第2話 3月11日~

 午前9時、千坂は目を覚ました。目覚めが遅いのはいつものことだが、友人の家でのそれは気まずい。


 部屋を出ると台所から汐織が顔を見せた。


「おはようございます」


 何故かその声に懐かしいものを覚えた。


「寝坊してすみません」


「いえ。兄もまだ寝ていますから」


 汐織が2階に駆け上がる。


「お兄ちゃん、起きて」声が降ってくる。


 茶の間には朝食の準備が整っていた。


 東の窓から射す透明な光に誘われて窓際に立つ。小さな庭の先が低い崖になっていて、その先に砂浜があった。海は朝日を受けてキラキラと踊っている。


「海が目の前なんですね」


「はい。潮風が強いから、大変なんです」


「でも、夏は楽しそうだ。目の前がプライベートビーチじゃないですか」


「砂浜の先はすぐに深くなっていて、泳ぐのは危険なんですよ」


 汐織は暖かい味噌汁を炬燵に並べた。


「おはよう……」


 寝ぼけ眼の吉原が入ってきて、どたりと座り込んだ。


「ご両親は?」


「もう出かけてしまいました。家にいるのは午後11時から4時までなんです。それから午後2時頃に一度、戻ってきます」


 汐織のしっかりした受け答えに改めて感心した。同時に、東京に出てみたいという思いを封印している彼女に健気なものを覚えた。


「コンビニ経営も大変なのですね」


「こんな田舎じゃな。そもそも、売り上げ規模が小さい。都会のようなわけにはいかないさ」


 吉原が自分の未来を投げ捨てるように言った。


「深夜はパートやバイトで対応できないのか?」


「ここで深夜に働くのはお巡りさんか幽霊ぐらいだよ。利益を出さないとロイヤリティーも払えないからな。バイトはそれほど雇えないんだ」


「それで、私がバイトなんです。賃金ゼロの好待遇」


 汐織が皮肉交じりに言う。


「家族だから仕方がないだろう。これからは兄ちゃんが働くから安心しろ」


 吉原が味噌汁を腹に流し込む。千坂も箸を手にした。


 食事を済ませ、ワゴン車の荷物を3人で降ろして彼の部屋に運び込む。家電や家具はリサイクルショップに売ってしまったので荷物は段ボール箱ばかりだ。


「荷物が少ないって、重いものばかりじゃない」


 箱を抱えて汐織が文句を言った。


「お兄さんの荷物は本ばかりだからね。重いよ。……経済学部なのに、半分は自然科学の本だった」


「自然と人間は対なのさ」と吉原。


「へぇー」


 汐織がよろよろと階段を上る。


「古本屋に売ってくればよかったのに」


 上りきったところで言った。


「また読むかもしれないだろう」


「読まないわよ。コンビニの店員なんだから」


「ひどいやつだな。聞いたか亮治」


 話を振るな、と思った。


「汐織、そんな口をきくと、亮治がもらってくれないぞ」


「え?」


 汐織が運び込んだ荷物をドスンと床に落とした。


「こら。そんなに勢いよく降ろしたら、床が抜ける」


「う、うん」


 汐織が頬を赤く染めて階段を駆け下りていく。


「亮治、昨夜、やったのか?」


「何を?」


「だよな。お前ぼんやりしてるから……」


 吉原が声を上げて笑った。その声から都会の緊張感はすっかり消えていた。


 荷物を降ろし終えた後、千坂は吉原に連れられて港の前のコンビニに足を運んだ。彼の母親がレジにいた。汐織に似ているのですぐにわかった。


 昨夜、泊めてもらった礼を言うと彼女はカラカラ笑った。笑いながら、「ウチの息子こそ世話になってぇ」と恐縮しているのが可笑しい。


 コンビニで昼食用の弁当とお茶を買って売り上げに貢献しようとした千坂だったが、息子の友達から金はもらえない、と父親に言われて金を出しそびれた。


「ついでに娘をもらってちょうだいな」と、母親に頼まれた。


「昨夜、亮治のことは話しておいた」


 背後で吉原が笑っていた。なんてやつだ!……言語的にはそうだが、悪い気はしなかった。


「ごめんなさいね。嫌ならいいのよ」


 母親が言い、またカラカラ笑った。


 全てを曖昧にしたまま店を出ると、離れた防波堤に腰掛けて弁当を広げた。


 空の青と海の蒼は映し鏡のようだ。冷たい空気は肌を切り裂くクリスタル……。


「港に船がないな」


 千坂は胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。


「みんな、漁に出ているのさ」


「なるほど」


 暖かいお茶を含んでホッとする。


「お兄ちゃん」と声がした。汐織だった。


「おう、バイトか?」


「うん、ただ働き」


「頑張れよ」


「千坂さん、今晩も泊まって下さいね」


 千坂は曖昧にうなずいた。予定ではすぐに帰るつもりでいたのだ。今日中にレンタカーを返すつもりだった。


