ドッペルくんの鏡

都内某所、時間は22:00を回った頃。

俺は残業を終えてへとへとになっているが、今日は花の金曜日。

そう、もはや毎週恒例となっている、飲酒解禁日である。


パソコンを閉じてエレベーターを降りた俺は、一週間の疲れを忘れたかのように軽やかな足取りでビル街を抜け出し、行きつけの飲み屋に向かったのだが……


「休業中、だと……?」


なんということだ。この花の金曜日に飲み屋が休業……?

扉に貼られた紙を見ると「店主家族サービスのため、しばらく留守にします」の文字が。


まぁ、俺もこの店に通って5年になるから、店長の事情も少しは知っている。

子供と妻への家族サービスをしたい日だってあるだろう。

だが、いつもの飲み屋がいつものとおりに開いていないというのはなかなか堪えるものだ。


幸いここは飲み屋街。酒を飲むだけなら別の店はいくらでもある。

店を探してキョロキョロと周囲を見渡すと、きらびやかな照明と派手な装飾が我こそはと主張する中、まるでそれらの光から区切られたように真っ黒で真っ暗な洋風の店が目に入った。


「カフェ・ノワール、か」


一応ドアには「営業中」の看板がかかっているし、扉も手をかけた瞬間に軽く開いた……って、なんで俺はこんな怪しげな店に入ろうとしているんだ?


我に返ってすぐさま扉を閉じようとした、その時であった。


「いらっしゃいませ」


その優しいバリトンの言葉に引き込まれるように、俺は店の中に足を踏み入れる。

声をかけてきたのはシャツにベスト、蝶ネクタイを付けたいかにもバーのマスターといった風貌の老人であった。


彼はニコニコと朗らかな笑みを浮かべてこちらに手招きをしている。

ちなみに俺の他には客の姿はない……って、そりゃそうだ。こんな怪しい店が混み合っていたら逆に不気味だよ。


まぁ、ここまで来てしまったのだから、軽くコーヒーでも飲んで店を出よう。

そう腹を決めた俺は、スーツをハンガーに預け、マスターの待つカウンター席にどかっと座る。


「ブレンド一杯、お願いします」

「はい。600円ですが、よろしいですか?」


割と高いな。だが、あまりここに長居する気もない俺はその返事にうなずき、それを見たマスターは後ろのサイフォンでコーヒーをいれ始める。


その手付きは流石に堂に入ったもので、滑らかで無駄のない良い動きだった。

案外このカフェ、当たりだったかもしれないな。


そして数分後、「どうぞ」という声と同時に、俺の前にすぅっとコーヒーカップが差し出される。

……うん。見事な香りだ。飲む前からこれは美味しいコーヒーだとわかる。


「ノワールのブレンドは最初は少し苦目なのですが、途中から香りが開いてくるようにしてあります。最後の一滴をもったいないと思ってもらえれば幸いです」


事実、このコーヒーは口の中で苦さからフルーツのような芳醇な香りが鼻に抜ける、まさに逸品だ。

努めてゆっくりと口に入れていくが……気がついたときにはすでに飲み切っていた。


……って違うぞ?

