高三・夏 底に残ったコーヒーの一滴が薄くて苦い

「あの、いつまでそれやってるの」

「ん? 面白いよピセダリ」

「そうじゃなくて。……まぁ、いいんだけど」

豊沢とよさわさんもやれば」

「やらない」

 カフェの店内で、わたしと丹波たんばくんは向かい合って座っていた。二人ともアイスコーヒーの真ん中のサイズを飲んでいて、それから、勉強道具を広げている。おやつ時でも閑散としているこの店は、長時間居座っても怒られなくていい。

 高校三年生の夏休み。わたしたちはこうして週に一、二回、一緒に受験勉強をしている。丹波くんは今、スマホゲームに夢中のようだけど。


 写真部だから、秋にある文化祭までは一応、三年生も在籍することになっていて、でも他の部員たちはみんな予備校へ通って忙しくしていた。

 一方でわたしと丹波くんは熱心に勉強している様子を見せないものだからよく心配されていて、でも行けるところへ行けばいいし、なんとかなると思っているからあんまり頑張るつもりはない。これでも、どこかしらに合格できるくらいの成績は取っているつもりだ。

 カフェらしい穏やかな店内BGMと、店員さんの明るい声と、カリカリ走るシャーペンの音。これくらいがちょうどいい。




 冷房が効いてきた気がする。剥き出しの腕をさすってみるも、その手が冷えているからいっこうに暖かくならない。やっぱりホットにすればよかった。炎天下で自転車を漕いできたのだから仕方ないのだけれど、丹波くんと同じようにアイスを選択した少し前の自分が恨めしい。

 プラカップの表面はすでにびっしり結露していた。なんとなく触れた指先が、余計な冷気を感じとる。

 あーあと思いながら視線を上げれば、向かいの丹波くんと目が合ってしまう。

 ふっと鼻で笑われる。

 彼は夏でも長袖を着ていることが多くて、今日も微妙によれたグレーのシャツを羽織っている。いつも暑そうだと呆れているけれど、今ばかりは羨ましい。

「貸さないよ?」

「そんなこと思ってないし」

 こういうのに目敏く気づく癖に、優しくはしてくれないんだ、丹波くんは。

 そもそもわたしは彼の雑な扱いに慣れすぎて、気遣われる自分を想像できない。優しくされたら雪でも降るんじゃないかとすら思う。

 でもちょっぴりだけ、彼女相手なら、優しくするのかな、とか。考えてしまう。

「あのさ」

「ん?」

 ふたたびスマホに目を向けた彼は、なにを思っているのだろう。くるくる画面をなぞる指は、怠惰で、ちっとも楽しそうには見えなかった。

「……や、なんでもない」

 聞いたってどうしようもないだろうに。ただ、彼のことを知りたいという気持ちと、決定的なを知ってしまいたくないという気持ちが、わたしの中で取っ組み合いをしていた。


 勉強をしていても、ぼんやりしていても、氷は少しずつ溶けていく。

 咥えたストローでかき混ぜると、コロコロ鈍い音を立てた。




「大学入ったらなんだけど」

 ふいに、丹波くんは切り出した。

 いつもよりほんの少しだけ高い声。真面目な話をするときの、丹波くんの癖。

 小さな緊張が伝染して広がって、「うん」と返すわたしの声は情けないくらいに上擦る。

「個展、やらない?」

「……えと、写真の、だよね」

「そ。アトリエ借りてさ、都度テーマも決めて、定期的に。……あ、二人だったら個展とは言わないかな。グループ展? いや、二人展か」

 個展? え、なに。……二人で? 

 突然の提案に、頭が追いつかない。追いつかないけれど、わたしの口は勝手に彼を追いかける。

「うん、いいと思う」

「よかった」

 わたしの焦りに気づくことなく、丹波くんは、本当にほっとしたようにそう言った。

「豊沢さんの風景写真、好きなんだよね。うちの部は暗室ないからできなかったけど、フィルムでも撮ってほしいかな。よさが生きると思う。それからZINEも作りたいよね。……あーとにかくね、絶対もっと外に出したほうがいいよ」

 いつもは嘘にまみれた褒め言葉も、こればかりはどうにも嬉しくて、こそばゆい。だけど。

 ……ずるいな、とも思う。

 断れるわけないのだ。わたしが写真を好きなのは本心で、丹波くんがいてもいなくても高校では写真部に入っていた。でも今はそれだけじゃない。彼に、わたしが切り取った世界を見てほしいって、そういう気持ちがあるのも確かだから。

 わたしたちはきっと、別々の大学へ行くことになる。丹波くんがどこを受験するのかは知らないけれど、なんとなくそんな気がする。別に付き合っているわけでもないし、今みたいに過ごせなくなること自体はかまわない。

 それよりも、縋ろうとしているみたいで――そう思われることが嫌で避けていたこれからの話を、丹波くんがしてくれた。

 わたしの写真を、「好き」だと言ってくれた。その事実が、すごく。

「顔、変だよ?」

「うっ、うるさい!」

「嘘ウソ。綺麗だよ」

「……、うるさい」

 やっぱり彼は、嘘をつく。

 でも、そんなのは些細なことだ。

 まだこの人の背中を追いかけていてもいいのだと、近くにいてもいいのだと確信できたことが、わたしの全部をさらっていく。


 わたしはこれからも風景写真ばかりを撮り続けるのだろう。

 わたしはこれからも彼を「丹波くん」と呼び続けるのだろう。


 なるべく音を立てないように、ゆっくり、ゆっくりとストローで吸い上げた。飲みかけのコーヒーがある限り、こうしてここで勉強をしていられる。まだ、これからはある。

 いつの間にか、わたしの身体は冷気を感じなくなっていた。

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タンタンとホッチ ナナシマイ @nanashimai

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