花守と缶ビール
ローファーの底が
奥のスペースに1台だけ濃紺のステーションワゴンが停まっている他はガラ空きとなった駐車場に、いたずらに大きく弧を描いて自転車を走らせる。
フッと視界の端を白い塔がかすめた。手つかずの荒々しい岩壁の
転校初日の放課後に一度だけ、父の
そういえば、「また明日くるね、トモル」と、灯台に向かってつぶやいたんだっけ、あの日。
――さびれた灯台に名前を付けて、話しかけるなんてね。
ふっと思い出せば、また、よるべない孤独が身にしみた。
空しく照れ笑いしながらも、ひよりは、明かりに吸い寄せられる羽虫のような気分で、暮れなずむ岬の方角に自転車の進路を変え、駐車場の外に出ようとした。
そのとき、
「おい、こら、待ちなさい!」
と、
ギョッとなったひよりは、反射的にブレーキレバーを力いっぱい握りしめた。タイヤが急停止した反動で、自転車がグラリと横に傾く。
「キャアッ!」
ひよりが悲鳴をあげるより早く、後方から自転車の横に飛び出してきた男が、ハンドルを片手で支え起こしていた。
「大丈夫か? 気をつけて」
誰のせいだと言い返したい気持ちを押し殺しながら、ひよりは、サドルをまたいだまま片足を地面に降ろし、どうにか体勢を落ち着かせる。
上目がちに警戒しつつ、じっと相手を見て素直に答えた。
「はい。大丈夫です」
「なら、よかった。驚かせてゴメン」
無作法なふるまいだったという自覚は、一応あるようで。
20代後半から30代なかばといったところか。
背筋がピンと伸びているおかげで、実際より少し背が高く見える
いかんせん、上下つなぎのモスグリーンの作業服とくるぶし丈のワークブーツは、いずれも泥のような汚れが目立つ。パンパンにふくらんだ胸ポケットには、強引に押し込まれた様子の350ミリリットルの缶ビールがのぞいている。
思春期の少女にありがちなヒトリヨガリの
「なにか?」
ひよりは、上目づかいに相手をにらみあげながら、つっけんどんに聞き返した。
だが、態度とはウラハラに全身には鳥肌がたち、そもそも声は小さくわなないていた。
男は、
「こんな時間に、女の子が1人で。いったい、どこへ?」
低く控えめな声量なのに、不思議なくらい
「そんなこと……!」
――大きなお世話だ……といい返しかけた言葉が、途中で
それでも、なけなしの勇気をふりしぼると、自転車を強引に前に押し出そうとしたが、
オレンジ色の鮮やかな夕日を浴びていても、ひよりの顔は明らかにサッと血の気を失った。
とたんに、男は、あわてふためいた。
「僕は、この霊園の
と、言い訳がわりに
ひよりは、こわばった肩と手を少しゆるめて、聞きなじみのない言葉をオウム返しした。
「ショクサイ?」
「植木の
「はあ」
「キミ、家はどっちなの?」
「…………」
ふたたび
男は、質問を変える。
「岬のほうに向かおうとしてたろ?」
「……ダメですか?」
「あそこは危ない。立ち入り禁止の看板も出てる」
「そんな看板、ありましたっけ?」
いささか
男は、
「いや、あったはずだけど。もしかしたら、去年の台風で吹き飛んだのかも」
と、あやふやに語尾をにごしたが、すぐに厳しい顔になって言った。
「とにかく、危ないのは確かなんだから。行くもんじゃない」
「灯台をちょっと見るくらい、別に……」
「あんな崩れ果てたレンガのカタマリを見て、なにが楽しいんだ?」
男は、
ひよりは戸惑い、返す言葉を失った。
たしかに、灯台の外壁のレンガは見るからに
とはいえ、"崩れ果てたレンガのカタマリ"という表現はピンとこない。まるで、建物が原型をとどめておらず、
どうやら、この男は、ひよりが岬に向かうのを何がなんでも阻止したいらしい。
――なに、この人?
男の奇妙なお
男は、ひよりの不審げな顔つきに気付き、開きかけた口をいったん閉じた。
それから、意を決したように大きく息を吸いこみざま、すぐに言った。
「5年前の今ごろ、あの岬で、
「地震?」
「そうだ。灯台も、そのせいで、ご
「じゃあ、その女の子も、地震に巻き込まれて……」
「それは、どうかな。……その日、女の子の姿を最後に見かけたのは、何を隠そう僕なんだ」
「え?」
「霊園前の停留所でバスから降りて、1人っきりで岬のほうに歩いていくのを、このあたりから見かけたんだ。薄い灰色のセーラー服を着た、ショートカットの女子高生だったよ」
男は、苦く硬いものを
ひよりは、学校のそばのバスターミナルに点在していたセーラー服の群れを思い出し、その少女が
男は、遠いまなざしを灯台の方角に投げかけながら、言葉を続けた。
「夕暮れより前で。空もまだ明るかった。地震が起きた真夜中の時間帯まで、その子がずっと岬にいたなんて、さすがに考えづらいよ」
「じゃあ、つまり……」
「ああ。おそらく女の子は、岬に着いて間もなく崖から転落し、海に飲まれたんだろう、って。警察も早い段階から見切りをつけて捜査してたみたいだった。たしかに思い返してみれば、背中を丸めてうつむいて、なんだかツラそうな様子だったんだ、彼女。あのとき、僕が声をかけてやってれば……」
「それって、じゃあ……」
ひよりは、脳天に重い石を落とされたような思いで口を開いた。
ほとんど
「あたしも、崖から飛び降りそうに見えましたか?」
「…………」
「分かりましたから。あたし、岬には行きません。手、離してもらえませんか?」
宣言どおり、灯台と反対の方向に道路を出て自転車を走らせながら、ひよりは、男の視線がいつまでも自分の背中を追ってくるのをたしかに感じて。自分自身のミジメなイラダチから逃げるように、必死にペダルをこいだ。
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