「妹のこと、真剣に考えてくれないか……」


 吉原がコンビニに向かう妹の背中を見ていた。


「まだ18歳じゃないか」


「まあな」


 彼女の姿がコンビニに吸い込まれ、交代した両親が出てくる。


「今晩はアンコウ鍋にするよ」


 気さくな母親が手を振って通り過ぎた。父親がぎこちなく笑った。その脳裏にあるのは汐織のことだろう。


「素敵な両親だな……」帰れなくなったと思う。


「あぁ。妹と一緒に貰ってくれたら助かる」


 吉原が冗談を言って笑った。それから突然、宇宙のことを話しだした。宇宙を満たすダークマターや40億年前に生命が誕生したことなどだ。内容は興味深いが、役に立つものとは思えないものばかりだ。


「宇宙は生きているんだ」


 彼がそう言った時だった。――ゴゴゴゴ……、地鳴りがし、地面が大きく揺れはじめた。


「地震だ」


「でかいな」


 固い大地が波のようにうねってアスファルト舗装に亀裂が走る。電線は縄跳び縄のようだ。千坂は堤防に両手をついて身体を支えた。


 長い揺れが収まった後、周囲に目を走らせる。コンビニは無事だった。傾いた建物がその先にあった。千切れた電線が宙を泳いでいる。


 スマホに着信がある。津波警報だった。


「3メートル……」


 吉原が声にする。


「そこそこ大きいな」


「いつも1メートルとか言って、30センチぐらいだからな。心配はいらないだろう」


「家は大丈夫か?」


「そうだな。あっちは古いから」


 2人は自宅に向かった。


 家が見えた時、津波の予想が10メートルに引き上げられた。


 パトロールカーや消防自動車の拡声器が高台に避難するように呼びかけている。


「いつもと様子が違う。亮治、妹を頼んでいいか。俺は親を見て来る」


 妹と2人にしようという彼の策略だな。……千坂は軽い気持ちで踵を返した。


 停電になったコンビニでは、汐織が薄暗い店内で散乱した商品を片付けていた。


「汐織さん!」


 彼女が振りかえる。緊張がフッと緩んだのがわかる。


「ひどい地震でしたね。怖かったわ」


「津波だ。逃げよう」


「心配いらないですよ。それより片づけなくちゃ」


 彼女が落ちていた商品のボールペンを拾う。


「ダメだよ。10メートルの予測だ」


「10メートル? 10センチじゃ?」


「とにかく、高台に行こう」


 彼女の手を握る。


「あっ。鍵を閉めます」


 汐織はてきぱきと戸締りをしたが、その時間だけ逃げるのが遅れた。


 外に出ると、海は遠く、小さく見えた。


「大丈夫そうですよ」


 汐織が言う。


「いや、潮が引いているんだ。津波の前兆だよ」


 何かで読んだ知識だった。とはいえ、まだ気持ちには余裕があった。彼女と肩を並べて速足で歩く。彼女は「こんなもの持ってきちゃった」と言ってボールペンを千坂に見せた。300円のちょっと立派そうなものだ。


「これ、書き易いそうですよ。千坂さんにあげます」


「ありがとう」


 千坂は彼女の好意を素直に受け取った。彼女と付き合ってみようとも思った。


「あっ……」


 振り返った彼女が声を上げた。その視線の先には、蒼い壁があった。海水の壁だ。


「走れ」


 千坂は汐織の手を握って走り出す。


 ――グゥオーン――


 それは飛行機の爆音のようだった。あるいは建築物が倒壊する音か……。ただ、それが背後から着実に近づいてくるのがわかった。


「イヤァー」


 汐織の叫び声を聞いた時、千坂は宙に舞っていた。目の前が真っ暗になった。身体がひっくり返り、耳の中をボボボボという音が塞ぎ、呼吸が止まった。


 汐織さん!……潮の中で叫ぶと、肺は一気に空気を失った。身体中が殴られているように痛む。それでも汐織の手は離さなかった。そのつもりだった……。


 気づいた千坂は、冷たい闇の中にいた。それが瓦礫の下だと知ったのは、這いだしてからのことだ。


 立ち上がると方々が痛む。出血があったが、骨は折れていなかった。周囲には誰もいない。薄っすらと雪に覆われていた。


 ダウンジャケットもGパンもズタズタに裂け、靴は片方だけになっていた。ポケットをまさぐる。スマホはなかった。手に触れたのは真新しいボールペン、汐織にもらったものだ。


「汐織さん!」


 叫ぶと、ひどく喉が痛んだ。何か悪いものを呑み込んだのかもしれなかった。周囲を見やる。彼女の姿はもちろん、声もない。


 ――妹なら世間の荒波を上手く泳ぐはずだ――、吉原の言葉が頭を過る。彼女なら大丈夫に違いない、と自分を騙した。


 寒い。……千坂は震えた。太陽は、おそらく真南にあった。それがあっても風は冷たい。


 白い雪が目に留まる。……あの日は雪がなかった。すると、今は3月11日ではないということか。1日以上、意識を失っていたのか?


