生贄姫ですが身を捧げた竜神様に「俺は廃品回収屋じゃないしこの湖もゴミ捨て場じゃない」と言われました

雨海月子

第1話

 汚れた灰色の髪に薄い紫の瞳。不健康な白い肌。痩せて肉付きの悪い肢体。化粧を知らない顔。鏡を見ても、私が仮にも一国の王女―――エメルア国第七王女ハイデマリーとは思えないような、お姫様らしくない顔がある。当然だ、私は父様の遊びで産まれた子なのだから。


「ハイデマリー、お前を竜神への生贄に出すことにした。不要物のお前が国のために役に立つ機会だ、喜んで死んでこい」


「……はい、陛下」


 拒否権はないという顔をして、父様にそう言われたのが昨日のこと。そして今日、私は生贄にされる。裏で色々とすでに準備はされていて、私だけが蚊帳の外だったらしい。一日前に教えてやったことをありがたく思え、と言われたところで、ありがたみは全くない。


(使用人どころか平民にまで馬鹿にされてる『おまけ姫』なんだから、別れを告げたい人もいないし、持ち出したい物もほぼないんだけどね……)


 強いて言うなら、私を産んですぐに死んだ母が遺したという古いネックレスだけだろうか。明らかな安物であるそれを、母は大層大切にしていたらしい。どうせ価値もないからと言われ、唯一母のよすがとして私に遺されたものだった。


「ねえ、これをつけてもいい?」


 私の発言に、髪を乱暴に整えていた(痛いのには慣れた)侍女が怪訝そうな顔をしたが「はあ、別にいいんじゃないですか?」と雑な答え方をした。一応、服の下に隠しておくことにする。生贄として決められている服や宝飾品が並べられて、私が17になるまで過ごしていた離れが初めて華やかになっていた。もっとも、すべて紛い物だけれど。


(竜神様にバレたら、怒られるんじゃないかしら。まあ、別にどうでもいいんだけれど)


 白絹の花嫁衣裳だったはずだけど、ごわごわしてるから多分麻だ。ドレスというより部屋着程度の、雑で単純な縫製の服は着づらい。銀に宝石のティアラ、ネックレス、ブレスレット……これも全部、合金にガラス玉だと侍女が言っていた。そんなものでも、『おまけ姫』には勿体ないと言いながら。生贄を安く済ませようとするなんて本当に竜神に乞う気があるのかと言いたくなるが、私と私が身に着けているものはすべて水に沈むから高いものは使いたくない、のだろう。


「さあ、行きますよ。これでやっと、この離れを他の王族の皆様も使えます」


「竜神様の機嫌を取ってきて、この三か月も続く日照りを終わらせてきてくださいね」


「こんな人を嫁にもらうお方は気の毒だと思ってましたが、竜神様ならいいでしょうね」


 侍女達は皆、気が弱く口の回らない私のことを心底馬鹿にしている。ひとつ言い返せば10で言い返され、食事を抜かれるから、諦めたのだ。だから、生贄も受け入れている。安っぽい造花で飾られた馬車に乗せられたが、窓の外の景色を見る意味もない。私を泣いて見送るような人もなく、窓を開ければ私の悪口が聞こえるのが目に見えていた。だから、馬車の床を見つめている。安物の馬車のうるさい車輪の音で、誰かが何かを言っているかはわからなかった。

 都から馬車で半日のところに、禁足地とされている特別な湖があるのは知っていた。エメルア王国初代国王が竜神様と契約し、国を興した伝説の場所。長雨や日照りが本当にどうしようもなく長く続くのは、竜神様が花嫁を求めての行いだと言われていた。そういう時は「王の血を継ぐ清らかな乙女」が生贄として盛大に着飾り、皆の涙と共に見送られて、この湖に沈んだという。

 六人の王女のうち上の二人は他国に嫁いだが、まだあと四人も姫がいるのに。私の妹、第八王女ロザリンドなんかは家族の人気者で民にも慕われていたから、ロザリンドが生贄になったら皆が泣いただろう。本当は私のことをいじめてくる性悪だけど、猫を被るのは上手い子だったから。だけど、私の死を泣く人はいない。厄介払いができたと喜んでいるのが目に見えている。


「エメルア王国第七王女ハイデマリー、汝、エメルア湖の竜神の妻になることを誓うか?」


「はい、誓います」


 神官に言われ、結婚の誓いを受諾させられる。儀式に来ていた一番上の兄様が、私が浮かび上がってこないように手足に鎖を巻いた。その手が震えてるように感じたのは、気のせいだろうか。私を後ろ手に戒めながら、兄様は小さな声で何かを呟き、離れていった。


(「すまない」……? 兄様、今そう言ったの?)


