第2話表裏の運が転じる。

振られた駒は北鮮内情調査官から、開拓団引率者へ…

著者は平文で日記帳に差障りの無い出来事や風土紀行を書き残しているが、一方で秘匿事項や地勢・軍事・要路人物の考課・物品は記憶に頼って後で書くわけにはいかない。どうするか。これは身分を偽装している以上、それら書付を他者に見られては諜報員の疑い…中〇側の拘束の危険が生れる。自身の生死よりも政治と軍事に関わる問題が(私、著者は誇大妄想の癖があると書いている)…敵対国や組織にとって敵のスパイを特定しても表には出さないだろう、公にする利益は何も無いと当時から考えられていた、いや逆にスパイ本人も知識は僅少で、露見すれば生命は無いと自覚する人は少なかったのではないか?自決も併せて中国、ソ連で波にのまれた陸軍特務機関員の消息不明の人数はどれ程いただろうか…戦後、著者の書き残した本編は一人残れる著者の、過ぎ去った人々への献花だろう。

11月の或る日、著者は会寧市へ出向いた、そこの総督府出張所の例の○○氏へ到着地報告(根拠地申告か?)と辞令、その他の書類を渡すためである。

朝鮮鉄道(総督府管轄?南満鉄か?)の茂山線(威北線)の茂山駅から真新しい広軌レールの上に米国製蒸気機関車(日本の機関車は狭軌であり使えなかった)が曳いていく、それは観た目も大きく、大陸にあるからこそ相応しい。

東端にある古茂山駅で乗り換える、咸北線に乗り会寧市へ向かう、ここには当時、日本陸軍の連隊・大隊クラスが駐屯していた、総督府にとってこの都市は満州の建国以前は中国と接した交通要所である。以前はロシア軍が進出していたが、流石にロシアの版図に入れるには李朝朝鮮と中国に囲まれた地理を考えると有事になれば孤島同然で、防備に無理がある。著者は駐屯地隊内で教練を受ける朝鮮籍の兵隊についても書いている、小隊を組む者、或いは各小隊に組み入れられた者、叙述は続くが…後略。

鴎外の一節が湧いた「もとは厚手の座布団で有ったろう薄手の古座布団を座敷の隅に遣って、腰を据えた、寂れた感覚が伝わった」を思い出した。この著作者の「半生の旅程」はクロニクルからは離れている、ヒストリアン(Historian)の記憶で書かれている…悲運に纏われた朝鮮の男達の物語は立証はもうできないから、止める。

会寧に置かれている総督府出張所(陸軍と総督府の連絡事務局と会議所だろう)へ訪ねたが、そこは駐屯地内に在り、訪ねる先は此処では無かった。教えられた駐在所は営門から大通りに出て、北西へ真直ぐ歩いて会寧駅を目指すと教えられた、店先の幾つもの看板を辿りながら視線を道行く人に向けると、その奥に日本軍の衛視が立っているのを見つけた、幾分か頼もしく映ったと著者は書いている。営門看板の「総督府〇〇分駐所」は駅前の瓦葺平屋〇〇の中に在った。

漸う目的地に着いた安心は著者の風景描写に移るのか。朝鮮の初冬も満州と並ぶ厳しい寒さである、乾いた雪と砂埃が風の中に溶けてまず先に屋根や吹溜りに灰色の雪が薄く積もって行く(中略)。

事務所へ名刺を渡し、所用を告げて所長と面会する。初対面の挨拶は…互いにできない、ここから会話の押し引きに火花が散った、所長が尋ねた

「〇〇さんか?」日本で必死で覚えた(紙片にも書いてはいけない)数々の符丁の中から偽名と3桁の数字を告げる

「〇山です、648の者です」

所長の顔が緩んだ気配を感じた、稍あってドカッと所長椅子に尻を据えた

「辞令と職務命令を拝見しよう」

実物を持ち歩く訳はない、著者の考えたのは紙巻煙草の包み紙に細かな字で文字の四角い塊にして、反古紙に混ぜ、手揉みして鼻紙に見せかけた、紙片の上下に陸軍〇〇局の割り印が押してある。鞄から取り出した