俺は元々酒を飲みに来ていたはずだ。このカフェに入ったのは偶然というか気の迷いだ。

早々に店を出て、飲み屋を探さないと終電が……


「お客様、もしお時間があるようでしたら、一つ遊びをしませんか?」

「え、あ、はい」

「では、あちらの鏡をご覧ください」


だから時間はないのだが……マスターの目の動きにつられて、俺はカフェの奥にある大鏡に目を向けた。

いや、目を向けてしまった。


「鏡、ですか?」

「アレは「ドッペルくんの鏡」といういわくつきの鏡でして。

 中を覗いた人のマネをする妖精さんが入っているんですよ。

 ほら、鏡があなたを呼んでいますよ」


その鏡は普通の鏡ではなかった。

カフェの内装は映っているが、そこに居るはずの俺の姿は映っていない……

いや、映っているのだが、何故かその姿はインクをこぼしたように真っ黒に塗りつぶされていた。


「この妖精さんはあなたを知りたがっています。

 あなたが今日どんな一日を過ごしたかを、彼に教えてあげてください」


俺は席から立ち上がると、ゆっくりと鏡に向かって歩を進めた。

鏡にちょうど俺の全身が写ったとき、一瞬だけ、黒塗りになって表情が見えないはずの俺の顔が微笑んだように見えた。


「それでは、今日のあなたの話を妖精さんに教えてあげてください。

 妖精さんはその動きを真似て遊ぶのが好きなんですよ」


……今日の話、か。


「そうだな、今朝は電車が遅延しててさ。

 なんでも線路で若いのが動画取ってたんだそうだが、こっちにとっちゃ迷惑な話だよ。

 俺たちにとっちゃ、電車が5分遅れるだけでも一大事だってのに一時間の遅延だ」


そこまで言った瞬間、俺はぎょっと目を見開いた。

鏡の中にある風景は今朝俺が居た最寄り駅。

その駅で線路で喚く若者を見ている、黒塗りの『俺』の姿が映り込んでいたのだ。


「ま、マスター、これ……」

「続けてください」


笑みを浮かべながらも少し威圧感のあるマスターの声に、俺は再び鏡に向き合わざるを得なかった。


「結局電車はギュウギュウ詰めだし、会社には遅刻するしで散々だったんだ」


鏡の中の景色は満員電車から会社の部長席まで目まぐるしく変化する。

そこに映っている黒塗りの『俺』は妙に楽しそうだが……まぁ、良いだろう。


「あとは、昼過ぎだったんだが、部下が突然早退するって言い出しやがった。

 腹が痛いから病院に行くだなんて、根性が足らないんだよな、あいつ。

 俺が手伝いに入って仕事はなんとかなったが……疲れたな」


次に鏡に映るのは部下を叱責し、その後、仕事を手伝っている『俺』の姿だ。

しかし、俺はその時部下に苛ついていたはずなのに、この鏡の『俺』は優しげな、心配そうな表情をしている……ように見えなくもない。


「トドメに今日の残業指示だ。上長がうっかり忘れてた仕事があるって言い出して、それを俺たちに押し付けてきたんだ。何が「今夜は推しアイドルの出るライブがあるんだ」だよ。こっちはいい迷惑さ」


そこまで口にすると再び鏡の中の景色は変わる。

残業を片付けている俺の姿がそこに映ったわけだが……やはり実際の俺とはちょっと違う。

なんというか、無駄にやる気に満ち満ちているのだ。


「まぁ、ざっくりこんな感じかな」

「ありがとうございます。妖精さんもあなたの話を聞いてとても楽しそうですよ」


マスターの言葉を聞いて改めて鏡に向き合うと、黒塗りの『俺』がケタケタと嬉しそうに笑っている。

こっちの気も知らないで、と一瞬思ったが、俺はその姿から目が離せなかった。

そうして鏡を眺めていると、鏡の景色が再び最初の駅のシーンに変化する。


今度の『俺』の姿も黒塗りではあったが、目と口だけは楽しそうに笑っていた。


『これじゃあ遅刻確定だな。遅延届はもらうとして……今日の予定も少し組み直して部長にメールしとこう』


え? なにこれ。なんで鏡が俺の声で喋ってるんだ?

いや、よく考えたら最初からおかしかっただろう。

最初はただの鏡だったのに、まるでテレビのように鮮やかな絵が映るし、その景色は俺の頭の中を覗いたかのように正確だ。


「言い忘れていましたが、その妖精さんには喜怒哀楽の怒りと哀しみが存在しないのですよ。怒るときには一瞬怒って発散するだけで、哀しいときにはそれを受け入れることしかしません」


マスターの言葉を聞き流しつつ、俺は鏡の中の『俺』の動きに注目する。

頭を下げ、メール通りに今日の仕事の予定を少し組み替えたことを伝えた『俺』は部長にすぐに解放され、いそいそとパソコンを立ち上げ、仕事に入った。


仕事は修正したスケジュール通りに進んでいった。午前中でなんとかリカバリを終えた『俺』は、自分へのご褒美にいつもよりちょっと高いおにぎりを食べていた。


その光景を見た俺は直感した。

これは電車を遅延させた若者への怒りを引きずらなかった俺の姿だ、と。


鏡の中の景色はくるくると変わる。

次の景色は部下を叱責した後、その面倒を見ている『俺』の姿だ。

一度怒った後、親身になって部下に接する姿に彼の目尻には涙が浮かんでいる。

部下が帰ってしばらく後、スマホでメールを見ている『俺』の姿が映り込む。

どうやら部下は胃潰瘍を起こしていたらしく、その謝罪と仕事を手伝った『俺』への感謝が綴られていた。


次に映ったのは上長の仕事を引き受けて頑張る『俺』の姿。

最後に浮かんだのは、勤怠表で「みなし残業」ラインを超え、残業代が出たことを確認しガッツポーズを取る『俺』で……数秒後、鏡の景色は再び、最初の黒塗りの俺の姿に戻っていた。