 しかし、聞き返している余裕なんてない。兄様が下がって、父様が出てきた。竜神様への決まった祈りの文句らしいことを口にしながら、私に剣を向ける。


「竜神様、貴方様への花嫁に我が七番目の娘ハイデマリーを捧げます。愛する我が子を捧げる痛みにわが胸は張り裂けんばかりに痛み、この心の血をもって貴方様への捧げものとし―――」


 美辞麗句を並べ立てても、それは全て嘘だ。私のことは国中が、不用品だと思っている。私を殺しても、父様は悲しまない。金食い虫の無駄飯食いがいなくなったと思っているだろう。父様は私の首を剣で斬りつけ、熱い痛みが広がる。血が流れ落ちていくのを感じながら、私の身体は騎士たちの手によって湖に投げ込まれた。目を閉じるのは嫌で、ずっと目を見開いていた。笑っている父様の顔が見える。皆がニヤニヤしている中、一人だけ、兄様だけは顔を伏せていた。変なの、兄様が私に何かをしてくれたことなんて、一度もなかったのに。


 体が沈んでいく。青い青い水の中で、胸の中の息が絞り出されていく。苦しかった。辛かった。どうして、という想いが溢れてきた。受け入れたつもりのそれを、全然受け入れられてないと今更気づかされた。もう、手遅れなのに。どうしようもないのに。藻掻く気力はなかった。ただ無為に死ぬのは嫌だった。怖かった。


(竜神様、もしいらっしゃるのなら、どうか―――どうか)


 沈んでいく。湖の中は綺麗で、石造りの建物が沈んでいるのが見えた。竜神様のお住まいだろうか。石の寝台に誰かが眠っている。黒髪の青年の―――これは、人形だろうか。ヒトではないだろう。苦しそうな顔だったから、つい、その手を取ってしまったところで、気が遠くなって来た。


(こんな国なんて、雨が降りすぎて沈んでしまえばいいのに)


***


「ハイデマリー・シュトラ・エメルア」


 死んだと思っていた意識が浮上する。誰かにフルネームで呼びかけられて、自分の名前を思い出す。そうだ、私の名前はハイデマリー。竜神様の生贄に捧げられて死んだはずで―――でも、どうして意識があるんだろう?

 目を開けると、横になっている私の顔をしげしげと覗き込む青年の姿が目に入った。黒い髪に、優しそうな丸い黒い瞳。色は白く、水色の薄く何枚も重ねた異国風の衣を着ていて、肌の上にはちらほらと、虹色に光る青い鱗が見えた。その顔は、石の寝台に寝ていた青年に似ている。腕には錆びついた腕輪がはめられていて、その中心にある石にはエメルア王国の紋章が刻まれていた。

 視界は綺麗な水色に包まれていて、周囲に魚が泳いでいる光景。私は水の中にいても、苦しくなかった。死んだという実感がある。水底に沈んだ建物の一角で、私は朽ちた美しい天井の名残を見つめていた。


「竜神様、ですか……?」


「そうだ。俺は、お前達が竜神と呼ぶ存在だ」


 その顔は、怒っているようにも見えた。自分の状況がどうなっているかわからないけれど、嫌な予感はする。彼はダン!と拳を床に叩きつけて叫んだ。



「俺は廃品回収屋じゃないし、この湖もゴミ捨て場じゃない!!!」



「ですよね、私もそう思います……」


 あ、心の中で思うつもりの言葉が漏れてしまった。竜神様は低い声でブツブツと文句を言っている。


「湖の近くの森に入ってからわざとらしく泣き真似をしたり、『かわいいハイデマリー』を連呼したり、涙ぐましいお涙頂戴の努力をしているのはわかってるんだぞ。しかし俺がこの国の水と雨を司る存在だと知っているなら、とっくに無駄な努力ご苦労さんって奴だ。お前達が不用品だの『おまけ姫』だの言っている無節操な下半身の産物を俺に捧げて、ゴミ捨てと雨乞いの両方をさせようってか? あームカつく、腹立つ、本格的にこの国を沈めてやろうかな……」


 やけに惜しがる芝居をしていると思って無視していたのだけれど、どうやらあれは竜神様に娘を捧げることを惜しいと思っている―――私に価値があると見せかけるための芝居だったらしい。そしてバレている、と。そりゃあ私生児なんて捧げられても困るわよね……というか、今の私ってどうなってるんだろう。何故かずっと、竜神様は私と手を繋いでいるけれど……。


