ト書きの世界で

羽衣麻琴

ト書きの世界で

 セリフがなくても会話ができる人、というのがいるらしい。

 そんな人っているんだろうか。私にはわからない。

 私が声を出すまでには、いくつもの工程がある。まずは感情を決め、次にセリフを決める。それから体の大まかな動きを決め、声のトーンや表情、細かな動作もすべて決める。その工程がなければ、私は一言だって声を発することができない。

 たとえば、「おはよう」というセリフを決める。私はそれを実際に口にするまでに、「朝は体調が優れないけれど友達に会えて嬉しい」という感情の設定を作り、「教室の仲良しグループの前まで気だるそうに歩く」という大まかな動作を決め、それから細かい動き、口の端だけを緩めた笑い方だとか、普段より少し低めの声だとか、語尾に親しみが滲んでみえる喋り方だとか、そういうことをいちいち決めて準備しておく。そこまでの工程があってようやく、私は「クラスの友達に朝の挨拶をする」という行動を取ることができる。それがなければ、私は挨拶すらできない。

「おはよぉー」

 口にした瞬間に、ああ違ったな、と思うこともしばしばある。設定と演技力はまた別の問題だ。今のは音程が狂ったし、語尾が少し間延びした。

「はよ。なにそのテンション」

「おはよ。どした? 体調悪い?」

「貧血とか? 飛鳥って生理まだじゃなかった?」

 大声で生理のことを口にしたのは、仲良しグループのうちのひとりの、山内華だった。

 華は顔がかわいい。背も高くて、全体的になんだかしゅっとしていて、クラスの中でもやけに垢抜けて見える子だ。美人なのに目立つグループに属すことなく、私たちのような小さなグループに留まっている、少し変わった子でもある。

「早く来ちゃったの?」

 華が首を傾げると、長い髪がさらりと揺れる。きれいというか、華やかだと思う。華には「華やか」という表現がよく似合う。「名は体を表す」という言葉があるけれど、華ほどそれを体現している人を見たことがない。とっさに、「今日も華やかだね」という陳腐なセリフが頭に浮かぶが、話の流れには合わない。だから口に出すことはやめて、代わりに「貧血ではない」という旨のセリフを考える。

 いきなり「違うよ」言うのは間の取り方が悪いだろうか。その前に何か、「そうだなあ」とか「うーん」とか、繋ぎのセリフがあった方がいいように思う。何がいいだろう。華が近頃よく言っているのは「んー」だ。それを真似しよう。「んー」のあとで、生理ではないことを説明し、それから体調不良の説明を入れる。理由は、そう、「低血圧だから」でどうだろう。低血圧。選択授業で一緒だった別のクラスの子が後ろの席で話をしていて、使いやすそうだなと思った言葉だった。

 考えたセリフを組み合わせると、こうなる。

 んー、違うんだけど、低血圧だからさあ。

 悪くない。声に出す。

「んー、違うんだけど、低血圧だからさあ」

 今のは結構良かったと思う。声の調子も、セリフと上手く調和が取れていた気がする。

 私のセリフに対して、華は「ああ」と頷く。

「そういや前に言ってたな。大丈夫かよ」

 華の喋り方は、その華やかな外見に反して男の子のように荒い。けれど以前、そういうセリフを伝えてみたら、「『なのに』とか『みたい』とかねえから。誰の基準で喋ってんの? もっと自分で考えたほうがいいよ」と鋭い目つきで返されたことがある。ああこれは地雷だなと思ったから、その時は、「親の影響かも」と素直に認めるセリフを選んだ上で、「でも」と後ろに付け加えた。その二言を口にしている間に、またセリフを考える。

 華の顔は。

「華の顔は」

 好き……ああ、違う。気に入ってる?

