北朝鮮の冬(昭和10年代)

@asumab

第1話

地の果て、人間の崖て。

序・今ある謂れも、やがて消え去れり…

一種属のMonopolizeが野放図を生む、とすれば、その後に来る破滅と収斂はやがてまた新たな同系種が数多く分派して同じ再生を繰り返す、いま考えられる生物多様性の解釈の一つだが…。

その朝鮮民主主義人民共和国では九月の終わり頃から冬の先触れが「凍土の戦慄」だろうか?現在この国の庶民にとって越冬とは生と死のselected Stateが始まる事であり、極寒の中で嗜眠逼塞して生き延びるのである。

彼等の薪・石炭の備蓄は秋口からでは遅いのだろうか、食糧はどうだろうか?結核や疥癬の猖獗もある。半島や日本にとっても同じだが、外国に依存する石油の蛇口を締められることは収縮作用の有るものだ、庶民の呼吸する空気の息苦しさはやがて来る痙攣を引き起こす、冬の厳寒は、その酸欠耐性を削ぐ危険性もある。今も将来も、他国の遂行機関がこの国の危難の時に無数の命を救うことは難しい、周辺5ヵ国による救援物資の空中投下は荒唐無稽で、出方次第では半島のCatastropheの点火装置になる危険もある。

国家を支えるのは庶民であるという定理が通じるならば、しかしその可能性は在ると思う、五か国の逡巡を生み出す実像の不可視化はこの国の防御力の一つだが…後背から支える中国にとっては、この国を見る事は有事の戦略的思考も履行機関も無いだろう、自己愛を振りかざすばかりであり、更に非業となった犬馬に恩愛と刀刃など、もはや渡すワケはない。

戦前の日本の風土にある東北農民の”冬越し冬ごもり”とは幾分の柔らかさを語感に含んでいる、そしてそれは今では古くなって居る生活思考でもある、だから歴史から消えかかっている、同時期のこの北方朝鮮の得体がいつか記される筈なのだが、何故かそうはいかない。



1・ 店主独り語りあり、なお聞き手は沈湎私一人なり。

大阪の大正、港区は戦中、いや戦後混乱期の半島からの移住民で一角が占められた街だ、その古書屋の本棚の隅に隠れていた本があった、題は「半生の旅程」。あり来たりに気韻は削がれたが、副題に”開拓団に沿うて”とあった。

この文字で私の期待は一気に膨らんだのだ、本棚の隙間に独り占める場席の店主に聞いた「これは綴じが甘いが如何したんだい」と、いきなり売り気の無い顔がこちらを向いた。

「元は和綴じだったんですわ、綴じ糸が解れてそれで洋綴じに作り直して仕立てたんですわ、その分張りまっせ」それから「みれば判るけど合本ですねん、奥付の辺は表裏紙と貼り合わせだ」

店主の隠語を交えた話は、すでに客の品定めは済んでいるようだ。

ふっと沸いた衝動は抑えがたい、買うと決めた以上、白手袋をして扱う事にした、内ポケットから取り出して手に履めた、厚さ5㎝、分量は10冊分くらいか?紙質は悪い、藁半紙と判じたがそれに近い、枚数は千ページ位、添えられた石版印刷画や網点写真は資料として稀少だ。戦前の半島の製本事情は不明だが、鉛活字の書体は現地の物か、国字や平カナ・片カナの活字は日本からの持ち込みだろう。

この本は殆ど現存する唯一の一冊、私家版と言ってもいい(国会図書館や大学、宮内庁も蔵していない筈だ)と云えども関心を持つ人も絶無、広い世間で誰もいないが。

極寒か狂気か、飢えと疾病が纏わりついた多くの類似品が私の中に先入していて、半島の北部、日本人の有様を記録した著物や筆者は少く、多くは現地で破却された。

この古書屋での邂逅は因縁である、前世か?それめいたことは私は嫌いだが。

矯めつ眇めつしていると「李朝のまだ在った頃、一端の民衆は筒袖、前えりは黒色絹地合わせの白い服ばかりだったんですわ」

そうです社会思潮は儒教で括れば…と言うと遮られた

「難しい話は…一町四方、畠一枚の生活があるだけや、民衆はやな、そうして代々続いていたんや」これでは私の言いたいことは横溢するばかりだ、教育と識字について、衆愚の…と想念は湧いて出たが、店主の独り秤量の籠った細い視線をみると、私は心身を塞いだ、この先は泥地で危険だろう。