「ああ、今までの俺に捧げられた生贄は、実は殺していない。ただ沈められただけだったから、受け取ったことにして記憶を奪い、外に放り出したんだ。俺達が生贄を求めるのは、厳密には命だの血だの魂だのが欲しいわけではない。『生贄を死なせたことによる罪悪感』『生贄になった娘を悼む心』『生贄を悲しむ想い』……そう言ったものを吸い上げて、俺達の力になる」


「それ、できてる気がしません……」


「むしろ笑われてるからな。まったくもって駄目だ。これでは俺は雨を降らせるほどの力が出ない―――だからまあ、自衛ができるんだけど」


 いい『口実』をありがとう。竜神様はそう言って、ギザギサの歯を見せて笑った。


「自衛、ですか?」


「そもそもお前達、俺への信心をほとんど忘れていただろう。俺への儀礼は義務感、神官達は横領三昧、質の悪い供物。俺の声を聞けると大嘘ついたご都合神託で、声なんてこの100年届いちゃいない。いやあ、ここまでないがしろにされてそろそろキレていいかなーと思ってたんだ」


 あの離れからほとんど出たことない私は知らなかったけれど、そんなことになっていたらしい。長い袖の下から垣間見えた腕は、私のように細く骨が浮いていた。


「もしかして、相当弱ってらっしゃいます……?」


「だから水が俺の支配下で管理しきれなくなった。それが日照りの原因だ。ここの水を使うのは許していないが、それ以外は結構少なくなっている。まあ、それでもお前の扱いと噂話なんて、いくらでも聞こえてきたがな」


 聞けば、竜神様はこの国の水をすべて支配下に置いているらしい。そして、すべての水が見聞きしていることを知っている。顔を洗う時の水、飲み水、川、雨、噴水(日照りになる前はあった)……この国のことは、なんでもお見通しというわけだ。


「今のお前の魂は、俺が一時的に繋ぎ止めている。『とこしえの園』に行きたいなら、俺の手を振りほどけばいつでも行けるぞ。お前の末期の願いも聞こえていた、俺が叶える様を『とこしえの園』から眺めていることだってできる」


 善良な死者が行く先、いつでも光に溢れた温かい園。そこには顔も知らない母様もいるのだろう、けれど今は興味がなかった。

 竜神様の手。骨ばっていて、痩せていて、思っていたよりも力が弱い手。でも縋るように私の手を握っている。まるで迷子の子供だ。あの、石の寝台にいた青年は彼と関係あるのだろか。


「いいえ、私は貴方様に嫁いだ身です。貴方様といて、貴方様の助けになりたいです」


 エメルア王国を沈めてしまいたい、という私の最期の願いを叶えたら、この神様が消えてしまうんじゃないかと思った。だから、自分だけあっさり『とこしえの園』に行きたくなかった。

 その決心を口にすると、竜神様は顔をくしゃくしゃにして笑った。私より年下の、15歳やそれより下の子供のように見える顔でかわいらしかった。


「じゃあ、ハイデマリー。お前は俺の花嫁、俺の眷属になる。そうなれば『とこしえの園』には行けないが、それでいいか?」


「構いません。会いたい人もいませんから」


 じゃあ、と言って竜神様は私の手を取り、騎士のように口づけを落とした。そこからひんやりとしたものが流れ込み、私を包んでいく。その流れを受け入れると、それまでどこか地に足がつかなかったような感覚だったものが消えた。

 水は私にとって空気と同じで、水の中にいながらにして水の外のことが見える。湖の水を飲みに来る鹿、空を渡る鳥……私を生贄にした後は、さっさと撤収したらしい。誰もいなかった。

 竜神様は私の手を離したかと思うと、苦しそうに胸を抑えて荒い息をついた。元々弱っていると言っていた彼がさらに弱ったのか、少し、輪郭が透けて見える。私は慌てて竜神様の手を取るが、彼は笑っていた。


「このままだと、俺は消える。ハイデマリーを眷属にしたことによって、力を消耗した、からな―――だから」


 竜神様の腕にはめられていた金属の腕輪が壊れた。エメルア王国の紋章の石も砕け、キラキラとした欠片が水中を漂って消えていく。


「服装、装飾品、地位、何より涙の欠けた生贄。ガラクタを投げ込み、この湖を血で汚した咎。形だけの祭祀で信心のカケラもない者達。神が消える瀬戸際まで追い込み、エメルア王国の人間は約束を破った。故にこちらも、約束を破棄する。エメルア王国に、《水の裁き》を」