 私好み、だよ。これだ。言い方を少し柔らかくしよう。私は、好き、だよ。続く言葉としてはてにをはがおかしいから、位置を逆にしてみる。

「好きだよ、私は」

 口に出す時に、私は、を強調することも忘れなかった。主語を明確にして、自分の言葉に責任を持つ喋り方。華の好きな喋り方だ。「みんな」とか「なんか」とかは間違っても言ってはいけない。華曰く「責任の所在を曖昧にするいい加減な言葉」だからだ。

「……そう?」

 返事をした華は、案の定嬉しそうだった。私はもうひとつセリフを追加することに決める。華を喜ばせるのに効果的な単語だ。「かっこいい」。

 そうだよ、だって、かっこいい、から。

「そうだよ。だってかっこいいから」

 ここで小休止。私の頭の中に浮かぶセリフたちは、文字でもあるし、音やリズムでもある。

 華は「そうかな?」と言いながらふっと笑った。喜しいときや照れたときの笑い方だ。そして聞こえてくる、予想通りのセリフ。

「ありがと!」

 華は褒め言葉も素直に受け取る。そういう姿勢が「正しい」という確固たる信念を持っている。信念よりも目の前の友人の機嫌が重要な私には、そういうある種の「頑なさ」がとても尊く思えることがある。私にはないものだからだ。

 華が微笑んでいる間に、私はまた新しいセリフを考えている。次は──

「おーい」

 と、目の前で何かが揺れた。白い。

 手だ。華の手。

「どうしたのぼーっとして。大丈夫?」

 はっとして、慌ててセリフを考える。

 なんでもないよ。

「なんでもないよ」

 まただ。また、目の前の出来事とは関係のないところに思考が飛んでいた。

 これは私の、昔からの悪癖だった。過去の出来事や会話を、ふとした時に本でも読み返すかのように思い出して、うっかりそこに浸ってしまう。そうしている間は目の前が見えなくなるし、物音も聞こえなくなる。今がどういう場面だったかも忘れて、過去の記憶や空想の世界にひとりで旅立ってしまう。

 だからよく怒られる。「何ぼーっとしてるの」とか「話聞いてないでしょ」とか。そう言われる度に申し訳なく思っているが、いまだに改善はできていない。特にここ数年は、悪化している気すらする。

 みんなはどうしているんだろうと、私は時々真剣に悩む。地頭って言うんだろうか、テストの点数とかには関係のない、そういう頭の良さが、私にはたぶん足りていない。だから目の前のことに集中できないし、色んなところに思考が飛んで、収拾がつかなくなる。どうしてこうなってしまうのか、私にもわからない。なんでこんなに難しいんだろう。私が特別バカだからできないのだろうか。それともみんな、例の「セリフがなくても会話ができる人」なのだろうか。みんな? 全員? そんなことってあるんだろうか。

 がらがらがら、と教室の引き戸が開く。

「ホームルーム始めるぞー」

 気だるそうな声と共に担任の太田先生が教室に入ってきて、同時にチャイムが鳴り響いた。華も私も席に着く。

 その時はまだ、私は今日という日を平穏に終えられると思っていた。毎日同じではないけれど似たような、日記をつける時に「いつもと同じだった」と雑にまとめてしまってもなんとなく許されるような、そういう一日に、今日もなるのだと。

 だけど違った。

 

 告白、なるものをされたのは、その日の放課後のことだった。その予兆として、昼休みにいつもと違うことが起きた。

 廊下で後ろから「足立さん」と呼び止められた時、私はまず、何かを落としたのかと思った。

 振り返ると知らない男子生徒が立っていた。その手には何もなく、だから私は「落としものではないらしい」と結論づけて、この人は誰だろうかと考えた。隣には華がいて、彼女も足を止めて怪訝そうな顔をしていた。

「ちょっと話があって」と男子生徒は言った。反応できずに黙っていたら、「LINEわかんなくて、や、他の人に聞けばわかるんだけど、勝手にそういうのどうかと思って」とセリフは続いた。

 私は彼が誰なのかを必死に考えた。クラスメイトではないし、顔も仕草も全く記憶に残っていない。選択授業で同じクラスの人だっただろうか。それとも委員会? 部活には入っていないから、その関係ではないはずだ。そもそも同じ学年なのだろうか、という疑問は、上履きに目を落としたことで解消された。緑色は、私と同じ二年生の学年カラーだ。同じ学年。でもどこで、と再び頭を悩ませる。塾には行っていないから、学校外ではない気がする。アルバイト先も脳裏をよぎったが、学校から離れた場所を選んだし、同僚はおばさんばかりだ。