「では…単品でコレきりですか?」と聞いた、「揃えればいい値になるんやけどね、探したけどそれきり出て来こないね、遠い国やから」なるほど、この店主は語句の区切りごとに呼び水を呑ませる、遠い国にも返す言葉が湧く「ほなら○○円ですな、これで」と言って切り上げた、奥行きの深そうなこの店を出るのは少し惜しい気もするが、奇縁は一期一会と云った白髪マッシュボブに整髪していた司馬遼の顔が先に浮かんだ、再びまみえる事もなかろう。

2・この本の旅程、その白眉抄


夜に拙宅にて掻い摘んで目を通した…

総督府の職務辞令は朝鮮北部域の地勢調査及び公路現況報告、とある。一次踏査でざっと見て回り要点概略を探り、二次調査でカメラマンや通訳者、当地管理者の案内が付く。副題の開拓団とはこの辺りの繋がりだろうと察した、ではなぜこの私家本が出来たか?勿論それは日本の敗戦から、総督府の消滅があったからだが戦後間もない混乱期に、朝鮮北部の出版物の中で日本人による日本語の本など出せるのか?まあ通読すれば何か判るだろう。

九月、呉より海軍特務隊の補給艦に便乗して清津港へ入港、直ぐに到着電報を京城総督府宛に打った、電報局応対所で返信を待つ事しばし、返信を受け取る、某所(総督府地方頓所?)にて○○氏を訪れる指示が暗号で書かれている…旅はここから始まる。羅先(羅津)へ単線の蒸気が引く客車で向かう、ここは豆満江が海に注ぐ河口に近い市、豆満江の河口域にある村々は海上物流の終始点である。昔は水墨画(李朝文物の多くは散逸し現存しない)のような帆船や人力船(櫂船)材木筏流し(合流地や集積地では幾つもの筏を組んで長さは百米も在っただろうか)がのんびり流れて川沿いの村人や旅商人も筏上に組まれた小屋に折々それに便乗していたようだ、もちろん川面が静謐な時に櫂漕ぎ手との交渉に限るが。今は陸路輸送に替わり、稀少だが気帆船、艀船、タグボート(曳船・押船)河川用の喫水の浅い貨物船が往来している、12月から2月ごろの厳冬期に豆満江は結氷する、流氷ごとで揺蕩い流れていた川面はそれが氷塊となって折り重なり渡渉するには危険な場所になる。

物流は陸路で細々と為るにしても止められない、徒歩や牛馬橇による渡河や氷上交流も続いている。ハサン(Hasan)と云う辺りまでの対岸はソ連の管轄域(治政上の国境はあるが条約係争の火種の燻りはある)だ、枯れ錆びて色の無い商店のキリル文字看板、背の低い電柱、路上のトラックが灌木や葦原?越しに遠望出来るが、人の住んでいる気配は薄い。モスクワから見れば極東の更に東端、地の果てのような何も生み出さないここに、石積護岸を築きロシアの地図に我が領土と記されることを至上の…目的と満足感を…その為に唾を付けて措く、解らないでもないが。

ここから更に満鉄北鮮線で北上できるが乗合船で豆満江を遡上していく、浦恩洞、茂山付近の渡船場と兼ねた荷役桟橋に漸く辿り着いた、水流や水位の深浅の多い大河に桟橋を架けるのは珍しい、恐らく船の荷捌きには必要不可欠で船の到着時だけ迫出すのだ。水路網を利用した航運は此の地では乏しい、産業を伸す思いは有るだろうが沿岸地域の人口も少ないし交易産品の生産地も少なく結局、陸路にとって変えられる。比べて中国、日本の沿岸河川水運は過去には国内広域物流の基幹だった、朝鮮(李朝)の物流研究は私の分野ではないので此処で止める。

この先は徒歩である、現地では私の朝鮮語のみならず北京語が通じない危惧があったが母音のイントネション、文列や母・子音アクセントの聞き分けは明瞭だった、日本の薩摩と奥羽ほどに通詞が要らないのは、この地域の長い歴史と盛んな地方交易の積み重ねがあるからだろう。

