【短編】メメモリ
夏目くちびる
第1話
「なんでそんなに酷いことをするのか」と聞かれても、彼は答を持ち合わせていない。
初めは、ただ授業の隙間時間を埋めるための気まぐれだった。いつもオドオドしていて、何かムカつく隣の席の女を誂うつもりの戯言だった。
「柚子って、かわいいのに暗くてキモいよな」
「……え、え?」
彼も、まさかこの程度の言葉が彼女を変えてしまうだなんて、少しも考えていなかっただろう。
しかし、嘗てセルビア人の青年の死から世界大戦が巻き起こったサラエボ事件のように、きっかけとは常に些細なモノなのだ。
……次の日。
ぼーっと授業を受けていると、彼は伸ばしっぱなしの前髪の奥で彼女が自分をチラチラと見ていることに気が付いた。
女子が男子の目線に気が付くのと同様に、男子も女子の目線には気がつくモノである。
問題は、彼がシカトやスルーで快感を得るのではなく、サディスティックに苛める事で喜びを得る性格だったことだ。
「柚子、俺の顔に何かついてたか?」
中休み。再び、彼は両手で文庫本を持つ彼女へちょっかいをかける。
なぜ下の名前で呼ぶのか、いつからそんなに仲良くなったのか。そんな事を彼女は思った。
「う、ううん! 何も!」
声のボリュームの調整が上手くできず、大きな声が出てしまったのが手に取るように分かる。その反応に、彼はゾクリと背筋を震えさせた。
「何もないのにチラチラ見てたのか、柚子って性格悪いのな」
「……うぅ」
上手に言葉が出てこない。しかし、見ていないと嘘をつく強情さもない。
彼女は、ただ「かわいい」と言われた事の真意を問いたくてタイミングを伺っていただけなのだが、こう冷たくされてしまうともう話しかけることは不可能だった。
「なぁ、柚子ってカレシいんの?」
「い、いないよ。いないいない」
昨日の『かわいい』から引き続き、なぜそんなことを聞いてくるのかが本気で分からない。
脳内であらゆる可能性を考慮するが、そのどれもが自分への好意に行き当たる思慮の浅さが彼女は恨めしかった。
隣の席の男の子。彼女にとって、それだけのハズなのに。
「なんで? 真面目な奴ほど裏で何してるか分からないとかよく言うじゃん。人気ありそうだよ」
「そ、そういう人もいるかもしれないけど。わ、私は違う、かな……」
そもそも、彼女はそこまで真面目ではない。勉強の出来は中の中だし、家ではそれなりにスケベな事を考えたりしている。
陰キャが真面目で勉強好きというイメージは、あくまで彼女たちの生態を知らない一般人の勘違いに過ぎないのだ。
「へぇ、そうなんだ」
彼は、まっすぐに目を見た。目を見て、マジマジと見て、「まぁモテねぇだろうな」と思った。彼女は、そもそも人と関わる事を恐れているのが目に現れている。
こういう女は、男のモチベーションを下げる。裏で何か良からぬ事を企もうにも、相手側が彼女のような女を求めないだろう。
「……な、なに?」
しかし、今度は黙って見つめられたことで、彼女の人見知りと照れが暴走を始めた。
目線を仕切りに動かし、シドロモドロになって吃音を漏らし、しまいには手を謎にピクピクさせて。
「や、やめてよ……」
文庫本を胸に抱き、しまいには顔を赤くして俯いてしまった。
「自分は見るのに、俺は見ちゃいけないのかよ」
「あ、あぅあぅ……」
「でも、やっぱりかわいいな。もしも俺が女に生まれ変わったら柚子みたいな顔がいいわ」
目から鱗が溢れた。
言い負かされた謎の高揚感と、確かに褒められて満たされた承認欲求が彼女の体中を駆け巡り、やがて快感となって表情に出てしまう。
実に陰キャらしい、爽やかじゃない下手くそな笑顔だ。
「な、なんで、そ、そんな事を言うの? 誰にでも言うの?」
「いや、柚子だけ。お前しか見たくない」
「ど、ど、うえぇ……?」
流石にやり過ぎただろうか。そんな事を思ったが、どうやらそうでもないらしい。
彼女は、文庫本を机の上に置くと前髪を引っ張って必死に表情を隠していた。きっと、口元が弛緩してトロけた笑みを浮かべているのだろう。
彼は、「バカだなぁ」と思った。
「柚子ってドMなの?」
「こ、答えたくないよ!」
