叔母

 ひよりの叔母のユキミは、両親と死別した後も実家に住み続けている。

 かつては、ひよりの父も一緒に、兄妹と父母の4人で暮らしていた生家だ。

 ひよりの父である兄も亡くなってしまっているから、幸せな思い出のつまった家を守れるのはユキミしかいなかった。


「この家に"婿入むこいり"してくれる人とじゃなきゃ、結婚しないんだ、あたし。結婚、できないわけじゃないんだからね?」

 500ミリリットル入りの缶をそのまま口につけてゴクゴクとノドを鳴らしたあと、ユキミがひとりでにつぶやく、お決まりの独白だ。

 アルコール度数5パーセントの柑橘系のチューハイと、出来合いの惣菜そうざいで占められた卓袱台ちゃぶだいのディナーは、週末の夜のささやかな贅沢ぜいたくなんである。


 高校を卒業以来、地元の市役所で働き続け、今は"主任"の役職についている。

 小柄で華奢きゃしゃな体型に丸みを帯びた童顔。おまけに、喜怒哀楽きどあいらくが目まぐるしく顔に出る。

 それも、もっぱら、上に弧を描いた半月型の目を、細い三日月の形に細めて、くしゃくしゃと笑ってばかりいる。

 ヒトミシリに由来する不器用なポーカーフェイスのひよりと比べたら、ともすれば、ユキミのほうが幼く見えるほどだ。


 まがりなりにも勤勉な公務員で、ほがらかで愛嬌あいきょうもある。

 およそ適齢期の一般独身男性が希望する「伴侶はんりょ」の条件を、おおむね満たしていると言って過言ではあるまい。


 いかんせん、今年の夏に35才の誕生日を迎えるというのに、いまだ浮いたウワサのひとつもないのは、当人の独白どおりの事情が大きいのかもしれない。


 ぎりぎり結べる長さの黒髪を、お風呂あがりで濡れたまま後ろに強引にひっつめている。

 10年以上前に来日した洋楽ロックバンドのライブツアーのTシャツと、高校時代の学校指定のジャージのズボンがパジャマ代わりで。いずれも、プリントや生地がくたびれてヨレヨレになっている。当人は「使い込むほどに味が出る」などとうそぶいてはばからない。


 そのくせ、身着みきのまま家に転がり込んできた可愛いめいっ子には、若い女性たちから「SNS映えする」と絶大な支持を受けている人気ブランドのパジャマを4着も買い込んでいた。


 ビスクドールめいた美しい容姿のめいっ子に、自分には縁遠えんどおい少女趣味の衣服をあれこれ着せ替えて楽しみたいという、いささか幼稚な欲求もあるが。

 なんといっても、大好きだった兄の大切な忘れ形見がたみなのだ。しばらく見ないうちに余所余所よそよそしく陰のある美少女に変貌へんぼうしていためいっ子の境遇が切なく哀れで、よけいに可愛くて仕方ないユキミだった。


「ねえ、おこづかい足りてる? 今日もクラスの友達とカラオケ行ってきたって言ってたでしょ、あんた」

 だらしなくアグラをかいて卓袱台ちゃぶだいの上に頬杖ほおづえをつきながら、正面に向かって声をかける。


 正座をくずしてお尻をペタンとタタミに置いた格好で、手近な惣菜そうざいに黙々とはしを運んでいたひよりは、咀嚼そしゃくなかばのポテトサラダで軽く口の中をムセ返らせながら、言葉をにごした。

「う、うん。でも、大丈夫。みんながオゴってくれたから……」


「毎日みんなにタカってばかりいたら、じきに愛想アイソつかされちゃうよ?」


「…………」

 ユキミの軽口に、ひよりは無言でうつむいた。叔母にウソをついているのが後ろめたかったからだ。

 クラスメイトに誘われて、放課後はいつも市街地へ寄り道をしていると伝えているが、本当は、この家まで自転車で片道30分かかる海沿いの霊園へ通いつめ、1人で父の墓参りをしているのだ。