目的地までの行路は幅広で荷駄車の轍跡に沿って行けばいいのか?半疑だったが、分岐ごとに煉瓦を組んだ区界標が立っていた。

豆満江の流れは国を別けてもいる、河口部でソビエト、北へ遡上して行く先は、満洲(現中国)との間で延々と国境が続く、豆満江の源流は太白山(白頭山)の麓から始まる、また鴨緑江、松花江、の源流域の可能性もある、というのは山頂からの雪解け水は細い流水となってやがて尻無川となって、地下に吸い取られてゆく。この崇高な山の頂は万年雪を戴冠している、初夏から晩夏までが更に神々しい、太白山を描いた紀行や探訪物語は幾つか思い出せるが…更に昔、大正末か?頃に陸軍の山岳測量隊が入って源流地近くまで北鮮東北部?の実測図報告書を作成していた。そのものを総督府で閲覧したことがあるが、恐らくこれ程の未踏地調査は地形図作成の他に鉱脈探査の目的があったのだろうか、初見で謎の地図記号が何か所も印判してあった。

それは大判青図の折り込み製本で三角標点、BMの経緯度、標高一覧が添付された地形図書は五巻仕立ての大判で重く金文字模造黒皮表紙の見事な仕上がりであった。それらの透写紙原本(閲覧には立会人が付いた)は東京の大本営陸軍部参謀?部に収蔵されている。当時の陸軍測量部は大きな組織で(海軍海路部との連携は不明)、昭和になると中国朝鮮台湾東南アジア南方諸島まで派遣され、更に機器の精度向上や航空写真測量などが技術導入されていた事もあり成果品は年度ごとに増えて行った。それらは軍機扱いであり既に敗戦により大部分、原図フィルムも全て破却されて終ってもう日本国内にも存在しないと思われる。

尚も李氏李朝朝鮮の統治機構調査研究、官職人名総覧、官吏所属別総覧など背表紙のみ眺めていた数巻仕立ての本も並んでいたが、同じ破却の扱いを受けたのだろう、私が思うに、現存していれば朝鮮近現代史の研究分野でも、その価値は何を以てしても代えがたい。

茂〇の宿屋は少ないからと、○○の斡旋で東へ向かう。○○の鉄鉱山採掘場が現れたが其処までの間に平屋の社員宿舎(社宅か?)が数十棟ならんでいる、その棟割一軒屋の一部屋を間借りする、私は此処から周辺地域の地勢地理交通行政官吏の職務調査、要職者人物評など…日中はとにかくメモにしておいて、夜に宿舎で仮名伏字にしてコード表に割り当てて整理してゆく。

同じく此処には開拓団の研修教習施設?がある、そして日本各地からの入植家族の集合待機施設?でもあるのか?この一団の人々に余り深入りは出来ないが、書き添えば南方諸方、諸島の入植地であれば取りあえずの住処は、掘立て仮屋か天幕小屋で済む、が…寒冷地の此処では寒さに耐えられない、暖房を入れられる家屋でなければ越冬、いやその前に凍死の危険がある。


3・開拓心得小冊子とは、そしてその先


同じ間借りをしていた○○県の一家族とはやがて顔見知りとなり、総督府○○局提出用の彼等の身上書?の訂正、加筆修正などを頼まれて親しくなった。家族の主人の身上は○○家三男、一反惣領ともいうべき惣領制の細分化が行き渡った江戸末期からの人口増の農家では、農業の不作や兼業の行き詰まりで、この主人のような次三男の行き場がなくなる。海外移民政策の一面にはこの家族の身上に記された様に一反の畠も別ける余地の無い代々の土地に換えて、新開地の夢を満蒙の土地に抱くその事情も察し得た。

開拓心得?(題は忘れて正確ではない)という支給品?の小冊子を見せてもらった、表に禁転載の角ゴム印が押してあるし、本の通し番号を見て一瞬ためらったが、素朴な主人の顔を推し量れば、私が口外しなければ大丈夫だろうと判断した。

目次の中で軍務教練の文字が目を引いた、それは開拓民による自衛団の創設である。

現代であればそれは話が違うと、開拓団の中から疑念が立ち上がるだろうが当時はどう思っただろう、民草は内に矯めるのか。それとも神棚に上げた神格に怖れ、国家には謝意をもって受け止めたのか?判らない。