「楽しめましたか? お客様」


楽しんだ、なんてものじゃない。こんな対応、今の俺にはできない。

ただ感情に左右されない動きとその結果を見せつけられただけじゃないか。


「それでは、次は未来のこと、できれば確実に起こるであろう予定を3つ話してあげてください。それを通して妖精さんはあなたにお礼を言いたがっていますから」


俺は明確に不機嫌な表情をマスターに向けるが……ニコニコとした微笑みを絶やさない。

「仕方がない」と諦めた俺は、明日の予定を思い出し、それを妖精さんに伝えることにした。


「それじゃあ、来週の仕事の話だ。

 俺は月曜日に社長も同席する大事な会議を控えているんだ。これを無事終えれば今日の仕事もだいぶ報われるよ。会議資料はすでに準備してあるし、質問にも十分に答えられるよう下準備もした」


今回の会議は新システム導入のための重要な会議だ。

絶対にミスをする訳にはいかないと入念な準備をしたから、多分うまくいくと思っている。


「あとは、そうだな……会議が終わったら部下と昼飯を食べに行く事になっている。

 たまにはプライベートのことも聞きたいしな。飯代は奢ってやる予定だ」


「最後は次の仕事のキックオフミーティングが夕方にあるんだ。他部署のメンバーとも色々話す機会になるだろうし、いい経験になると思っているよ」


これは正直どう展開するか全く読めない。新企画のターゲットが決まれば御の字、といったところだ。


「ありがとうございます。それでは、鏡を見ていてくださいね」


先程と同じく、鏡に映る景色が変わる。

が、俺の予想に反して、最初に映ったのは会議の「直前」の風景だった。


会議に出る『俺』と数人の部下は全員気合が入っている。資料も万全・プレゼンの台本もしっかり考えてある。確実に成功させるためにできることは全部やった。『きっと成功しますよ!』という部下の声を聞き、『俺』は力強く会議室への一歩を踏み出していた。


実際の会議が映ったのは次のことであった。これは俺の伝えた通りの姿が写っている。

自信満々ながらも冷静にプレゼンを進める『俺』は、時折笑みもこぼし、楽しそうである。


『いいんですか!?』

『今日はごちそうになります、先輩!』


二人の部下の声と一緒に、鏡に映る場面が切り替わる。これは会議を終えた直後の風景だろうか。


そう言えば、部下の笑顔を冷静に見たことが最近あっただろうか、と思いつつ彼らに対応する『俺』。

満足げな『俺』の様子から見て、会議は上手くまとまったのだろうが……実に爽やかに笑っているな、『俺』。


次の食事シーンも俺の伝えた通りだ。どうやら妖精さんは俺の言ったことよりも、その合間の出来事をより詳しく映しているような気がするが、気のせいだろうか?


そんな俺の予想通り、次のシーン、つまり食事とミーティングの間の描写は結構長めだった。


食事を終えた『俺』はオフィスに戻り、ミーティングのための資料を集めていた。企画の詳細がまるで決まっていない状況ではあるが、とにかく関係しそうな資料を片っ端から頭に入れているようだ。


そんなとき『俺』に新しい仕事が振られそうになったが、ここで先程一緒に食事した部下が『自分が引き受けます!』と代わってくれた。そう言えば食事のときにミーティングのことも話していたから、気を使ってくれたのだろう。お陰で『俺』はミーティングの準備に集中することができた。


そしてミーティングを終え、企画の方針が決まった。これまで接していなかった人とも挨拶できたので、結果は上々、というところだろう。


最後に映ったのはなんと自宅でゆったりと風呂に入っている『俺』の姿だった。


『今日も一日充実してたなぁ。部下の成長も見られたし、ミーティングもいい感じだったな』


そう言いながら風呂の時間を楽しんだ『俺』は、風呂を出て寝間着に着替えるとベッドに横になり、リラックスした気分で目を閉じたのであった。


再び鏡に映る景色と『俺』が最初の姿に戻る。


ここまでの景色を見て俺はぼんやりと考えていた。


正直次の月曜日に何が起こるかなんて正確にはわからないし、今見た景色が全部真実になるとは限らない。

会議のプレゼンの評価が悪かったり、部下が仕事を肩代わりしてくれる状況にならない可能性だってある。


だが、俺は不思議と今見た景色をきっと事実にしたいと思っていた。

そうすることで、「未来」というお礼をくれた妖精さんの思いに応えることができる、そう思ったからだ。


「マスター、ありがとう。俺はもう行くよ」


もはや飲み屋が閉まっていたことで生じた憂鬱な気持ちはすっかり晴れていた。

正直、妖精さんにもう少し未来を話してみたいという気持ちはある。

……だが、多分それに従ってはいけない。


この時間を終えることをもったいないと思う気持ちはあるが、もう俺は、俺が作り上げる俺の日常に帰らなくてはならない。


相変わらずニコニコ微笑むマスターに600円を支払うと、俺はカフェ・ノワールを出た。


おそらく俺がこのカフェに来ることはもうないだろう。

だが、ここで経験したことを俺はずっと忘れない。忘れてはいけないと思うのだった。


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単発物語集 @naoyuki_sight

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