こわれものを抱きしめて
惣山沙樹
こわれものを抱きしめて
巨大な隕石が地球に墜落すると発表されたのは一年前のことだ。それからすぐ、私は仕事を辞めた。他の多くの母親たちもそうしたようだった。我が子と一秒でも長く一緒に居るために。
「ママ、こっちきてー」
三歳になったばかりの
「はぁい、なになに?」
岳人は同じ形のブロックを高く高く積んでいた。百センチに満たない彼の身長より少し低いくらいの高さだ。
「わぁっ、上手にできたね」
「がくと、じょうず?」
「うん、上手」
私は岳人の柔らかで細い髪を撫でた。ふんわりとシャンプーの香りが漂った。最近汗の臭いがキツくなってきたから、メーカーを変えたのだ。
「パパ、まだー?」
「あと一時間ってとこかな。晩ごはんは、ハンバーグだよ」
「がくとね、ハンバーグ好きなの! それと、パパとママも好きなの!」
「そっかぁ、ママ嬉しいなぁ」
運命の日は明後日にまで迫っていた。夫は仕事をしていないと落ち着かないからと、今日も出勤だ。彼のする仕事なんて、世界が終われば何の意味も成さないのに。
富裕層の中には、個人でシェルターを作ってそこに引きこもろうとしている人も居ると聞く。しかし、私たちのような庶民は、賃貸マンションにそのまま居るしか無い。でも、それでいいのだ。最後は家族みんなで、思い出の詰まったこの部屋に居よう。
「ママ、おしっこ出た!」
「あー! もう出ちゃった!?」
岳人はトイレトレーニング中だった。専用の厚手のパンツはもうおしっこでぐしょぐしょになってしまっていた。彼が一人で排泄ができるのを世界は待ってくれなかった。誰のせいでもない。誰も責めることができない。だからこそ、私は口惜しかった。
「お着替えしようね」
「うん!」
私は岳人のパンツとズボンを一旦バケツに放り込み、新しい服を着せ、洗面所で汚れものを洗った。テレビはアマゾンプライムで見られる幼児用のアニメしか流していない。岳人はテレビの前で踊っていた。ニュースなんかつけたところで、どうせ湿っぽいテーマしかやっていないだろう。だから、これで良かった。私は情報を意図的に遮断していた。
すると、スマホの着信が鳴った。夫からだった。
「
「今日? 何が?」
「隕石だよ。だから、今すぐ帰る」
ああ、そうだったのか。あたしは膝から崩れ落ちた。まだもう少し猶予があると思ったのに。ブロックと積み木でぐちゃぐちゃになったリビングで、あたしは静かに涙を流していた。
「ママ、いたいの?」
「ううん、違うよ。悲しいの」
私は岳人をぎゅっと抱きしめた。
「ママ、いたいよ」
「ごめんね、ごめんね」
私はただ、ひたすらに、「ごめんね」を繰り返していた。岳人には、その意味が分からないだろう。いきなり母親の様子が変わってさぞ不安に違いない。しかし、彼は言った。
「ママ、いいこいいこねー」
それは、岳人が何か良いことをする度に私が言ってきた言葉だった。横断歩道でちゃんと立ち止まれたとき。おもちゃのお片付けを自分でできたとき。私はとうとう、わっと声を上げて泣き出してしまった。私の涙が、岳人のトレーナーを濡らした。
「美也子」
「……
「あっ、パパ―! ママにね、いいこいいこしてたの!」
岳人は私の腕をするりと抜け、敏行の方に寄って行った。
「きょうはね、ハンバーグだよ! がくとね、ハンバーグ好きなの!」
「そうかそうか。じゃあ、皆で食べよう」
私はニットの袖で涙をぬぐい、キッチンへ立った。仕込みはもう終えている。あとは両面を焼くだけだ。敏行はスーツから着替えながら、岳人の相手をしてくれていた。いつもの風景。いつもの日常。これが、もう二度とは手に入らないのだ。
「はい、できたよ」
ハンバーグが乗った皿を、それぞれの席へ出していった。岳人は自分からエプロンをつけて幼児用の椅子に座り、大好物が食べられるのを今か今かと待っていた。
「ママのハンバーグは美味しいなあ! なあ、岳人?」
「うん、パパ! おいしいねぇ」
岳人はまだスプーンの使い方も上手くない。左手で直接ハンバーグに触れ、右手に持ったスプーンに乗せようとする。
「岳人。お手て使わないの」
「まあ、いいじゃないか美也子」
敏行は食事の作法にはうるさい人だった。自分が箸の持ち方で苦労した分、子供には最初からきちんと教えたいのだと言っていたことがあった。実際は、練習箸など買うこともなく、こうして岳人を甘やかしていた。
「そうだね……」
私は岳人がしたいようにさせることにした。彼の左手はハンバーグの油でベトベトになったが、それもウェットティッシュ代わりにしているおしりふきで拭けば済む話。私は目の前の食事に集中することにした。これが、最後の夕食なのだから。
「あっ、ちょっと味、濃かったかな?」
「そんなことないよ、美也子。俺はこのくらいで丁度いい」
「そっか」
またいつか、ハンバーグを作る時があれば、今の配分をメモしていたことだろう。しかし、その「いつか」は来ない。永遠に来ない。私は夢に見ていた。大きくなって、生意気になって、背も伸びた岳人に夕食を作るときのことを。それは、本当に夢のままになってしまった。
「ごちそうさま。いつもありがとうな、美也子」
「敏行こそ、いつも美味しそうに食べてくれてありがとう」
止まっていたはずの涙がまた、流れ出した。あたしは敏行の胸にすがりついた。
「ねえ、パパ、ママ、好きよ」
岳人がきゅっと私の右手を掴んでくれた。ああ、大丈夫だ。私にはこの二人が居る。だから、もう何もこわくない。
「うん。ママも、パパと岳人のこと、好きよ」
「パパも、ママと岳人のことが好きだよ」
私と敏行は一旦身体を離し、岳人の入る隙間を作った。
こわれものを抱きしめて 惣山沙樹 @saki-souyama
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