 私は何の予測もできないまま、それでも急いで返答のセリフを考えた。どちら様ですか、だと知り合いだった時にあまりにも失礼だから、えっと、と誤魔化すのがいいだろうか。

 私の思考がまとまらないうちに、彼のセリフは続いていった。

「あ、俺、俺三組の山口です。あの、最近よく図書室に行ってて」

 なるほど図書室か、と私は納得する。委員会だが、委員じゃなくて利用者の方だ。

「それで、ちょっと話がしたくて」と山口くんは畳み掛けるように言った。セリフにはよどみがなく、事前に台本を用意していたのかもしれないな、と考える。

「だからあの、突然で悪いんだけど、LINE教えてくれないかな。それか、今日の放課後に音楽室の横の空き教室に来てくれるか、どっちか、選んで欲しいんだけど」

 唐突な二択に、私の頭はフリーズした。返事のセリフはすぐには浮かばなかったが、とりあえず何か言うべきだと思い、えっと、という短いセリフで間を持たせることにする。

「えっと」

 しかしその程度の時間稼ぎでは、次のセリフは決められなかった。私は俯く。次のセリフが出てこなくて、焦る。

「じゃあ空き教室にして」

 響いた声に顔を上げると、隣の華が山口くんをまっすぐ見ていた。

「私は隣の音楽室で待ってるからさ」

「何それ。俺は足立さんと話してるんだけど」

 山口くんのその言い方は、ちょっと非難がましいようにも聞こえた。何か言った方が良いのは分かったが、私は次々に起こる状況の変化について行けず、何も発言できずにいた。

「足立はビビりだからさ」と、華は続ける。

「半分付き添い。別にいいだろ? 大丈夫、盗み聞きはしない。扉閉めてたら聞こえないと思うし。まあ、あんまり長く戻ってこなかったら声かけに行くけどな」

 堂々とした華の言い方に、山口くんは何も言わずに目を細めた。それがどういう感情を表しているのか、私にはわからない。観察したことのない人だから、わからなくて怖い。

「いいよな?」

 有無を言わさぬ華の調子に、山口くんは沈黙のあと、「じゃあそれでいいよ」と言った。それから視線を私に向けて「足立さんもいい?」と尋ねてきた。

 私はとにかく、早く終わらせたいと思っていた。思考の整理をする時間がないことが苦痛だった。苦痛は早く終わらせたい。

 だから返事は、うん、にした。その方が早く終わるからだ。

 うん、それでいいよ。

「うん、それでいいよ」

「ありがとう。じゃあ、今日の放課後、空き教室で」

 山口くんが立ち去ったあと、華は「こういうのってほんとにあるんだな。少女漫画かよ」と言って笑った。以前華は少女漫画はあまり好きじゃないから読まないと言っていたが、「みたい」がわかる程度には読むのかもしれない。聞き出さなければならないな、と考える。聞き出して、今後のセリフの参考にしなければ。