「前代未…、服や靴から取り出すと思ったが、よろしい」一瞥して紙片を折り畳んだ、そして指で千切り灰皿で燃やし尽くした、それは小舟を繋いでいた繋留索が切られたのである、と著者は書いている、割り印の有無が最重要なのだ。

互いに身元の詮索はしないが、所長は軍属か官吏か?と思案した処で、”よろしい”と言って尻尾が出た。

「根拠地申告だが、茂山で働くのか?」軍隊調になった

「はい、交通の便は些かですが民家の街並みに居るより余所者然とはなりません」陸軍駐屯隊の便宜も得られそうだし、乗合馬車、自動車も路線がある、河川航路も不定期だがある、電気も郵便、電信局も近いと利点を挙げて行く。

「…、よし良いだろう、月俸は〇〇円だ、君の引受人は〇〇会社係長…云々」

全て口頭であり記憶しなければならない

「君と係長との因縁話(創作である)は会っておく必要があるな、明日か…いや明後日だ」〇〇係長を訪ねることに為ったが、当日、面倒な筋書きは無しで向き合う事に決めれば気楽だ。

「俺が係長に連絡しておくが、会社の所在地と電話番号、所属部署を書いて、君に渡しておこう」顔合わせの段落がついた処で、いきなり著者は鞘から刀を抜いた。

「自分は電信機の用達をお願いしておりますが、陸軍の〇〇局よりの連絡では、駐屯地の差配の上で(所長の)指示に従えと言われております」著者は臨機に状況に従えと教育されている、ここは下手に出た。

「京城か釜山に行けば手に入るだろ、買って来るか?」著者は切っ先を向けた。

「遠い場所の広い街を探し廻って買って来ても困るのは、不得手の機械か不具合が出るとすれば、部品調達も困難であります、そうなれば全くの徒労になります」と ”聞いていない”と言いたい所長の暗喩を切った。

「陸軍の短波電信機か、どの機種が欲しいか」合点顔の所長が覗いた。後続部隊が未だ控えているが、言質らしき言葉を引きだす。

「94式〇号 です」ほほうと、顔に出た。

「おかしいだろ、民間人が所有するのは、安心できない、嗅ぎつけられる」ここから陸軍〇〇局調査官?の周到さを見せる所だ

「茂山郵便局の電信課?に設置の要望(申請?)をするつもりです、内地(陸軍省)の裁可も得ております、概略行程表(提出している)に入っております」著者は徐々に入り口を閉じ、中から出口も閉じて了まった

「工程表?さては○○局の○○だろ、貴様はそいつの部下か?」…著者は気息を込めた。

「私は(自分という一人呼称は著者は使っていない、もしかするとこの関西弁の広汎化が戦前から陸軍隊内で在ったのかも知れない)北部朝鮮の内情査察を任務としております、上官に早々に報告しなければなりません、随時報告の直接手段(電信機)として欠かせません」所長の渋面が対面の壁に張られた出征旗を凝視し続けた、長征祈武運、至誠必勝とか…来し方を巡らすとや。

「内務の資材課に調達させる、発電機は手回しで我慢しろ、蓄電は○○仕様の鉛電池だ、出力100ワット五時間~アンテナ張線は五mを用意する…云々」後続の機先が削がれた

「○○年度の陸軍省の日別送受信周波数の一覧を持っていないので、入手出来ますか」当時、第三者の通信傍受を避ける為、日毎に周波数を変えていたが、やがて日毎から時間、さらに分ごとに細かく変えて行った。それは通信飽和?による混信を避ける効果も在った。(アメリカの行った西太平洋の全周波帯域の通信傍受体制はWW2の半ばで完成した?と思われる、それには膨大な人員が組織された)

