私を産んだひと

山田とり

母と私の紡いだ時間


 今日の母は、いつの頃を生きているのだろう。

 私はホームを訪れる時、毎回賭けのような気分になる。


 娘の私を見ても、私だとわかることは少なくなった。

 母の心はフワフワと何処かに行ってしまっていて、しかもそれは単なる過去へではない。適当に辻褄の合わされた幻のような中に生きているのだろう。でなければ毎朝、知らない天井に悲鳴を上げてもおかしくないと思う。


 お世話になっているホームの受付で面会の申し込みをして、検温や手指の消毒を済ませ、面会室に入った。

 感染症の規制がゆるんだので手続きを踏めば会えるようになっている。まだビニールシート越しではあれど、マスクを外した顔を見せてもいい。


 会えなかった間に、母の記憶から私はポロポロとこぼれ落ちてしまっていたけど。

 それは仕方のないことだ。誰が悪いわけでもない。


「ええと、こんにちは?」


 ゆっくり歩いて連れて来られた母は、私を見ておっとりと挨拶した。これは私のことを誰かしら、と思っている時の口調。


「川原さん、娘さんはお一人でしたっけ? 洋子さんでしたよね」


 付き添って来た馴染みの職員、佐々木さんがヒントを出してくれた。でも母の顔色は曇ったままだった。


「そうだけど、あの子は勤め始めたばかりなの。忙しくてねえ」


 今日はその辺りの年齢か。実際の私は定年までのカウントダウンを始めてもいいぐらいなのに。

 母は今よりも昔の事の方をよく覚えている。特に私が小さかった頃の事を、昨日の出来事のように話してくれる。


「ええと、忙しいけど、お母さんの様子が気になるって頼まれて来たの」


 私は洋子わたしの知人のふりをしてみた。


「まあまあ、娘がお世話になって、すみません」


 すんなりとその設定を受け入れる、夢の住人の母。それなりに穏やかで、困った風もなく過ごしているのだから有りがたいとは思う。

 それでもあんまり忘却の彼方に追いやられてしまうのも寂しいものだ。私は以前確かに、この人の娘だったのに。


「あのね、作って来た物があって」


 私はそっと紙袋から折り紙細工を取り出した。チリンと小さな鈴の音が鳴る。


 幾つもの、色とりどりのくす玉と鶴。それは母が折った物だ。ホームの活動で手先を使うために取り組む折り紙。その作品を、母は訪ねるたびに私にくれる。

 たまっていくその可愛らしい折り紙を、私は一つひとつ糸で繋いだ。くす玉の中には鈴を入れてみた。

 母の部屋の壁に飾ったら、少しは娘を思い出してくれるだろうか。


 面会室の机に下がるビニールシートの下から折り紙をそっと差し入れると、母はシャララとそれを持ち上げた。


「まあ、綺麗」

「いつも折り紙をくれるでしょう。たくさんになったから、お母さんの部屋にも飾ってほしくて」

「鈴が鳴るのね。ああ、くす玉に入れるのよ、そうよ」


 母の目が、折り紙から私に移る。少し不思議そうにする。

 何か、忘れていることがある。そう思ってくれたのかもしれない。



 折り紙は、子どもの頃たくさんやったね。くす玉を一緒に作ったね。配色を考えて、崩れないように組み合わせて、そして中に鈴を仕込んだね。


 覚えてるかな、お母さん。

 小さい頃の事だから、思い出してよ。

 私のことを、思い出してよ。



「洋子さんが作ってくれたんですよ。よかったですね。お部屋に飾りましょうね」


 ニコニコと佐々木さんが言ってくれた。

 この作品の持ち込みは前もって許可を取っている。母は物を壊したり口に入れたりという行動はしないので鈴も大丈夫ということだった。念のためにくす玉の中にテープを貼って、簡単には出てこない状態にしてあるけれど。


