てむすの声

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てむすの声

「メモを取るのは構わないが、決して金属のペンは使わないでくれ。金属の触れ合う『カチ、カチ』という音が耐えられない」

 取材にあたって老人が付けた条件は、その一つだけだった。


「奇妙な風習を持つ島に迷い込み、恐ろしい体験をした老人がいる」という情報を聞いた。半信半疑で来てみたが、今回はどうやらアタリらしい。決まった時刻には決して来ないフェリーやバスを乗り継いで来た甲斐があった──怪談ライターとして何度も記事を書いてきた経験が、私にそう告げていた。


 かつては漁師だったという老人は、悪天候のなか帰路を見失い、嵐で遭難するよりはとその名も知らぬ港へ上陸したという。

「嵐がやむまで退屈しのぎと街へ繰り出したのが間違いだった。バラの花が咲き乱れ、見たこともない色の鳥が飛び交い、穏やかで暖かな日の光が照らす美しい大きな島だった。だから危険はないだろうと思ったのに、あんな恐ろしい経験をする事になるなんて……」

 老人は総白髪──その島に行く前は豊かな黒髪だったという──を振り乱し、熱をこめて語った。


 ***


 儂が初めに違和感を覚えたのは、人々が身に付けている円盤のような装飾品だった。もちろん装飾品を付けているのは何もおかしな事ではないが、それを見ている人々の目つきが尋常ではないのだ。まるでその中に何か恐ろしいものが潜んでいるような、怯え、警戒するような目つき。

 もしや、この円盤は何らかの悪霊を封じる危険な呪具なのではないか、そのような突飛な連想さえ浮かんだ。幸い、この島の言葉は故郷のものに近いらしい。片言と身振り手振りを駆使しながら、円盤を睨む島民の一人にたどたどしく声をかけた。

「すみません、その道具は何をするものですか?」

「見れば分かるでしょう。”てむす”を見ているんですよ」

 初めて聞く言葉だった。しかし、得体の知れない不気味な響きだった。

「”てむす”とは何ですか?」

「何と言われても困ります。”てむす”は”てむす”ですよ」

 どうにも話が嚙み合わない。ならば自分の目で確かめようと円盤を観察した。


 円盤からは、金属でできた細長い指のようなものが何本か突き出ていた。よく見るとそれはただの金属ではなく、ぴくり、ぴくりと痙攣するように動いている。その度に鳴るカチ、カチという音はハチの威嚇を連想させるが、それがこの世に生きる物の立てる音でない事はすぐに分かった──あまりにも規則的すぎるのだ。


「この金属の指が”てむす”なのですか?」

「いいえ、”てむす”は目に見えるものではないでしょう」

「え、しかし、先ほどは……」

「もういいでしょう!」

 突然、島民はまるで何かを隠そうとするように強引に会話を打ち切り、足早に立ち去っていった。「”てむす”が来てしまう……!」という呟きが、小さく聞こえた。

 


 ”てむす”とは何なのか、”てむす”が来るとどうなるのか。謎は深まるばかりだが、儂は深入りをせず港に戻る事にした。これ以上知れば、今までの世界に戻れなくなる。そのような予感がしたのだ。

 港まではバスが出ていて、人々はベンチに並んで待っている。儂もそれに倣いベンチに腰かけた。誰の手にも得体の知れない呪具があるのは気になるが、それでも人の気配は心を落ち着かせる。島の空気はどこまでも穏やかで暖かで、航海に疲れた心身をじわりとほぐす。気が付けば儂は、眠りに落ちていた……。


 目が覚めて、まずおかしいと思った。あれほど多くいたはずの待ち人が、どこにもいなくなっていたのだ。生きる者の気配がない街を眺めているうち、ふと、婆様から聞いたおとぎ話を思い出した。

──遠い、遠い海の向こうには死者だけが住んでいる島があって、彼らはまるで生きているように動き、話すけれども実はすべてが作り物。旅人を騙し、死者の仲間に加えるための罠なのさ。遠い島で様子のおかしな人々を見かけたら、心の臓の音を聞いてみるといい。もしも死者の寄せ餌、作り物の人間なのだとしたら。

 機械仕掛けの、カチ、カチ、という音がするはずだから──


 そんなはずはない、あれはただのおとぎ話だ。そう自分に言い聞かせ、儂は溺れる者が掴まる岸辺を探すように必死で人影を探した──いた。一人の島民がこちらに声をかけ、近寄ってくるのが見えた。「何をしているのですか」というような事を言っているようだ。片言で「バスを待っていたのですが、気が付けば誰もいなくなってしまいました」と答えると島民は「ああ……」と納得したように頷き、憐れむような目でこちらを見た。

「誰もいないのは当たり前ですよ。だって、もう”てむす”が来てしまったのですから」

 あたりの空気が、急に冷え込んだようだった。


 ”てむす”が何なのか、それが来るとなぜ誰もいなくなるのか。そんな事はもうどうでもいい、とにかくこの場から離れたい。儂は縋るようにバスが来るはずの方向を見た。それに気づいたのだろう、島民はますます憐れむようにこちらを見ている。祭壇に捧げられた生贄を見るような目だと思った。