 竜神様が腕輪の取れた腕を頭上に掲げると、私たちのいる水がうねって渦を巻いた。意識が広がっていく―――水が雲になり、雨になっていく。私たちは雨になって、エメルア王国に降り注いだ。人々の声が聞こえる。


『やった、雨だ!』


『あんな生贄で雨を降らせてくれるだなんて、なんて安上がりな神様なんだ!』


『私生児の姫でも役に立ったようだな、これで少しは元が取れる』


『もっと水を高値で売りつけたかったのになぁ』


 嫌なことばかり聞こえてきて耳を塞ぐと、「無理をして聞かなくていい、水が聞いている。裁きは水が下す」と竜神様が優しく寄り添ってくれた。湖に戻ると、余計な声が聞こえない綺麗な静寂に戻ってきた。


「竜神様、顔色がお悪いです。お休みになってはいかがでしょう……?」


「そうだね、そうしようかな。気になる人がいれば、そいつを裁くときは声をかけてもらえばいい。ああ、あの生贄の場にいた奴らを裁くときは見せてね」


 後半は、今も雨を降らせる水たちにかけたのだろう。「私もお願いします」と言えば、なんとなく通じた気がした。


「竜神様、お住まいはどちらに?」


「あー、一応この辺の水を少し固くしていて……ハイデマリーの分も用意しなきゃ」


 そう言って水底の建物たちの中にあった、恐らく庭園だった部分に彼はごろりと横になった。石の寝台の話も聞きたいけれど、今も少し荒い息をついている彼にそっと寄り添う。


「私のことなら、大丈夫です。それより、お休みになってください……エメルア王国を沈めるというなら、沈めきるまで消えてしまわれてはいけません」


「ふふ、そうだね……手を、握っていてもいい?」


「ええ、構いません」


 私の手を握って眠り込んだ竜神様の隣に寝そべってみる。石の硬い感触が伝わってくるけれど、慣れているので苦にはならなかった。眠気が来て目を閉じると、切れ切れの夢を見る。


 雨が降りやまないことをおかしいと思い始めた人々の、戸惑う声。父様や神官が責められる姿が笑えるが、兄様は部屋に籠りきりのようだった。雨になった私は、クマのある顔で雨を見上げる兄様の前の窓を通り過ぎる。増水した川になった私が少し身をよじれば、あっという間に川は溢れていった。水は人々の信心を試し、資格なしと見なされた者達が水に呑み込まれていく。大半は水から帰らなかった。ハイデマリーの祟りだと恐れる声。そうだ、もっと恐れろ、私はお前達の死を望んでいる。

 大雨の中に悲鳴が消える。不意に映像が差し込まれる。小さな泉の前に、石造りの祭壇がある。その前に引き出されたのは、粗末に痩せた青年だった。暗く荒んだ顔に、旅を続けてぼろぼろの靴、それを見かけだけ取り繕っているとわかる。仰々しい祈りの声と共に彼の胸はなまくらな宝剣で血を流させられ、石の寝台から流れ落ちた血が湖に流れ込み、死ぬまで放置された。まるで狩りの獲物のように。私との違いは、人々が皆罪悪感に震え目をそらしていたことだ。生贄が暴れなかったのは、薬でも盛られていたらからかもしれない。それを受け取ったモノは、私の知る竜神様ではなくて―――


「ハイデマリー」


 名前を呼ばれてぱっと目を開けると、竜神様がちょいちょいと湖面を指差していた。面白いものが見れるよ、と言われて湖面に意識を登らせると、湖に生贄の行列が並んでいた。私の時のような嘘泣きではない、本物の涙を流している父様。ただ大人しく受け入れていた私と違って、薬で意識を奪われた虚ろな瞳の生贄。その服は白絹の本物の花嫁衣裳で、身に着けている宝飾品もすべて本物だ。私の妹、第八王女ロザリンドが生贄に引き出されようとしている。


『竜神様、あ、あ、新たな花嫁を捧げまする。どうか、どうか雨を、雨の裳裾をお引きになり、い、怒りをお鎮めになって……』


「ふふ、父様があんなにやつれるなんて、いい気味だわ」


「本物の娘を捧げる時は、みんな、あんなものだよ。ハイデマリーの時がおかしいんだ。どうしたいか希望はあるかい? ハイデマリー。もう今のあの王の泣き顔だけで、俺の力は回復して行ってる」


 起き上がった彼の顔色はよくなっていた。むしろ少し楽しそうにさえしている……私もだ。ロザリンドが今まで私にしてきたこと、言ってきた悪口、そういったものが頭によぎる。