4・ユートピアへの”異境懸崖”を彼等はよじ登る。


「生まれ在所の養蚕農家の手伝いをしながら暮らしているんです、満州でも○○は蚕糸産地が多いと云われています」

と主人から話を聞いた

「だから、開拓地で栗・椚園を作って柞蚕(ヤママユ)を育て(作付て)天蚕糸(てぐす糸)の原糸を作ってみたいんです」

私はどこもかも、此処は異境だろうに民族のNとS極が訳もなく反発する。と、やにわに別の言葉が浮かんだ…

「ああ、満州の○○近郊では養蚕地がありますね」…彼の執心は埋火の様である

「とにかく繭玉を作れるまで、道は真直ぐではないですが」と云って、真顔が返って来た。

桑の木の葉と実種を真綿で包んだものを見せてくれたことがある

「○○から持ってきたもので記念でしかないですが」タネから植えるのかと聞くと

「もうこれは芽が出ません、現地で採集できれば…日本から取り寄せるか…」

私は少し辛くなって、話頭を変えた


「半生の旅程」の著者は”戦後”にこの場面を振返って書いている、個人として夢を語る彼の人間的成長は、この地では不吉を含んでいたといえる、此の中国大陸の満州開拓団の不許和音が、今となれば押し付けられた対位法、であり中国農民と調和できる筈はなかったのだ。

そして著者は養蚕について調べている。

広大な満州での柞蚕は蚕(カイコ)に対して山子(ヤマコ)と呼ばれ,○○地方では現在でも野外飼育されている、今もヤママユと中国のサクサンの雑種も糸をとる目的で作出される。

絹布一枚作り出すにしても、その歴史や関わる人々の裾野は広い、柞蚕絹布の生産は○○県など養蚕農家と違い桑畑の土地など持ち得ない貧農や小作人などが明治初期に中国大陸から導入された柞蚕の生産技術によって、幼虫が桑畑に頼らずとも椚や楢など木本樹木の葉を餌としている事だ、日本での放任飼育も可能性は有る(大陸では半野性の放任飼育だが日本の外敵の多い環境で繭を作れるまでの生存率は調査されていない)

どれも均質な繭玉を定量を出荷出来なければ養蚕家として認められない。

繭の集獲と蛹の煮繭(加熱殺虫)自家製糸作業、とても入植者一家や有志一同で出来る事業ではない。

ところで満〇国務院が監督指導者?であった此処の開拓団とは系統の違う、朝〇総督府と関〇都督府(入植地ではないが商工業の就労便宜をした)が募集した移住民や入植者の中から北満移住の希望者が居る事に応えるべく独断で、事後承諾にするつもりでこの茂〇鉱山所職員宿舎に集合する様に指示を出していた…○○鉱山会社社員宿舎を一応の集合場所としている開拓団の農家は日本各地から集まって来る、思えば日本の片田舎からこの大陸の西も東も言葉も地理も判らない人々が此処に集合するのはどれほどの苦労が在っただろうか?茂〇には待てど暮らせど入植者家族が揃わない…

さらに日本各地の移民・入植者の渡航出発地はバラバラで福岡、門司、広島、舞鶴、新潟など日時も人数も把握できていない、また単身で貨物船や漁船?に便乗して格安で渡航する者もいる。彼等の到着地もバラバラ、釜山、清津港、仁川。今になって考えればこんな事をすれば無茶苦茶な事態が起こる事が想起されるが、これは各部所、組織が横の連絡も取れず(取らないのか?)事後対処を現地に丸投げしているからだ。

それらも当時の通信事情も考えると万事に当て嵌まる事ではないか。

東京と京城の応答はモールス通信による電信文の送受に依っていた、実際、総督府官舎屋上には、短波・長波の送受信アンテナが幾本も建っていたし、半島各地に郵便局をめぐらし、電報局を併設させたのも遅速する情報対応策の一つだろう。

さて「半生の旅程」の著者について推察しなければこの小説の輪郭がはっきりしない、陸軍士官学校を卒業し、陸軍省の内勤として本省(参謀本部軍令部第〇局)所属、のちに勤務地配転により、日本各地にある師団本部付参与という肩書で、陸軍史編纂者〇〇となっている、なんとこれは身分本性を知っているなら、真っ赤に偽った陸軍部の師団・連隊内情査察官?そのものである(伊達騒動の藩と幕府隠密の探索と攻防を想起した、事次第で師団長の頸が飛ぶか)。

余談として…「防諜研究所」を経て陸軍中野学校と改名創立されたと思われる(秘匿されていた)昭和15年当時、「半生の旅程」の記述からそれらは著者の入省後にあった出来事だろう。とすれば著者の年譜が推し量れる、それはモールス信号の習得や電鍵訓練を特務機関か陸軍測量部かで習得したのだろうか、それ以上は判らないが、だがこれにより少し曖昧も残るが、記述年次は昭和10年代であるのは確かだ。著者の北部朝鮮各地の足取りと記述を、この本から見てみよう、朝鮮北部の内情と社会インフラ調査が彼の任務であるから。この後も敢えて人名と時系列を省いて書く。

      ~次編へつづく                                                                                            

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