「渡せんよ、交信時に電話でそのつど問い合わせてくれ…電話番号だけを渡す」確かに著者の身元は辻褄が合うとしても初見の人物である。

      第2話続編…

「その、貴様の根拠地の…、茂山の○菱鉱山の総括場長には君の事を、身上を伝えておくから、この地でも用心に越したことは無いぞ、万が一の事を考えればだ。○○場長の名前を出せばいい、後ろ盾になるからな」一息間が開いて、所長は机上のブザーを押した。やがてドアが開いて、秘書か次官か?から茶と菓子の接待があった。徐々に感情の偽装は解けて著者の瞼には父の面影が浮かんでいた、微笑むしかない。

…これは後に著者がいきなり”人間”(軍人かも知れない)の、それは純粋さの感情に決して乗っ取られないように学ぶ必要があると思った理由です、と書いている、著者の此の個所の件と字間と余白に何があったのか?もう知る由も無い。


数日を経て、その三○鉱山の総括場長から呼び出し通知があった、当日は職員が宿舎に伺い鉱山事務所まで案内すると知らされた。


ここで話を後戻りさせるが、世間では多く書き古されている固有名詞表記について「半生の旅程」で書かれている表現は、現在では軋轢を生む言葉があるので半島の人々の呼称を”現地人”とした。これでも不安があるが…露人や清国、華人、白系ロシアや蒙古民族はそのままにして使った、地名は”京城”の様に後で知ったが”総督府地誌総監?”に書かれているから由緒のものと理解していたがダメな様で、しかしソウルでは…と思い其のままとした。現行ハングル語表記と地誌総監と”故実地名簿?”(総督府は随分熱心に半島を巡り、地誌、伝承を採集研究していたが、写真、図録原本、原簿ごと戦後しばらくの間に破却されたのだろう)を擦り合わせればいいのだが、私の能力を超えている。


当日の昼過ぎ、宿舎のドアをノックする音を聞いた、開けると、二人の鉱山職員と鉱山宿舎管理員?が立っていた。

職員の名刺を受け取り、著者は自身の名刺の無い事を詫びたが、不躾ついでに彼等の一挙一動にも閲していた、現在の状況は未知の土地へ見知らぬ三人と同行するからだ。

「鉱山管理所(事務と荷捌場と構内トロッコの車庫も兼ねている)は歩いて行けるところに有ります」

と日本語で話して来た、著者は現地人と推した。道すがら少し迷ったが職員に問答を仕向けた、名刺の名前で呼んだ…

「○○さん、貴方もそうですが、会社では現地の人は多いんですか」それは、奥低には何もない問いである、しかし応えは違った、要約すれば

「ここは以前は官営(李朝朝鮮の?

)と民間が零細ではあるけれど、現地人は夫々に露人や華人の技師や労働者の下で働いていました」なるほど行き交う人々や職員は現地人ばかりだ。

鉱山事務所に向かう道は砂利道だったが、固く締まった広い路面は消石灰を路面に混ぜ込み?突き固めたものだ、強度は判らないがコンクリートに近い見栄えがある(恐らく石灰や石炭は取引先の清津製鉄所や城津製鉄所からの供給だろう)聞くと露人が教えて施工したと聞いた…想像だがその昔にロシアが探査を行い、この地で鉄鉱石の露頭鉱脈を発見したのだろう、当時も今も露天開削による鉄鉱石は人力では稼働できない。

歩き進めるうちに遠くベルトコンベアが幾本も折り重なって小高い採掘場へ続いているのが望まれた、更に奥にはバケットクレーンも動いていると想像した、鉱石運搬車、トラックが行き交う機械化された鉱山だった、これらはロシアの金属・石炭鉱山の採掘技術が導入されているのだろうか。これらを〇菱はたして採掘事業を其のまま譲り受けたか、買収したのか、後に〇菱が導入したのか、現地の鉱業所の沿革や社史も資料も何も残らず、判らない。