「ねえ、生贄の受け取り拒否ってできる? あと、薬も抜いてあげるとか」


「ああ、いいねえ。俺にはハイデマリーがいるから、花嫁を二人ももらう気はないしね」


 彼はにやっと笑うと、湖の水が風もないのに波を起こして父様とロザリンドにぶつかった。冷や水を顔に浴びて、薬が抜けて正気を取り戻したロザリンドの甲高い悲鳴が耳に心地よい。


『キャアアアアアアアア! どうして、どうして私が生贄になるのよ! なんでハイデマリーじゃダメなのよぉ! いるかもわからない化け物じゃなくて、もうすぐあの人と幸せになれるはずだったのにぃ!』


「ねえハイデマリー、あれ、沈めていいかな……うるさいし、その、言いづらいんだけど、清らかな乙女じゃないんだ、あの王女」


「私のことも散々馬鹿にして来たんでいいかと。というか、一応嫁入り前の娘なのに論外じゃないですか……」


 清らかな乙女ではない、という爆弾発言に頭痛がするような思いをしながら頷くと、もう一度できた波がロザリンドを攫いにかかった。悲鳴を上げて父様や騎士にしがみつき、生きようとする妹。その足掻きは私には得られなかったものなので、少し羨ましくさえ見える。けれど彼女は父様に手を振りほどかれ、絶望と共に湖に沈んでいく。彼女はしばらく泳ごうとしていたが、本物の金銀宝石の装飾品はそれを許さなかった。藻掻いで装飾品を振り落とそうとするも、それより先に水が体の中に入り込み―――静かになる。いつも誰かと話している、騒がしい妹が静かになった。それを悲しいとは思わない。


「ハイデマリーの時は体を底に沈めさせてもらったけど、返しておこうか」


 彼女の宝飾品が落ちたのもあって、ぷかりと彼女の遺体が浮いた。長物や櫂で死体を引き上げようと涙ぐましい努力をしている人々が見えたので、お望み通り返してあげる。父様が子供のように泣きじゃくるのと、ロザリンドの魂がすうっと湖から離れてどこかに行くのを、私は楽しく見ていた。


 さらなる生贄を出しても、それでも雨はやまない。第八王女ロザリンドの遺体が沈まず、竜神に引き取り拒否されたという噂が流れる。生贄として不適格だったんじゃないか、誰かと姦通していたんじゃないか、そういった話を雨になりながら聞いていた。いくつかの街や村が沈んで、石造りだった首都はいつも濡れている。病も流行った。父様や神官たちは流行り病で気が触れて、笑いながら水に飛び込んで死んだ。

 第一王子だったウェンドリィ兄様が湖に一人で来たのは、父様が死んだ直後だった。手に花を持っている。ロザリンドへ手向ける花かな、と思っていると、兄様は花を水に浮かべた。


『……ハイデマリー、何もできなくて、すまなかった。竜神様、お願いがあります。貴方様が受け取られた私の妹、ハイデマリーのことをよろしくお願いします』


 何もしてくれなかったのに。いじめてはこなかったけれど、助けてもくれなかったのに。だからやつれた様子のウェンドリィ兄様が自分の喉を突こうと短剣を抜いても何も気にしないと思っていたのに、気づけば私は水に頼んで短剣を巻き上げさせていた。


「ウェンドリィは水の裁きに受かった。まだ俺への信仰心もあるし……そうだな、責任は生きて取ってもらうべきかな?」


「ええ。あの人はまともな方だから」


 湖に頭を下げて去っていくウェンドリィ兄様を見送りながら、私は竜神様と話をした。それから私たちは雨を強めて、国中を水浸しにした。


***


 —――エメルア王国最後の国王、ウェンドリィは受けた冠をすぐに返却した。雨のやまない惨状は生贄を出したことによる竜神様の怒りであり、エメルア王国は国として在るに値しない、と、神官になることを宣言した。ある日の夢で生贄に捧げられた妹姫のハイデマリーと竜神が現れ、残った民を導けというお告げがあったという。

 運命の日と呼ばれたその日、エメルア王国中の川と湖、貯水池、すべてが水であふれかえった。人々は皆水に呑まれたが、心ある者は生き残った。彼らはウェンドリィを指導者に竜神とその妻神としてハイデマリーを祀り、小さな町として細々と生きたという。

 彼らは生贄のことを忘れず、しかし、二度と生贄を出さなかった。

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生贄姫ですが身を捧げた竜神様に「俺は廃品回収屋じゃないしこの湖もゴミ捨て場じゃない」と言われました 雨海月子 @tsukiko_amami

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