喪失のN ――2011――

明日乃たまご

第1話 3月10日

 太平洋沿いに走る国道6号……。引っ越し荷物を積んだレンタカーが北に向かっていた。


 運転するのは千坂亮治ちはらりょうじ。大学を卒業し、4月から商社で働くことが決まっている。


「俺は負けた。亮治は勝った」


 そう言ったのは助手席の親友、吉原冬馬きちはらとうま。車の荷物は彼のものだ。就職活動に失敗し、故郷に帰るところだった。真っすぐ続く道に向けるその瞳は無念に満ちていた。


 千坂には返す言葉がない。それでも何か言わなければならないと思った。


「冬馬が悪いんじゃない。リーマンショックのせいだ。僕たちはアメリカ人のつけを払わされているんだ」


「アメリカ人が夢うつつで世界経済をぶち壊しても、亮治はちゃんと採用されたじゃないか。俺の問題なんだよ」


 以前、アメリカでは高景気が続き、不動産価格が上昇していた。それで返済能力の乏しい者たちまでがローンを組んで住宅を買った。アメリカのローンは物件に紐づいており、最悪の場合、物件を放棄すれば返済を免れる。彼等は将来、値上がりした自宅を売ってローンを返した上に、利益まで得られるはずだった。アメリカの金融機関は、そうしたリスクのあるサブプライムローンを組みこんだ金融債権を世界中で販売、自分たちのリスクを分散した。


 ある時、誰かがサブプライムローンを含んだ債権は危険なのではないか、と気づいたようだ。投資家たちはそれらの債権を買い控え、不動産価格の上昇が止まった。


 みんな〝右肩上がりに成長する未来〟という夢から覚めた。


 結果、一気に景気は減速し、2008年9月、大手金融機関のリーマンブラザーズ社が破綻、世界中がパニックに陥った。千坂の分析ではそうだ。


 日本も例外ではなかった。日本の金融機関はサブプライムローンを組み込んだ債権をほとんど持っていなかったが、世界経済が減速すると輸出に頼る製造業が打撃を受けた。2007年には513兆円あったGDP国内総生産が、2009年には471兆円にまで落ち込んだ。


 2010年、GDPは483兆円まで回復したものの企業の将来見通しは厳しく、採用を控えた。千坂たちの就職活動はそうした環境下で行われ、吉原は内定を手に入れることができなかった。そんな彼に残された道は、厳しい中途採用に挑むか、大学院に進む道だった。が、どちらにしても、経済環境が改善しなければ就職が難しいのは同じだ。彼は、家業のコンビニを継ぐことにした。


「夢は覚めるものだ。あれだって夢だった」


 吉原が夕日を反射する案内表示板を指した。右に行けば東京電力福島第一原子力発電所とある。


「そうなのか?」


 千坂は原子力発電などというものを考えた事がなかった。電気はいつでもコンセントから流れ出てくる物だ。それが夢だったと言われてもピンとこない。


「原発は火力発電と違って、温暖化ガスや燃えカスを出さないクリーンな発電だと説明された。田舎には雇用が生まれ、補助金が交付されて豊かになる」


「いいことずくめじゃないか」


「核燃料も使えばゴミになる。今では年間1千トンの核のゴミが出ている」


「騙されたんだな」


「いや。原発に関わる連中は、それがゴミじゃないという。リサイクルすればまた燃料に戻ると。それが核燃料サイクルで、そのために中間処理場や高速増殖炉がつくられた。その高速増殖炉はポンコツで、サイクルは成立していない。核のゴミは増える一方で、原発はトイレのないマンションと言われているんだ。最後にたまったゴミの処分を押し付けられるのは、誰なのだろうな」


 吉原はよく勉強していて世の中を批判的に見ている。それがぼんやりしている自分との違いで、面接で全滅した理由ではないか、と千坂は感じた。大人は何につけ、批判されるのを嫌うものだ。


「停めてくれ。もうじき俺の家だ。道が複雑だから代わろう」


 2人は運転を交代した。千坂は松林の向こう側にそびえる煙突に目をやった。温暖化ガスを出さないはずなのに、あの煙突はどうして必要なのだろう?