 周囲は瓦礫ばかりで、そこがどこかわからなかった。コンビニも港もない。防波堤さえ、ズタズタに切れて原形をとどめていない。


 ここはどこだ?……周囲に人の姿はなかった。不安と恐怖で狂いそうだった。


 ただ、音があった。波の音と、……上空にエンジン音。


 ヘリだ!……南方の鉄塔の上をヘリが行き来している。あそこに行けば人がいると判断して向かうことにした。


 傷を負った身体は思うように動かない。靴を失っているので瓦礫のない場所を選んで足を置く。


 どれだけ歩いただろう。見覚えのある煙突があった。原発だ。


 ――ドォーン――


 爆音に頭を上げると白煙が上がっていた。小さな破片が勢いよく飛んでくる。両手で頭をかばうと、小さな金属片が手や肩、腹に突き刺さった。


 原発が爆発したのか?……まさか、と思った。原発がひどく身近なものに変わった。


 ここから離れなければならない。……それくらいのことはわかった。向きを変えて懸命に歩いた。その時、汐織のことを忘れていたことが、後々の後悔になった。


 国道に出た千坂は、原発に向かっていた車列と出会って救助された。


 安心すると再び意識を失った。気づいたのは真っ白な部屋のベッドの中で、体中に包帯が巻かれていた。意識が戻ったとはいえ、めまいと吐き気があった。肉体は鉛のように重く自由にならない。


「気が付いて良かった」


 目の前にいたのは全身を防護服に包んだ人物だった。フルフェイスマスクの向こうの目が冷たい。


「ここは……」


 病室にしては窓がない。


「隔離病棟だよ。私は医師だ。あなたの名前を教えてくれるかな? 身元を示すものを持ってなかったものでね」


「千坂……」名前は答えることができたが、住所を思い出すのには時間が要った。住所より先に、汐織の笑顔を思い出した。


「爆発で放射性物質を浴びたのだ。肺、腸にも放射性物質の強い反応がある」


 医師は、千坂が被爆して放射線熱傷を負っている、手術も必要だ、と告げた。


「吉原という家族は?」


 自分のことより汐織のことが知りたかった。


「現場はとても混乱していてね。今、消息を確認するのは難しいだろう」


「それなら僕が……」


 身体を起こそうとすると強く押さえつけられた。


「あの地域には誰も入れない。君の身体も汚染されている。除染が必要だ。ここからは出せない」


 彼が首を振った。


 千坂は原発事故による多額の保証金を得たが、健康と自由と仕事、そして汐織を失った。彼女を失ったのは津波のためか、事故で救助に向かえなかったためなのか、それはわからない。わかったのは、就活に失敗した吉原冬馬の気持ちだった。


 千坂は3度の手術と1年の入院を経て退院にこぎつけた。とはいっても肉体は放射能に毒されていて、完治は望めなかった。


 それから三浦半島の海の見える療養施設に入った。相模湾の碧い海は穏やかで、あの日の海とは全く異なる顔をしていた。庭のベンチで新聞を広げるのが日課になった。


 入院中から、新聞や雑誌の記事の中に汐織と吉原の名前を捜すのが、生き残った贖罪だった。精神科医は、未来を信じれば過去を乗り越えられると教えてくれたが、とても理解できなかった。


 事故から1年も経つと、新聞紙面に被災者の名前が載ることはほとんどなくなった。しかし千坂は諦めなかった。文章にボールペンを沿えて記事を追った。そうしないと焦点が定まらず、ものが読めない。毎日毎日、記事の中に彼女の名前を探した。千坂の名前を見ることもなかった。被爆などニュースにならないのか、それとも……。


「汐織は見つかったのだろうか……」


 原発事故がなければ捜索できただろうに、……毎日考えた。遺体を確認して感情を納得させることが前に進むために必要だった。しかし、吉原の住まいやコンビニのあった地域は放射能に汚染されて立ち入ることが出来ない。吉原はもちろん、両親も津波にさらわれ、汐織の行方を尋ねることもできなかった。


 僕はどうしたらいいんだ?……考えると紙面が濡れた。


 千坂は衰えて勝手に震える手に目を移す。そこにはまだ、逃げるために握った汐織の細い指の感触が残っていた。


 ――それ、書きやすいそうですよ。千坂さんにあげます――


 彼女の声がした。言ったのは、震える指が握る300円のボールペンだった。


「汐織さん……」


 千坂は決意した。汐織の物語を書こう。そこで彼女を取り戻そう……。

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喪失のN ――2011―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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