戦前戦後を通じて日本は鉱山の採掘ノウハウを19世紀末から半島や満州(この呼称も此処で適切か悩むが)で清国や李朝政府と合弁?したロシアの鉱山技術を日本企業も受け継いだとも考えられる。

話は逸れるが”ダイナマイト”による鉱脈破砕は当時は最新技術で発破技術もロシア人からの指導だろうと…思えば当時の半島の特に北部は何もかもが戦後に総督府の破却で失われている、著者の類推を裏付けている文献資料などは見当たらない。

鉱山事務所の前でサイレンが鳴った、遠く消え入る音が長く続いた、やがてドン、ドンと聞こえて少し遅れて地響きが来た、

「11時か15時に発破を掛けるんです」と職員の一人が現地語で話してくれた、

事務所の前に大きな黒板の工程表が書き出してあり毎日更新される、出勤してきた作業員が各部署、各班の工程を確認して職場へ行く…以下省略。

12月の北朝鮮の風景は黄砂が舞う時、薄く積もった粉雪にそれを塗すように砂塵が通り過ぎて行く、一夜で土や砂の下に雪が隠れていた、冬景色が全ての明度を落とす。ここでも詩や歌が生れない、度を越した寒冷と貧しさ、自給自足の閉じた世界だ。

4階建ての切妻屋根の鉄骨軸組み造の事務所の4階に総括部と場長室があった。

「呉からだったか、8月に清津港に着いたのか?」場長は挨拶の途中で机の引き出しから書類を持ち出した、私に関するものだと思う、一瞥しながらも目は余計な所に動かない

「君は現地語が話せるし、ロシア語を書くのも読むのも…」場長の会話はまるで採用審査を受けている按配(雲行き)になって来た

「宿舎を間借りさせていただき感謝しております」著者は場長との互いの”面通し”のつもりだったが

「君は陸軍省の○○局の測地?…出身か、で今は素浪人と…参謀の○○、ほら今は総督府の付属部門の陸軍参謀だ、○○は諜報だったな?深くは聞けんが、此処に来た理由はそう理解しておこう」著者はこの面会で少なからず便宜を得たい下心も在ったが、機先も制されていく

「一私企業の〇菱が陸軍の参謀の或る部局の元部員を此処に寄宿させるのは、現地の鉱山職員の反発を招くかも知れん、いい気はせぬだろ」著者の足場を崩しにかかった

「どうだ?浪々の身なら…表向きはそれでいいが所詮、漫遊記どまりの報告書しか作れんぞ」その通り、この調査地では著者の知己血縁も何もないのである

「開拓団の…内情はもう掴んでいるだろ、現時点で…計画通りには行っていないんだ。連絡手段、統率者、現地語表記と習慣の理解不足、なかんずく言葉だ、華人なら漢字筆談で要略は通じるが現地人は少し…」後略。

「どうだろう、開拓団の手伝いを出来ませんか?申し訳ないが君の職務について、陸軍の○○局の感触もだな、事前にあれだ相談してみたんだ、君の本領とは違う所で働けと私が横槍を入れた訳だが…」石化したミイラに此の儘ではなるかも知れぬ、

日本と半島のアナクロニズム、沈黙した鴎の群れは gull someone into…であるだろうか。

ー第3部につづくー

茂山鉱山は推定で、鉄鉱石埋蔵量30億t、可採埋蔵量13億tとされ、北東アジア最大規模の埋蔵量を持つという鉄鉱山である。日本の植民地支配下の1930年代半ばに三菱鉱業によって開発が行われ、採掘された鉄鉱石は清津・城津の製鉄所に供給されていた。北朝鮮成立後はこれらの施設を継承した金策製鉄所(清津市)・城津製鉄所で精錬が行われていた(Wikiより参照)














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北朝鮮の冬(昭和10年代) @asumab

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