 放課後になって、華と二人で空き教室に向かった。

「じゃあ私は音楽室にいるから」と言って華が立ち去ったあと、私は遠慮がちに教室の戸を引いた。がらがらがら、という音がやけに大きく響いて、ほんの少し驚いた。

 山口くんは窓際の机に腰掛けて、一人きりで待っていた。他に人はいない。イタズラの可能性も考えていたのだが、どうやらそういうものではないらしかった。

 振り返った山口くんは、「来てくれてありがとう」と言った。

「ううん」と、私は決めていたセリフを呟いて引き戸を閉める。

「それで、話って何?」

 続けてセリフを口にしながら、私は窓の方へと歩いていく。展開には予想がついていたから、動作は事前に考えておいた。

「うん、あのさ」

 山口くんは息を大きく吸ってから、真っ直ぐに私を見た。

「もう直球で言うけど、図書室で足立さんのことよく見かけて、それでいいなって思ってて。だからあの、付き合って欲しいんだけど。友達からでいいから」

 やけに早口に思えたが、あえて指摘はしなかった。セリフを作ることと読むことが別の問題だということを、私は知っている。

 何にせよ想定内のセリフで良かった。私は安堵しながら、用意していたセリフを申し訳なさそうに読み上げた。

「ごめんなさい。私、好きな人がいるから」

 嘘だった。でも、一番使いやすいと思って決めたセリフだ。諦めがつきやすくて、誰も悪者にならない理由。五限の授業中に、ずっと考えていたものだった。

「……あのさ、足立さん」

 返事は「そうなんだ」だと思っていた。あるいは「それってだれ?」とか。相手はバイト先の先輩ということにして大まかな設定を決めたから、何か訊かれても困らないはずだった。

 しかし山口くんは、

「それ本当?」

 と言った。

 想定外の返事だった。

「えっと」

 と、とりあえず繋ぎのセリフを口に出す。嘘です、と馬鹿正直に言うのは良くないだろうから、全く別の、新しいセリフが必要だ。急いで考えなければならない。

「足立さんってさ」

 私が次のセリフを口にする前に、山口くんは言った。

「いつも何か考えてから喋るよね。遠慮してるっていうか、正解を探してるっていうか……なんか、用意されたセリフを読んでるって感じがする。嘘っぽいんだよね。気づいたの俺だけだと思うけど……俺も中学の時そうだったから、わかるし、なんか気になるんだよね」

「え」と、私の口から驚愕の声が漏れた。

 セリフ以外の声を発したのは久しぶりだった。

 そうなのか、と思う。彼も「そうだった」のなら、私たちは仲間だ。

 仲間。そう思った瞬間、私の胸にじわりと歓喜が広がった。今まで、「セリフについての話をする人」を見たことがなかった。だから近頃はもう、もしかしたらこの世界のほとんどの人があの、「セリフがなくても会話ができる人」なんじゃないかと思い初めていたところだった。

「経験者として言わせてもらうけど、自分の意見を言うのって、そんなに難しいことじゃないよ」

 山口くんは笑った。その笑顔を見て、私はなんだか安堵していた。

「自分が思ったことを言えばいいだけだよ」と、彼は続けた。

「怖がらずに、一瞬だけ勇気を出して言えばいいだけ。それだけ」

 私は返事として、彼のセリフを反芻することを選んだ。

「『思ったことを言えばいいだけ』?」

 そうだよ、と山口くんは頷く。

「他人の意見は関係なく、自分が好きか嫌いかで選べばいいだけ。この返事も、俺がどういう反応するとか考えないで、足立さんがどう思ったかを言えばいいだけ。イエスかノーの二択じゃなくてもいいし、まとまってなくても、長くなってもいいから。わからないことがあったら、俺も一緒に考えるから」

 そうか、と思った。そうか、そのまま言ってしまうという手があったのか。台本にする前の言葉──素案、って言うんだろうか、そういう思考の丸ごとを。まとまっていなくても長くなってもいいなら、私にもできるかもしれない。

 私はもしかして、これから台本がなくても話せるようになるのかもしれない。

 胸の奥に、小さく光が灯る気がした。目の前の彼──山口くんが、そのきっかけを、私にくれるのかもしれない。これは私の人生の、転機の瞬間なのかもしれない。

 私は急いで了承のセリフを考えた。

 わかった。じゃあ──。

「わかった。じゃあ、思ったことを全部言うね。そのまま言うから、問題があったら指摘して。その場で止めても良いし、後で言ってくれてもいいよ。どこが間違ってたか、とか」

「間違いとかないから、とりあえず全部喋ってよ」

 山口くんは苦笑する。私は安心して、思ったことをそのまま喋り出した。考えていることをそのまま口にする──なんて、「慣れていなくてやっぱり難しい。口調はどうしたらいいんだろう。声の高さは? 読む速さは? 表情はどうするのが適切だろうか。ああ、違う、また考えてしまった。セリフや仕草じゃなくて、私が考えるべきは『私の気持ち』だ。気持ち。どう思ったか」