 吉原がハンドルを握って10分ほどすると、漁村といった風情の集落に着いた。車は彼の父親が経営しているコンビニの前を通り過ぎ、海の目の前にある住宅の前で停まった。


「荷物を降ろすのは明日にしよう。中で休んでくれ」


 建付けの悪い玄関引き戸をガタガタと引くと「おかえりなさい」と澄んだ女性の声がした。


 千坂には、声が吉原の妹の汐織しおりのものだとわかった。自慢話をよく聞かされていたからだ。今年高校を卒業した彼女は、地元の漁業協同組合に就職が決まっているはずだ。


「友達を連れてきたから、コーヒーを頼む」


 吉原がドアを閉めると夕日が締め出され、屋内に陰鬱なものが漂う。目の前が8畳の茶の間で、南と東側に窓があったがすでに闇に飲まれようとしていた。


「そこに座ってくれ」


 吉原が炬燵こたつの前を指し、蛍光灯を付けた。部屋が明るくなっても、彼の顔はくすんだ木像のように見えた。


「初めまして。兄がお世話になっています」


 汐織が顔を見せ、正座して両手をついた。


「こちらこそ。突然お邪魔してすみません」


 千坂は挨拶をしながら汐織の姿を観察する。化粧気がなくゆで卵のようなすべすべした白い顔に小さな鼻と濃いピンク色の唇がついていた。髪は黒く、首元でさらさらと揺れている。顔は美形とは言えないが、何故か胸がきゅんとした。


「いえ、兄からメールは貰っていましたから。両親は店に出ているので、何もおもてなしは出来ませんが」


 高校を卒業したばかりだというのに、しっかりした対応だった。


「なっ。しっかり者だろ。俺の妹とは思えないよ」


 千坂はうなずいた。


「兄がダメだと妹がしっかりするんです」


 出されたコーヒーは、深く豊かな匂いを放っていた。


「インスタントですが」


「へぇー。インスタントでも、こんな香りが出るんですね」


 千坂が素直に驚くと、汐織が「ええ」とほほ笑んだ。


 夜はビールと炬燵一杯の料理が並んだ。


「ほとんど母が作ったものです。私は温めただけですから」


 汐織が千坂のグラスにビールを注ぐ。その様子は、暗い印象を与える吉原とはまったく異なっていた。


「いや、立派なものだよ」


 酔った千坂は、自分で何を言っているのか分からないまま、汐織が注ぐビールを愛情か何かのように感じて飲んだ。


「世間とずれている兄はこのていたらくだが、妹は世間の荒波をしっかり泳げる女だ」


 吉原も酔っていた。ビール瓶を持つと「汐織も飲め」と勧める。


「私は未成年ですよ。コンプラ、大事です」


「ほうら、酒を断るのもうまい」


「冬馬、なにか吹っ切れたようだな」


「いや。せめて妹には幸せになってもらいたい」


「温かい兄妹愛だな……」


「亮治、勘違いするなよ。俺たちは普通の兄妹だ。なぁ、汐織」


「はい。千坂さん、兄が酔っぱらって、すみません」


 汐織が苦笑する。


「亮治、汐織と結婚しないか?」


「えっ?」


 千坂と汐織が目を点にした。


「俺はお前が汐織の相手なら安心だ。汐織、亮治はぼーっとしているが一流商社に就職した勝ち組だ。きっとお前を幸せにしてくれる」


「兄さん、突然何を言うのよ。千坂さんが困っているわよ」


「亮治に恋人がいないのは、知っているんだ。こいつ、ぼーっとしていて女に声もかけられない」


「女性に縁がないのは、冬馬も同じだろ」


 言い返しながら、汐織なら良い妻になるだろうと思った。


「商社なんて世界中を飛び回るのでしょ。私はこんな田舎育ちだから無理です」


「馬鹿だな。何事もやって見なけりゃわからないだろう。……兄ちゃんみたいに失敗することもあるけどなぁ」


 吉原が作り笑いを浮かべた。その目尻に光るものがあるのに、千坂は気づいた。


「もう一度、就活したらどうなんだ」


 励ますつもりで言った。


「お前、どこまでぼーっとしているんだ。今年ダメなものが、来年上手くいくわけがないだろう。日本は、そういう国だ」


 吉原は言うと、顔を隠すようにごろんと横になった。


「千坂さん、ごめんなさい。兄、酔っているんです」


 兄をかばう汐織は、まるで母親のようだ。


「日本は可笑しいんだ。僕みたいにバイトばかりしていた学生が就職できて、お兄さんみたいに真面目に勉強してきた人間が採用されなかった。本来なら、お兄さんが採用されるべきなのに」


