就寝しゅうしんの前にもう一度、ひよりは、お風呂場に向かった。

 タイル張りの浴室の床は、すっかり乾いていた。ステンレスの大きな浴槽よくそうの残り湯もぬるくなっていたけれど、ぐしゃぐしゃに濡れた顔と、激情げきじょうに打ちひしがれた全身をひたすには、とても心地よかった。


 お風呂を出たひよりは、足元の常夜灯だけが照らす薄暗い板の間の廊下を、ひたひたと裸足で歩いた。

 叔母があてがってくれた部屋は、ひよりの父が幼少期から高校を卒業するまでの間ずっと私室に使っていた8畳の和室だ。

 廊下をはさんで斜向はすむかいに、叔母のユキミの部屋がある。


 ドアごしにそっと聞き耳をたてると、かすかにテレビの音声が聞こえた。どうやらバラエティ番組でも視聴しているらしい。

 直後に響いてきたユキミのハデな笑い声に背中を押されるように、ひよりは自室に向かった。


 飾りけのないシンプルなシーリングライトのコードを引っぱると、しらじらとした明かりが室内を照らした。

 色あせて年季の入ったタタミは、少しケバだっている。

 父が小学生から使い続けていたという勉強机と、つくりつけのクロゼットの他には、ひよりのためにユキミが買いそろえてくれた40インチの液晶テレビと目覚まし時計くらいしか調度品はない。

 女子高生のための私室としては、いささか殺風景であることは否めない。


 テレビ台の端に置かれた目覚まし時計のデジタル数字は「22:16」を示していた。

 明日は土曜日。もう少し夜ふかししたい。叔母のユキミを爆笑させていたバラエティ番組の内容も気になる。


 でも、押し入れの中から布団を出して部屋の真ん中に敷いたとたん、どっと眠気におそわれた。

 さっき付けたばかりのライトをまた消して、布団にもぐりこむと、睡魔すいまはたちまち、ひよりの意識を現実から引きはがした。


「……ウソつき、ウソつき! ひよりのウソつき!」

 仔犬の鳴き声にも似たカン高いわめき声が、唐突とうとつに耳をつんざく。


 ひよりは、ハッと周囲をみわたした。

 内側にカーブしている白い壁に、直径5、6メートルほどの円形の床。自分が円柱状の空間にいるのだと、すぐに察しがついた。


「ここって、……灯台の中?」

 いま自分が夢の中にいるということは自覚できているから、間の抜けたヒトリゴトも恥ずかしくない。


「そうだ。ここ、灯台の中だ」

 ひよりの声に呼応こおうするように、周辺のディティールの解像度かいぞうどがグッと高まる。


 ドーム型の天井。雑然と道具箱や瓦礫がれきが散乱した鉄板の床。


 中央にはパラボラアンテナのような形状のガラス張りのライトが2基、頑強な鋼鉄の台の上に背中合わせに立っている。

 もちろん、ライトに明かりは入っていない。

 はるか洋上の船舶せんぱくを導くポテンシャルの光量をまともに浴びたら、目を開けて立ってはいられないだろう。


 壁面に沿って1階まで螺旋状らせんじょうにつながるスチールの階段はサビだらけだ。

 ところどころ漆喰しっくいのはがれた壁は、四方に大きなガラス窓がはめ込まれて、静かにいだ水平線と、なだらかな丘陵きゅうりょうから成る浜野弓市はまのゆみしがぐるりと一望できる。


 空には、かすかに桃色を帯びた薄い雲が長い尾をたなびかせている。

 転校初日の放課後に灯台にのぼった、あのときの景色が再現されているのだ。


 そう気付いてから自分自身の体を見下ろせば、白いブラウスに紺色のベストとスカート、水色のネクタイに茶色いローファー。

 やはり、あのときと同じく、高校指定の真新しい制服姿だった。


「ひよりのウソっつき! また来てくれるって言ったくせに。あした来るねって、言ったくせして……」

 声が再び聞こえてきた。


 言葉を覚えたばかりの幼い子供のような。ひどく舌ったらずで、たどたどしい。あどけない男の子の声だ。


「あんた、誰よ?」

 ひよりは、ぶっきらぼうに聞いた。

 声の出どころを探して、きょろきょろと足元に視線を走らせながら。


「ボクだよ、トモルだよ! ひよりが"ナマエ"くれたんじゃないか」

 ふっくらとした頬をぷうっとふくらませながら、小さな唇をとがらせてムクれている男の子の顔が、ありありと脳裏に想像できる。


「トモル、って……」

 ひよりは、灯台に行った日の記憶をたどり、思い出した。

「ああ、あたしが灯台につけた名前」


 忘れかけていた"記憶の中だけの存在"から、急に脈絡みゃくらくもなく怒鳴りつけられるなんて。夢というのは意外とままならないものだなどと考えるうちに、ひよりは、思わずプッと吹きだしていた。

 なにしろ、その相手とは人ならざる"建造物"なんだから。我ながら、なんてバカげた夢を見ているんだろう。


「なにがおかしいんだよう!」

 トモルは、また、たどたどしい怒声どせいをあげた。


 自分がいる建物そのものが会話の相手だと知覚したとたんに、その声は、天井全体から漠然ばくぜんと降りそそいでくる。指向性のきわめて低いアイマイな音源に変化した。

 これも、夢ならではの現象だろう。


「ごめんごめん。怒んないでよ」

 ひよりは、笑いをこらえながら言った。


「おこってなんかないもん!」


「怒ってるじゃん」


「おこってないもん! ひよりのバカっ!」


「人にバカっていうほうが、もっとバカなんだよ?」


「バカじゃないもん! ひよりのウソっつき!」


「ウソつきじゃないもん、あたし」


「ウソつきだもん! 来てくれるっていったのに、こないもん。来てくれないもん。ウソつきだもん」

 あどけない声が、急にションボリと沈んだ。くすんくすんと鼻をすする音も聞こえてくる。


「トモル……」

 思いがけない愛おしさが胸にこみあげて、ひよりは、言葉をなくした。


 一人っ子として生まれ育ったのだ。

 母方には親戚しんせきが少なく、父親の実家も東京から離れていたから、自分より幼い親族と接点を持つ機会もほとんどなかった。


 ――もし弟がいたら、すごく楽しかったろうな……

 不意に頭に浮かんだ思いが、ひよりの心をフワフワとくすぐっていた。

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