「あっそ」
すると、彼はまるで興味も無さそうに席を立ってあっさりと教室の外へ出ていった。彼女の常識では、気のある相手には絶対にしない態度だ。
そんな事をされれば、彼女の思考能力はすべてのリソースを彼に向けてしまうに決まっている。ただの遊びだったのか、それとも嫌われたのか。トイレに行きたかったのか、ついていけばいいのか。
彼は、一体何を考えているのだろうか。
もはや、それしか考えられずに一人で悶々と考えを巡らせる内に、やがて次の授業が始まる。
感情を抑えきれず、もしかするとまた同じ事を言ってくれるかと思いずっとチラチラ彼を見ていたが。
その日、彼女が再び話しかけられる事はなかった。
× × ×
他人を自分に依存させたいという欲求を持つ人間は多い。問題は、本人がそんな醜い欲求を受け入れられるかどうかという事だが。
彼は、その一点においてあまりにも素直だった。だからこそ、こうして彼女への反応を楽しむために言葉が過激になっていったのだ。
「なんか、世界一かわいく見えてきたわ」
「え、えぇ? そんな、困るよ……」
「柚子は、俺が生きてきた17年の人生で積み重ねたすべての価値観をぶっちぎりで超越したんだ。お前という存在は、間違いなく世界で一番かわいい」
「ほ、ほぇ……」
そんな褒められ方をすれば、変な声が出るに決まっている。初めてまともに男子と会話をしたかと思えば、段階を3つも4つもすっとばして褒めちぎられているのだから。
気持ちよくならないハズがない。彼女は、いつの間にか彼の言葉の虜になっていた。
「か、薫君ってモテそうだよね。なんか、なんか……。えへ」
脳内では、まるで活劇アニメのヒロインのようにウィットに飛んだ皮肉やお洒落な返しをしているのだが、実際にはあぅあぅと吃って終いには愛想笑いである。
無論、そのウィットや洒落だって高校生らしいかわいい代物なのだが。
「モテていて欲しいか?」
「いや〜。わ、わかんないなぁ……」
「でもさ、自分の恋人がモテてるとか絶対に気持ちいいよな。俺は色んな男にモテまくる自分のカノジョが、一番好きな男が俺なんだって思ったら絶対に気持ちいい」
「……でもぉ。女の子的には、ほ、他の子のとこに行っちゃったらやだな〜、なんて。ちょっと、やだなぁ……」
そうでもないと、彼女の表情は言っている。
前髪の奥でチラチラと彼の顔を伺って浮べる微妙な引き笑いが、実は必死でキモくならないように頑張っている証拠なのだと彼は気が付いていた。
モテそうな彼が、私に一番構っている。明るくて垢抜けた美少女たちじゃなくて、他でもない私に。
「……か、かか、カノジョ、いるの?」
「いないよ」
そこは素直なのかと、妙に落ち着いてしまった。しかし、下手に誤魔化さない事が逆に何かの作戦ではないかと勘繰りもする。
まだ少し、警戒心は残っているようだった。
簡単に好きになってあげたりはしないと、騙される事への恐怖にも似た気持ちで無理やり心を抑え込む。
陰キャは、いつだって自分の恋心に怯えているのだ。
「柚子って、いっつも何の小説読んでんの?」
「……言えない」
それは、ゴリゴリの夢女子向け恋愛小説であった。甘々で、甘過ぎるパンケーキのような代物だ。
「朗読してくれよ」
「ふぁ!? こ、ここでぇ!?」
「ふふ、どんな本読んでんのかよく分かったよ」
「……はぅ」
体温が上がりすぎて、何だか眼鏡が曇ってきたような気がする。
視界がボケていて、なのにやたら心地良いのはやっぱり私がドMだからなのだろうかと、そんなことを考える。
しかし、どうも腑に落ちない。
なぜ、この普通に見える男はこんなにも人の心の動かし方を知っているのだろう。何か、サイコパス系のキャラと似たような匂いを感じる。
実は、裏では売れてるバンドのボーカルだったり、人気アニメの原作作家だったり、はたまた裏でチームを支配するカリスマだったりするのだろうか。
……なんて。すべて、彼女がよくする妄想の自分の話だ。いつの間にか、理想を彼を当てはめてしまっているらしい。
「お前の好きなエロ本ってさぁ――」
「エロ本じゃない! ……よ」
そこは、女子高生的に譲れないのである。