 だが、叔母のユキミは、自分の軽口がめいっ子の繊細な心を傷つけたとカン違いして、あわてた。

 どうにか話題を変えて取りつくろおうとしたとき、ちょうど、かんじんな言伝ことづてを思い出して、ひときわ大きな明るい声をあげた。

「そうだ、そういえば! 昼間、あたしの職場に、あんたのお母さんから電話があったよ」


「え」


「お母さん、あんたに本当に申し訳なかったって。すごくやんでるって。カウンセリングにも通うことにしたって」


「…………」


「それで、一度こっちに来て、あんたと会って話がしたいって……」


「イヤだっ! 絶対にイヤっ!」

 ひよりは、手にしていたはしを卓上に放り捨てた。座ったまま後ろに飛びのくと、部屋の角で背中を丸めて両ヒザを抱えこむ。


 ユキミは呆然として立ち上がり、ひよりの前に正座をした。

「あんたとお母さんを2人っきりにはしないから。大丈夫だから、ね? お母さんも、あんたを心配して……」


「イヤイヤイヤっ! お母さんになんか、死んでも会いたくないっ!」


「ひより!」


「なんで? なんで、あたしばっかりっ……あたしばっか……っ!」

 言いかけて、ひよりは、立てたヒザの上に顔を埋めてワンワン泣きじゃくった。


 ユキミは、ハッと胸を打たれた。


 なぜ、自分ばかりが、一方的に譲歩じょうほをせまられなければいけないのか?

 娘に許しをうタイミングを、自分の都合だけではかる母親のヒトリヨガリな甘えは、ひよりにとっては、ひどく傲慢ごうまん自惚うぬぼれにしか感じられない。

 やるせない怒りが満ちて、頭の中がカアッと熱くなった。


「ごめん、ひより」

 ユキミは、めいの髪の乱れを丹念に指でくしけずった。


 忍びもれる嗚咽おえつとともに小刻みに震える肩が、ひどく幼く思えて。

 イチゴ柄のプリントをあしらったパジャマは予想以上にめいに似合うと、自分の見立みたてを場違いに称賛しながら、ささやいた。

「そうだよね。お母さんに会うも会わないも、決めるのは、あんたの方だよね。選択肢は、あんたのもの。分かった。分かったから、ひより」


「…………」


「誰になんと言われたって、あんたの口から"お母さんに会いたい"って言葉を聞かない限り、あたしが許さないよ。お母さんをあんたには会わせないから。約束するから」


「ホント? 絶対に……?」


「絶対に。約束する」


「でも、あたし……一生、お母さんに会いたくなんかなれないかも?」

 ひよりは、くしゃくしゃに歪んだ顔を上げると、すねたような口調で言った。


 ゆったり開いた襟元えりもとの合間に、綺麗なデコルテが見え隠れする。

 みずみずしい若さのはじける真っ白い肌は、まぶしいほど美しいのに。左側の鎖骨さこつのくぼみには、皮膚がピンク色に引きれたヤケドの痕が4つ並んでいる。

 4つとも、ひよりの母親が愛用している細身のタバコの先端と、ほぼ同じ大きさのはずだ。


 ユキミは、はげしい動揺どうようを押し殺しながら、何度もウンウンとうなずいた。

「いいよ、もちろん! あんたが望まない限り、あんたのお母さんの話もしない。金輪際こんりんざい。……それでいい?」


「ありがと、叔母さん……」


「こら! 叔母さんて呼ぶな」


「ごめん。ユキミさん」

 ひよりは、涙で濡れた顔のまま、ちょっと照れくさそうな笑みをこぼした。


 大人のはしくれとして、ユキミは、目の前の少女の健気けなげさに痛切な心苦しさをおぼえた。

 でも、ひよりを抱きしめて泣きわめくかわりに、満足そうに微笑んで、

「よろしい」

 と、少女のすべらかな白いおでこを、指先で軽くつっついた。

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