 私をじっと見つめていた母の手は膝に下りてしまった。折り紙も一緒に。くしゃ、と小さく音がした。


「よう、こ」


 突然、母が驚いた顔で名前を呼んだ。机に身体を乗り出す。娘に気がついたのか。


「お母さん」

「川原さん、座りましょうか。危ないですよ」


 佐々木さんが母を支えてくれた。椅子から落ちてしまったら大変だ。骨でも折ったら寝たきりになってしまう。

 母の膝から落ちた折り紙は、机にもぐって私が拾った。机の下は狭いけどつながっているのだ。ただの会議用長机だから。

 床には私が繋げたのとは別の折り鶴が一つ、転がっていた。今日も面会客に渡そうとしていたらしい。

 本当にもう、いつも客が誰なのかろくにわからないくせに。少し苛立ちを感じながら、それも拾った。


「痛っ」


 机の下から出ようとして、私は荷物棚に髪の毛を引っ掛けた。手がふさがっていたから、と心の中で言い訳するが、まあ私もいい歳だということだ。目測を誤るとは情けない。


「洋子、何やってるの」


 母が突然しっかり喋った。立ち上がろうとしていた私は驚いて止まった。

 昔の母だ。


「……お母さん」

「髪の毛ぼさぼさにして。ぶつけたの?」


 母は半分呆れて、半分笑っている。

 間違いない。私が若い時の、なんなら中高生の頃の、母。


「おいで、編んであげる」

「え……」


 やはりそうだ。

 中学生の頃、伸ばした髪をただひっつめるのでは可愛くなくて、二本のお下げでは古くさくて、でも自分で真後ろで三つ編みにするのが難しくて、母にねだって編んでもらっていた。

 私の髪を編もうなんて、あの頃の母になっているのだろう。

 今の私の髪はひっつめてある。もう可愛くする必要もないし、美容院にちょくちょく通うのも面倒くさい。利便性だけを考えればよい、となった。私もずいぶん変わったのだ。だけど、母は昔に戻った。


「――洋子さん、編んでもらいましょう」

「え、いいんですか?」


 佐々木さんが真剣な顔で提案してきて驚いた。それはたぶん規則に反する。直接の接触は認められていないはずだった。


「川原さんが、洋子さんの髪を編むだけです。洋子さんからは触らない、マスクをしておく。それでお願いします」

「……いいんですか」


 絶対に違反だと思う。でも母がやると言ったことを叶えるために、佐々木さんは少し解釈を曲げてくれるのだ。


 私は机の下を這って母の所に行った。

 佐々木さんが出してくれた椅子に座り母に背を向ける。ゴムを取った髪を手櫛で梳かしながら母は楽しげに言った。


「今日は編み込みにしようか」

「――ほんと? やったあ」


 私の声も中学生のように弾んだ。時間があって機嫌の良い時にしかやってもらえなかった、編み込み。


 ササッと梳いた髪の上の方から母の指が入った。

 ひとすくい。そしてひとすくい。櫛などなくても正確に母は編んでいく。昔のように。

 母の手が私をなぞる。私の髪を大切に紡ぐ。あなたから生まれた身体を確かめる。


 この時間が終わらなければいいのに。



 だけど母は手早く編み上げた。ゴムで括ってポンと私の肩を叩く。ああ、いつもそうだったね。母の仕草を私も思い出した。


「はい、できた」

「――ありがとう」

「ねえ、マスクなんてして、学校で風邪流行ってるの?」


 万感をこめて振り返る私を見て眉をひそめる。私は苦笑して顔を横に振った。

 母に私はどう見えているのだろう。こんなおばさんを捕まえて中学校の話をするなんて。やはり母が生きているのは幻の中なのだろう。


 私は自分の髪に触った。ひと編みごとに段のついた、楽しい手触りが懐かしい。思わず笑みがこぼれて、もう一度言った。


「ありがと、お母さん」

「川原さん、お上手ですね」


 佐々木さんもうなずきながら褒めてくれる。こうして昔を思い出したり、出来ることを増やしたりするのは入所者の健康を支えるために大事なことなのだろう。本当にお世話になりっぱなしだ。

 私は軽く頭を下げてから笑った。泣き笑いみたいになった。


「これ、ほどきたくないですね」

「そうですねえ。こういうのは、ご家族にも必要なことですよ」


 うんうん、とまたうなずいてくれた。私は目を見張った。私のためでもあったのか。


「ほら、遅刻しないで行きなさいよ」


 母の時間は完全に中学時代まで戻っているらしい。こういう時に逆らってはいけない。少し名残惜しいけど面会時間も終わりだった。机をくぐって元の世界に戻らなければ。


「せっかくだから、頭ぶつけないで下さいね」


 佐々木さんが笑って注意してくれた。


「気をつけます」


 編み込みを崩さないように気をつけて、低く低く机の下を行くおばさん。それを登校する玄関のように見送る母。傍目には馬鹿ばかしい姿だけど、本人達は大真面目だ。


「じゃあ行ってらっしゃい」


 何でもないことのように言った母に折り紙細工を持たせて、佐々木さんは立ち上がる母の腕を支えた。

 私はどこか満足げな母に、行って来ますと手を振った。




 外に出た私は、そっと息をついた。もう一度頭を撫でる。編み込み。


「ほどきたくないなあ」


 呟いて空を見上げた。

 今日もらった鶴を光にかざす。この鶴がいつか飛んで行ってしまうのは知っている。それまでにもう、こんな時間を過ごすことはないことも私にはわかっていた。


「ほどきたくないよ。お母さん」


 私はまた、呟いた。








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私を産んだひと 山田とり @yamadatori

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