「え?」

「忙しい、と思った。忙しい、考えなくちゃ。古典の授業中、私はそのことばかりを考えていた。初めての状況だったから、圧倒的に資料が不足していた。乏しい情報の中から、先週観たドラマのセリフとか、華たちの会話とか、たまたま聞こえてきたクラスメイトの雑談とか、そういうものの記憶を必死に手繰り寄せて考えた。そうしている時にふと、和歌の説明を読む先生の声が聞こえてきて、それが恋愛の話だったから、こんなところにも資料が、と思ってしばらくは古典の教科書を真剣に読んだ。でも状況が違い過ぎて参考にはならなそうだった。千年以上前の人々は、LINEか対面かの二択を迫られることなどないし、空き教室に呼び出されることもない。だから──ああ、また話が逸れてしまった。軸がすぐに行方不明になるのも私の悪癖だ」

「ちょっ……それ何? 足立さん、怖いんだけど」

「考えるべきは、そう、返事だ。告白の返事。どう思ったか、それが同時に返事にもなる。どう、思ったか。どうだろう。私はどう思っているんだろう。わからない。華みたいに好き嫌いがはっきりしていたら、すぐに答えを出せたんだろうか。そういえば以前華が「私、迷うことってあんまりないんだよね」と言っていた。私はその言葉に、すごいね、と返した。

「すごいね」

 それから続けて自分の状況を、正確には直前に、自販機で何を買うべきか考えていた時の状況を表すセリフを考えた。

 私は、迷っている、迷うよ。違う、普段のことも含めて──継続や繰り返し。ばかり、だよ。

 私は迷ってばかりだよ。

 でもあまり自虐的な響きだと華は顔を顰める。だから明るく、気にしていないトーンで、笑いながら口にする。

「私は迷ってばかりだよ」」

「何? 怖いって」

「怖い? あれ、なんだっけ。ああ山口くんだ、華じゃない。また回想していた。ここは空き教室で、私は今、セリフを考えなくてはいけなくて、いやセリフではなく返事を、『どう思ったか』を、そのまま口に──」

「足立さん!」

 叫ぶような声が聞こえて、私はぱっと口を閉じた。そうしながら、今の私ってロボットみたいだなあと思った。小さい頃に、家のテレビで見た昔のSF映画が浮かぶ。三部作の壮大な物語に出てきた、金色のロボット。人型であることをまるで無視した派手な金色の、びかびかした、動きがいびつなロボット。あのロボットは喋り方も動き方も変なのに、何故か周りと馴染んでいるように見えた。昔の映画というのは全てが変に見えるから、気にならなかっただけなのかもしれないけれど。

「ごめん……」

 小さな声が聞こえて、私は目の前に意識を戻した。

 ごめん、と目の前の彼はもう一度、独り言のように言った。

「なんか、ちょっと……思ってたのと違った」

 その声は震えていた。震える声を聞いたのは初めてで感心する。私もいつかこんなふうに、声を震わせるべき場面が出てくるのかもしれない。適切なシーンで使うために、家に帰ったらこの状況を分析しなければならない。「変」にならないよう、発声練習も必要になるのかもしれない。

 忙しいな、と思う。

「ごめん、俺、帰るね……」

 か細い声で言った山口くんの、小さくて黒い瞳が、ほんの少しだけ潤んでいた。それは傷ついているようにも、怯えているようにも見える瞳だった。

 ああ私は間違ったのだ、とようやく気付く。

「さっきの告白も、忘れて。……ごめん」

 私が間違ったせいで、彼は傷ついている。または怯えている。ならば私がかけるべき言葉はきっと「ごめんなさい」だ。それがきっと「正しい」セリフだ。

「ご……」

 口を開いたものの、セリフは出て来なかった。声を発する途中で、関係性が不明だ、ということに気づいてしまったのだ。相手との関係性はセリフの内容に大きく影響する。いまさらだとも思うが、気づいてしまったからには考え直さなければならない。