「なら、官能小説?」
「う、うん」
「まぁ、それってさ。自分で書いたりしないの?」
無論、
彼女には、普段テンポロスで口に出来ない自分の言葉を小説に書き起こしてニヤニヤする少しヤバめな趣味があった。
中でも、大人や陽キャをバチバチに言い負かして称賛される話を書くことで、日頃のストレスを発散していた。
しかし。
「最近は、ちょっと。あんまり、やらなくなったかも。うん」
この男が話しかけてくるようになってから、結局自分じゃロクに言い返せない事実を思い知った他、実は彼がベッタベタに惚れている妄想に耽ってしまっているため活動は休止中なのだ。
「へぇ、書いてたんだ。お前、頭良さそうだもんな」
「……そうかな」
「なんつーか、自頭がいいっつーか。勉強とか関係なく賢い奴っているじゃん。そんな感じ」
嘘だ。
少なくとも、彼は本当に頭がいいと思った人間に「自頭がいい」なんて言葉を使ったことはない。
しかし、厨二病がサイコパスを褒められると喜ぶように、彼女のような人間が何を言われれば喜ぶのかを彼は知っているのだ。
「うふ。ん、うぇへ。いや、私なんて別に……」
「小説なんて、頭いい奴じゃなきゃ書けないって。誇り持てよ」
「んむ〜。あ、あへへ。いやぁ……」
彼は、ニヤニヤして喜ぶ彼女を見て、「そろそろ次のステップに進んでも良さそうな頃合いだなぁ」と思った。
「ニヤニヤして笑うのかわいいよ。もうちょい、よく見せて」
「や、やだ……っ!」
それは普通に恥ずかしいのである。
「つーか、柚子ってスポーツとかしてんの?」
「し、してないよ。スポ根漫画はよく読むけど」
聞いてもいない事を答えるくらいには、彼との会話が楽しくなってきたらしい。
「それにしては、結構細いよな」
「これは、着痩せしてるだけ。結構ポッチャリしてる。スカート、最近キツイし……」
どう考えても、伏せるべき情報を間違えている。女子的に、ここは素直に答えるべきではないハズだが。
リアルな男女の会話を目の当たりにしていない彼女は、数少ない女友達と似たような感覚で曝け出してしまった。
「へぇ、見せてよ」
「えぇ……。ダメだよ、そんなの……」
「なんで?」
「何でって。だって、薫君は私のか、カレシとかじゃないし」
「グラビアやAV撮ってる監督が女優のカレシってワケじゃないだろ」
「……まぁ、そうだけどさ」
柚子は、かなりのワガママボディだ。高い身長のお陰で見た目はまとめに見えるのだが、触ってみるとあらゆるパーツがプニプニと弾力を帯びているのである。
「見せて」
「だ、ダメだよぉ……」
ジッと目を見られて、何だか腹の下辺りがゾクゾクと震えてくる。
ドMの性なのか、彼が制服の下をどんな風に想像しているのかを考えると、顔が不思議な力で引っ張られるような気がした。
なにか一つ、儀式めいた事をしてくれれば許してしまうかもしれない。そんな事を思った矢先。
「残念だ。お前が照れてんの、見たかったよ」
あくまで顔が見たかったという旨の彼の捨て台詞は、彼女の気持ちを著しく逆撫でする。
まさか、本当にこの顔が世界で一番かわいいと思っているのだろうか。今までに、父親以外の男に言われたことのないセリフが、急に現実味を帯びたような気がした。
「……そんなに、私の顔好きなの?」
「大好き」
それにしては、妙に素っ気ない態度だが。もちろん、彼女は違和感に気付かない。
彼は、本気で自分の顔を好きでいてくれている。理由なんてどうでもよくて、ただ彼の言葉が、承認欲求をたっぷり満たしてくれる感覚に身を任せてしまう。
気持ちがよくて、仕方なかった。
「……顔だけ?」
「最初から言ってんだろ。性格がよかったら、教室の隅っこで一人でエロ本読んでねぇよ」
「え、えへ。そ、そうだよね。えへ。わ、私が変態だから、薫君は私のこと気にしてくれてるんだもんね」
自虐ネタのつもりだったのだが、自分を変態と呼んで何かが壊れたような気がした。
本当は私のことを大好きなのに、照れ隠しで顔だけだと意地を張ってると思い込んで、どんどん深みにハマっていってしまう。
もう、彼女は自分の承認欲求を止められない。この快感を満たすためならば、他には何もいらないと思う程だった。