「兄をかばっていただいて……、ありがとうございます。でも、これが現実なんです」


 彼女の顔に感情はなかった。


「強いんだね」


「こんな田舎にいたら、辛抱と諦めしか身に付きません」


「夢はないの?」


「一度、東京に出てみたかったです」


「これからだって、チャンスはあるよ」


「兄を見たら、無理だと思いました」


 彼女は兄の寝姿に目線を落とし、小さなため息をついた。


 千坂は身を乗り出して吉原の顔を覗いた。悪夢でも見ているのか、苦痛にゆがんでいた。


「都会は怖い?」


「そういうのではないと思います。うまく表現できません」


「比較したら、生まれ育ったここが良いということかな?」


「ここも嫌ですね」


 千坂は言葉に窮した。


「水、……もらえるかな」


 彼女を遠ざけたくて頼んだ。


 彼女は小さな返事をして立つと、思ったより早く戻ってきた。


「寒くないですか?」


 千坂の前に水を置いて訊いた。


「大丈夫だよ」


「もうすぐお風呂が沸きます。……あのう、これからも兄の友達でいてください」


「あ、うん……」


 何もかも汐織に先を越されているような気がした。


「お兄さんが汐織さんを自慢するのが分ったよ」


「他人には自慢するのに、2人になると私をブスって呼ぶんですよ」


「照れているんだよ」


「照れるって、兄妹ですよ」


「それでも照れるものなんだよ」


「千坂さん、兄弟は?」


「兄がいるんだけど、もう20年は会っていないなぁ。生きているのか死んでいるのかさえわからない」


 他人が聞いたら不思議に思うだろう。彼女は当然な反応を示した。


「私、いけないこと聞いちゃいましたね」


「いや……。小さいころ両親を事故で亡くしてね。兄は父方の親戚が引き取り、僕は母方の親戚に引き取られた。そうなると、兄弟でも会う機会がないんだ」


「寂しいですね」


「うーん。どうだろう……。もう、寂しいなんていうのも、忘れちゃったな」


 彼女が気遣い、話を変えた。


「あのう。兄の言ったことは気にしないでくださいね」


「えっ?」


「私とのことです……」


 汐織は恥ずかしそうにうつむいた。その姿に、妹と結婚してもらえたら安心だ、と言った吉原の言葉を思い出した。何故か、胸が高鳴った。


「私、自分の名前が嫌いなんです。あ、名前じゃなくて苗字の方。キチハラって、誰も呼んでくれなくって、ヨシワラの汐織って呼ばれるの。ヨシワラの汐織じゃ、ソープ嬢みたいでしょ」


 困ったときに自虐ネタを使うのは、吉原と似ていると思った。


「苗字は、結婚したら変わるよ」


「はい。だから、素敵な苗字の人と結婚しようと思うんです」


「そうか……。千坂じゃ面白くないよね」


「そんなことないです。でも、今日初めて会ったばかりだし、兄がこんなだし」


「僕は、君のお兄さんを尊敬しているよ」


「そうですか?」


 汐織の顔が輝いた。彼女は、兄のことが本当に好きなのだと思った。


 廊下の向こうでチャイムが鳴る。――風呂が沸きました――と続く女性の音声。それは、録音されたものか、デジタル音声なのか、微妙だった。いずれにしても世の中は便利になった。


 汐織がぴょんと立って、廊下の向こうに消えた。ほどなく客用のパジャマを用意してきた。


 千坂は風呂をもらってから客間の布団に横になった。時刻はまだ午後10時で、普段なら眠くなることなどなかったが、運転疲れと身体をめぐったアルコールの影響で、すぐに眠りに落ちた。

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