やみくもな不安

 休日のブランチは、お互い自由に過ごそうと、叔母のユキミと前もって決めていた。

 だから、目覚ましのアラームもセットしていなかった。


 パッと布団から起き上がって時計を見ると、時刻は8時をまわったばかりだった。

 ひっきりなしの小鳥のおしゃべりプラス軽い空腹を、怠惰たいだな眠りと天秤てんびんにかければ、後者が勝っていたのだが。

 廊下ごしに居間のほうから、ユキミのハデな笑い声が聞こえてきたから、ほとんど反射的な警戒心から、眠気がとんでしまった。

 どうやら、誰かと会話をしている様子なのだ。


 朝から客が訪ねてくるなんて。ユキミから何も知らされていない。

 少しイラつきながら、ひよりは、窓ぎわにヒザでにじり寄ると、閉じていた障子戸しょうじどを10センチほど開いた。

 スキマから窓ガラスごしに外を眺めると、裏庭が一望できる。

 カーポートのアルミ屋根の下には、ユキミの愛車であるパステルグリーンの軽自動車の隣に、濃紺のステーションワゴンが1台、停車していた。初夏の朝日を浴びて、鏡のように車体を輝かせている。


 ――誰だろう?

 ひよりは、不安にかられながら、障子戸しょうじどをひっそり閉じた。


 もとよりヒトミシリだから、不意な来客は苦手だ。

 まして、なかば家出同然に東京を飛び出し、叔母をひっそり頼ってきた身だ。


 叔母のユキミは、

「あたしだって、ダテに役場の事務方じむかたを何年もやってるわけじゃないんだよ。万事ばんじうまく手続きしたげるから。あんたは余計な心配しないでさ。マジメにこっちの高校かよって、どこでも好きな大学を目指しな」

 と、豪胆ごうたんに笑ってくれていたが。

 まがりなりにも親権しんけんたてに、母親がひよりとの対面を強く要求してきたら、さすがにユキミも無碍むげに拒絶はできないのではなかろうか。そんな懸念けねんが、頭の片すみに付きまとって離れない。


 たとえば母が雇った弁護士とかが、ここまで押しかけてきたのだとしたら? そんな憶測おくそくがひらめいたとたん、いてもたってもいられない。

 ザワついた胸をおさえながら、洗面所に急いだ。


 やがて、そっと居間に足を踏み入れると、縁側えんがわにいたユキミが目ざとく後ろを振り返った。

「あれ? おはよう、ひより。もう着替えてんだ。休みなのに、感心感心」

 そう言う当人は、パジャマがわりの、くたびれたライブTシャツと高校時代のジャージのズボンのままで。飴色あめいろ籐椅子とういすに深々と腰かけている。年季ねんきのはいった古いリクライニングチェアーだ。


 ユキミの笑顔が、ひよりをホッとさせた。縁側えんがわの外にいるらしい来客は、少なくとも、ひよりを母親のもとに引き戻そうとする勢力とは無関係のようだ。


 ひよりは、アイマイに「うん」とか「まあ」とか生返事なまへんじした。そして、ポロシャツのスソを所在しょざいなく両手でいじくりまわしつつ、開け放たれた掃き出し窓の向こうをチラッと眺める。


 この家は平屋なのに。幼い頃に住んでいた東京の郊外の二階建てとは比べ物にならないほど、屋内も庭も広々としている。

 縁側えんがわからは、植栽しょくさいあふれる和風づくりの庭園が一望できた。


 庭の中央には、高さ4メートルほどの黒松くろまつの木が堂々とそびえている。その絶妙な歪曲ラインを描くゴツゴツした太い幹に、今朝は、長いハシゴが立てかけてある。

 ハシゴのてっぺん近くには、モスグリーンのつなぎの作業服を着た男が、危なげもない様子で立っていた。両手に持った大きなハサミで、松の枝葉を迷いなくザクザクと刈り込みながら。いかにも植木職人らしい道具あつらえとリズミカルな手さばきだ。


 思いがけず、ひよりの胸は、さっきよりも激しくザワつきだした。

 黒松くろまつ剪定せんていをしている男の風体ふうていと背格好に見覚えがある。昨日、霊園れいえんの駐車場であった男と同一人物のようなのだ。


「オヤジさんが大切に世話してた松だろうが。もう少しマメに手入れしてやらないと、バチが当たるぞ」

 男は作業の手を止めずに言ったが、チラッと見えたその横顔は、ひよりの想像通りのものだった。


 低いのにヤケに良く通る声。すっきりした短い黒髪に、日に焼けたシャープなほお精悍せいかんなアゴ。

 間違いない。昨日の男だ。


「だって、みのるくん、最近いっつも忙しそうにしてるから。なかなか頼みづらいのよ、こっちも。だからって、うちが他の植木屋さんを呼んだら、絶対ヤキモチやいてたでしょ、みのるくん?」

 ユキミが、庭に向かって、わざとらしくムクれたように言った。


「ったく! ホント昔っから。相変わらずだな、オマエは……」

 みのるは、チッと舌打ちしたものの、こらえきれない笑いで語尾をにごしていた。


 ユキミも、遠慮なく顔をくしゃくしゃにして笑い声をたてた。

 それから、思い出したように、ひよりをかえりみると、

「あ、ねえ、ひより! うちの庭の木の面倒をずっと見てもらってるみのるくん、……あたしの高校んときの同級生なんだけどね。みのるくんがSNSでアップしてる盆栽ぼんさいの写真、アメリカとかヨーロッパなんかで、めっちゃバズってんのよ。信じられる? 界隈かいわいじゃ国際的な有名人なんだってよ、こう見えて意外と……」


 ひといきに情報をつめこもうとするユキミのおしゃべりの途中で、ひよりは、くるりと2人に背中を向けた。

 作業の手を止めてひよりを直視したみのるの目に、不可解そうな驚きの色を感じたからだ。


 その瞬間、なぜだか、全身にゾッとふるえが走り抜けたのだ。

 ただの自意識過剰じいしきかじょうだと信じたいし、実際、そのとおりに違いない。

 なのに、前日に初めて出くわした男との偶然の再会を、故意に仕組まれたものとして決めつけようとする自分を、心の底から追い出せない。


 ひとりでに脳裏によみがえってしまうのだ。まだ10才だった頃の彼女の耳たぶをかすめた男の声が。

 ――「おじさんは、ひよりちゃんに会いたくて、ここに来てるんだよ。お母さんじゃなく……」

 忌まわしい吐息といきの温度さえ、思い出さずにいられない。


 ひよりは、ユキミが呼び止める声を無視して、逃げるように自室に戻った。


 クロゼットの上の引き出しにしまっていた財布とスマホとキーケースを、カーゴパンツのポケットに手あたりしだいに突っ込む。それから、忍び足で廊下ろうかから裏口に向かう。

 土間に散らかったサンダルをつっかけるなり裏庭に出ると、軒下のきしたの自転車に飛び乗った。

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海に沈む墓標 こぼねサワー @kobone_sonar

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