 彼と私の関係はなんだろうと考える。友人ではない。でも同い年で、同じ学校。同級生。告白した側とされた側。そして今は多分、被害者と加害者。

 この場合は何と言うのが正しいのだろう。「ごめんなさい」「ごめんね」「ごめん」。候補はこのあたりだが、果たしてどれが適切だろう。山口くんとは一瞬親しくなった気がしたが、ついさっき離れたようにも思う。どうだろう。線引きがわからない。けれどあまりもたもたもしていられない。

「ごめんなさい」

 ようやく口に出した時には、山口くんはもう背を向けて歩き出していた。私より二十センチは高いであろう背が、なんだかしょんぼり丸まっている。

 がらがらがら、と引き戸が開いた。そして次のセリフを考える間もなく、また、がらがらがら、と音を立てて閉まってしまった。

「……」

 行ってしまった、とぼんやり思う。

 こういうことは案外頻繁に起こる。台本を作る時間とそれを口に出す時間はできるだけ短くしているが、どうしてもズレが出てしまう。特に初対面の相手だと、相手の好みや傾向、自分との関係性が不明確な分、セリフの作成にどうしても時間がかかる。そのタイムロスの間に、動きが早い人は退場してしまう。舞台を降りて去ってしまう。

 山口くんの背中に、私の放った「ごめん」は届いたのだろうか。わからない。わからないけれど、私はいつまでもその場に立ち尽くしているわけにはいかない。

 次に私が取るべき行動は、「扉を開けて教室を出て、隣の音楽室へ向かう」だ。向かう時はたぶん、少し焦った様子が望ましい。前にドラマでそんなシーンを見たことがある。

 私は歩き出す。教室の戸の前で止まる。引き戸の取っ手に手をかけて引く。がらがらがら、と音がして戸が開く。

 廊下に出るために右足を動かそうとして、私はふと、顔の表情を考えていなかったことに気づいた。今の私はたぶん無表情になってしまっている。

 けれど、とまた考える。けれどこれはこれで、緊張しているという設定が通る気もする。少し思案して、このままで行こうと決める。私の台本はこうして行動から派生し、妥協を繰り返しながら無理やり紡がれていく。

 隣の音楽室で、華が私を待っている。私は華に会うまでに、あらゆることを決めておかなければならない。今の私に設定されるべき感情は、「告白されたという高揚感と、フってしまった罪悪感、早く友達に話したいという焦燥感」だ、たぶん。恋愛関連の資料が不足していることがネックだ。もっと勉強しなくてはならない。

 音楽室に入ったら、華はたぶん、「どうだった?」みたいなことを聞いてくるだろう。その時私は何と返すのが「正しい」んだろうか。どんなセリフで、どんな感情で、どんな仕草で話すのが「真っ当」なんだろうか。

 難しいな、と心の中でため息をつく。難しい。さっき山口くんは気にしなくていいと言っていたけれど、あの様子を見ると、やはりある程度は気にした方がいいんだろう。つまり気にしつつ、気にしていない風の行動を取らなくてはならないということだ。余計に難解になってしまった。また考えることが増える。テストも近いのに、困る。

「足立」

 不意に呼ばれて顔を上げた。

 音楽室の中にいるはずだった華が、扉の前に立って小さく手を振っている。

「ごめん、やっぱなんか気になっちゃってさ」

 華は笑う。華やかな笑顔だと思う。

「どうだった? ってか、大丈夫? さっき山口が走ってったの見えたけど」

 私は何と応えるべきだろう。考える。「えっと」と呟いて時間を稼ぐ。

 私は生活の隅々まで、台本を作って生きている。なのに現実はいつも、私の台本通りには進まない。誰もが別々の台本を持っていて、私に別々の役を求める。この世界はいつだって、何もかもが噛み合っていない。だから私は、私の世界に齟齬が起きるたびに、私自身の台本を書き換えていかなければならないのだ。

「断ったって感じ……だよね?」

 華が笑っている。華やかな、だけど困ったような笑顔で。

 私はセリフを考えなくてはならない。

 うん、それがね。

「うん、それがね──」

 忙しいな、と思う。

 ああ、忙しい。

 考えなくちゃ。

 次のセリフを考えなくちゃ。


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