「お気の毒ですが、もう迎えのバスは来ませんよ」

「なぜですか?」

「しかたがないんです。”てむす”が来てしまったから」

 聞き分けのない子供に言い聞かせるように、ゆっくりと抑揚のない声で島民は繰り返した。

「”てむす”が来てしまったから、もう、ぜんぶおしまいなんです」



 その場を駆け出した後、どのようにして船にたどり着いたのかは覚えていない。嵐にかまわず船を出し、故郷に戻れたのは奇跡のようなものだった。儂は漁師を辞め、もう二度と海へ出る事はなかった。それでも、今でもあの時の事を忘れることはできない。ふと気づけば今でも耳元にあの「カチ、カチ」という音、”てむす”の声を聴くことがある。

 ──"てむす”をわすれてはならなかった、”てむす”はおわりをもたらす。だれも、けっしてにげられない──声はそう言っているのだ。


 今、儂の唯一望んでいる事は、この美しい故郷で死ねる事だけだ。

 儂はもう逃れられないが、どうか、儂の愛するこのだけは、あの大きな島のような因習に侵される事のないままでい続ける事を願うよ……。


 ***


 まあ、こんな物かな。期待していた怪談とは大きくかけ離れた話だったが、これはこれで奇談として、どこかに売り込む事はできるだろう。取材メモを見返して、私は満足した気持ちになった。

 さあ、そうと決まれば帰る道すがらの時間だって無駄にしてはいられない。下調べした資料を読み返し、記事の構成を考えなければ。まず、書き出しはこうだ。

 「大西洋の南、名を知る人も少ないその小島には、世にも珍しい習慣を持つ人々が暮らしている。今回、私はその小さなに取材を行った。想像できるだろうか。その島の住人には、”時間”という概念が存在しないのだ……」


 ---


 話は十六世紀、大航海時代のカタルーニャに遡る。バルセロナの港から新天地を求めて出港した船は、西へと向かう航路の途中で遭難した。ただ一人生き残った船員の男がその島に漂着した事が始まりだった。

 地中海交易からも取り残され原始的な生活を営んでいた島民にとって、火薬や機械時計など世界帝国スペインの最先端の技術を携えて漂着した男は、まさに天の使いのような存在であった。島民は男を神と崇め、男もそれを受け入れた。そうして数十年が経過した。(余談だが、その島では現代でも、「神の言葉」であったカタルーニャ語に近い言語が話されている。もっとも、年月の中で変化を経ているため、例えば”大陸”という単語は存在せず、代わりに”大きな島”を意味する単語が存在するといった細かな語彙の違いはあるのだが)

 

 数十年の月日は、漂着者の男の心に大きな変化をもたらした。存在さえ知られぬ孤島に漂着し、もう故郷に戻る事はできない絶望。神として扱われる非日常的な、それでいて何の変化も起こらない日々。それらの事象は男の心を静かに蝕んでいたのだ。大きな岩が波に削られやがて消滅するように、男の心の平衡はゆっくりと、しかし確実に失われていった。

 男は、真剣に自らを神であると信じ込むようになったのである。


 全知全能の神であるはずの男だったが、二つだけ恐れるものがあった。もはや隠しようもない自らの老いと、その先にある避けようもない死である。

 何とかしなければ──すっかり現実感覚を喪失した頭で、男は考えた。老いと死はなぜ起こるのか、年をとるからである。なぜ年をとるのか、時が流れるからである。それならば……。

 男は島民を集め、かつて自分が持ち込んだ機械時計を掲げ、宣言した。「これは”時間”を示すものである。見よ、忌まわしい音を鳴らしながら”時間”は老いと死をもたらす。故に私は”時間”を破壊する。神に不可能はない」言うや否や、時計を地面に落とし、踏み砕いた。数十年の年月に耐え、常に鳴り続けていた「カチ、カチ」という音は止まり、二度と鳴る事はなかった。

 現代人であれば失笑してしまうようなパフォーマンスだったが、男を神と信じた島民たちは熱狂的にこれを信じた。島の中心部にある日時計を打ち壊し、暦を記録した書物を焼き、「時間」という言葉を使う事を島中で禁じて、神への忠誠を示した。その信仰の篤いこと、結局は老いを止められなかった漂着者の男がついに海に身を投げた時でさえ、昇天の儀と解して後を追う者が相次いだほどである。


 こうして、島から”時間”という概念は消滅した。幾世代を経て、哀れな男の物語が島民の記憶からも消え、機械時計を破壊した下りが「機械仕掛けの死者」の伝承に姿を変えて残るだけとなった現代においても、島の人々が”時間”の概念を取り戻すことはなかった。

 

 カタルーニャ語で「時間」は”temps(テームス)"という。偶然にカタルーニャ語が通じる街に迷い込んだ老漁師は、「時間」を「てむす」という名の悪霊と解釈した。さぞかし恐ろしい思いをしたことだろう。彼は知る由もないが、その「てむす」という響きは、彼の祖先が記憶から抹消するほどに恐れたものだったのだから。


 ---


 記事の草案をノートにまとめたら、もうする事がなくなってしまった。港まで行く帰りのバスはまだ来ない。今は暖かなこの島も、日が落ちたら冷え込むかもしれない。ウィンドブレーカーを取り出すためにリュックサックを開けた。

 バスはいつ来るのかな、とリュックサックから懐中時計を取り出して、思わず苦笑した。時間の概念のないこの島で、バスが決まった時刻に来るなどあり得ない事なのに。

 

 ふと背中に視線を感じて振り返ると、取材をした老漁師がこちらを見ていた。視線は私の手元にある懐中時計に注がれていた。

 彼も私も無言だった。懐中時計のカチ、カチという音だけがいやに大きく響いた。

 ──”てむす”がきてしまったから、もうぜんぶおしまいなんです──

 聞こえるはずのない声が聞こえた。



                 ─了─



 

 

 




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