乃さんはお義父さんの前で読みそうだ。新しい家は1週間で慣れるからね」という書き出しで始まり、私が一人暮らしで困る事なんかが書かれている。
病院は相性もあって探すのに苦労する事、ようやく見つけた相性のいい病院の名前が書かれていた。
その後も「華乃さんは探す楽しみより、見つける苦労の方があったと言っていたから」と書かれていてオススメのご飯屋さんなんかの情報も書かれている。
それも事細かに書かれていて、私の食の好みまで書かれていて驚いた。
そして付き合った後のデートコースで私を喜ばせる為に何百回も時を超えて見つけた厳選のお店も書かれていて中にはまだ開店していないお店やまだお気に入りのメニューがないお店の情報もあって「これを書いたせいでお店が無くなったりしたらごめんなさい。でも華乃さんは本当に美味しいと喜んでくれていたから食べて欲しいんだ」と書かれている。
綺麗ではないが優しい字。
見ているだけで涙が出てくる。
便箋を読む為にノートを父に渡すと「本当によく調べてある。華乃は愛されていたんだね」と感心してくれていた。
便箋の中には手紙が書かれていた。
これを書いたのが小学生なのかと驚く。
「華乃さんへ
この手紙を読んでいる時は24歳ですね。
もし良かったらノートを活用して少しでも幸せになってください。
あの日、生まれない為に時を超えて過去を目指そうとした俺は一つの未練に襲われてしまったんだ。
華乃さんがもう一度嫌な思いをするかもしれないと思ったらそれが嫌で、覚えている事を全部書き出して暗記してきてノートに記しました。
そうしたら今度はこの手紙を残したくなって書いてしまいました。
顔も知らない男からのおススメなんて気持ち悪いと思うのでごめんなさい。
あの日、生まれない為に時を超えて過去に戻ろうと思うと告げた日、華乃さんは忘れないと言って家中に忘れないとメモを書いて貼ってくれて申し訳ないけど嬉しかったです。
時を超えて生まれる前に戻る考えを告げる前に時を超えて平静を装いながら少しだけ生きようと、消える事はいつでも出来るからと思って華乃さんといたら、本当に幸せでその直後の生まれの呪いに苦しんでも華乃さんといたくて60までいてしまったよ。
2人の子供、一二三と蓮も親になって孫まで連れて遊びにきてくれて本当に幸せだった。
ありがとう。幸せだったことは全部華乃さんのおかげです。
でも、やっぱり俺は幸せを享受すればする程、過去の無駄な人生の思い出に襲われて生まれてきた事が嫌になったんだ。
華乃さんが俺の住む土地だけがおかしいと教えてくれて、新天地で過ごした30年は本当に夢のようだった。
人並みの扱いをして貰って困惑する度に華乃さんから「それが普通なの。おかしいことはないよ」と言ってもらえて心が軽くなって…そして直後に重くなっていた。
大変な道を共に歩んでくれてありがとう。
今度は普通の家の人と一緒になっていらないごく普通の…苦労のない人生を歩んでください。
それではさようなら。
名前は明かしません」
この手紙を読み終えた時、私は泣いてしまった。
父に名前を聞かなかったのか、保険証を見たのなら名前があったはずだと、住所はと問い詰めたが父は首を横に振って「彼との約束だ。彼は死人にとらわれる必要はないと言って名前を明かさないように頼んで行った」と言った。
私は大泣きをしてどれだけ頼んでも彼の名前を言わない父を責めて扉の向こうにいた母に慰められながら夜を明かした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
新生活。
彼の残したノートに従って暮らすととても幸せだった。
両親は彼に感謝をしなさいといつも言っている。
食事は美味しく、彼のノートに従えば嫌な思いをする事はなかった。
そんな日々を過ごす中で私は思案した。
彼の時を超える力について考えた。
時を超えて過去に戻れる力。
限度や制限はないのか?
生まれる前に戻れるのか?
生まれる事からは回避できないのではないか。
そう思った時一つの事を決めた。
きっと彼はこの街に来る。
私のお気に入りになる店に来る。
私の好きなメニューがある事を確認して、食べて喜ぶ私を見に来る。
だから私は彼を探す。
彼は私を嫌になって違う人を見つけるかも知れない。
そんな気持ちも一瞬芽生えたがすぐに殴り飛ばす。
消えたいと生まれない為に時を超えて過去に戻ろうとしたのに60まで共にいたくらい私との日々を愛してくれた人だ。
必ず私の前に現れる。
私は見逃さない。
絶対に彼に会って今度こそ最後まで共に生きる。
生まれる前に戻りたいなんて言わせない。
彼はいる。私は見つける。
その気持ちで商店街に向かう。
今日は私が惚れ込んだというプリン専門店の開店日。
私は身支度を整えると駆けるように家から飛び出した。
時を超えて生まれる前に戻り、生まれてこない道を選ぶ。 さんまぐ @sanma_to_magro
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