「私の顔、かわいい? 好き?」
「大好きだし、世界一かわいいよ」
モジモジと太ももを寄せる。ピッタリと張り付いて、下着が濡れてしまっているのが嫌でも分かった。
× × ×
朝起きると、彼女から連絡が届いているようになった。完全に俺の褒め言葉に支配されているなんて、今日も朝から気分がいいと彼は思った。
【おはよう。今日は、ちょっとだけお化粧していってあげる】
【いや、いい】
素っ気ない返事を返すと、背伸びをした10秒程度ですぐに反応があった。
【知ってた♡ 薫君は私の素の顔が好きなんだもんね♡】
【おん】
またしても即レス。黙っているが、目と唇を少し彩っている事を彼は知っていた。
それにしても、非対面だとやたらと饒舌である。毎晩、箸にも棒にも掛からない雑談を、彼女は眠るまで延々と送り続けている。
【薫君、私からライン来るの嬉しい?】
【嬉しい、来てないとちょい暇】
【仕方ないなぁ♡ 今日も教室でお話しようね♡】
適当なスタンプを送って朝食を摂り、身支度を整えて学校へ。もちろん、彼にとってこれらのやり取りは面倒以外の何者でもない。
彼女の喜ぶ、下品な顔の見えないやり取りにはまったく興味はないのだが。それでも、彼女の承認欲求の臨界点を侵食するために仕方のない工程だと思って、彼は律儀に返信を送るのだ。
「知ってるか?」
昼休み。一人ぼっちで弁当を食べていた彼女の隣に、彼が座って声をかけた。
「な、なに?」
「相手が喜ぶ事を想像する時、人は『こうあって欲しい』という理想を盛り込むんだそうだ。趣味や性格が似ている恋人同士が上手くいくのも、こういったシナジーが存在しているからなんだな」
「そ、そうなんだ。まぁ、言われてみれば脳内フィルターがあるんだから、それって当たり前だよね」
「しかし、実はもうワンパターン上手く行くカップルというモノがある。それは、互いの趣向が正反対の場合だ。自分が最も嫌う方法が、相手の最も好む方法に該当するんだから。同じ同士と同じくらい趣味が合うのは当然の話だろ?」
すると、彼女はゴクリと生唾を飲み込んでニヤニヤと下品な笑みを浮かべた。そろそろ、これから自分がどんな目に合うのかを分かってきたらしい。
「なぁ、柚子。お前が一番したくない事ってなんだ?」
「そ、それって、私と薫君がカップルってこと?」
「いや、違うけど。なんでそう思ったんだ?」
「えへ。いや、さっきの話聞いたら誰でもそう思うよ」
「俺が一回でも、そんなこと言ったか?」
この、真っ直ぐに目を見る仕草。何度されても慣れず、彼女はキョロキョロと目線を動かしてニヤニヤと笑ってしまう。
「ち、違うよね。薫君は、私が恥ずかしがってる顔を見るのが好きなだけだもんね。えへ、えへへ。し、知ってるよ。うぇひ……」
「なら、お前がしたくない事を言ってみろよ」
「いひ。あの、なんか、分かんない……。ひゃい……」
手を伸ばし、彼に触れようとするも恥ずかしくて引っ込めて。ピクピクと指を動かして、彼女は長ったるい前髪の奥で彼の筋肉の感触を妄想した。
未だに、触れ合った事はないのである。
「分かんない? 本当に?」
「……あの、寂しい思いはさせたくないかな。あと、意地悪な事もしたくない。でも、いつも一緒は気を使うかも。いひ」
「へぇ、なんかいい子ちゃんぶっててキモいな」
「そ、そうだよ。私はキモいもん。薫君以外、全然構ってくれないの。うん」
彼女は、卑屈さを織り交ぜた自虐ネタを披露するようになっていた。カッコいい言葉は出てこないが、嫌いな自分の悪いところはいくらでも言えてしまうからだ。
これも、悲しい陰キャの性なのだ。
「俺以外、柚子がかわいいって知らないからな」
「えへ。ま、前髪切った方がいいかな。その方が、か、かわいいかも」
「いいんじゃね」
「……でも、薫君はそういうの好きじゃない?」
「別に」
彼的に、造形自体はどうでもいいのである。好きなのは、堪えきれない感情が滲み出てしまう表情だからだったからだ。
それにしても、最近の彼女は自分のキモさを見たい彼のために大袈裟に見せている節がある。恐らく、多少の恥に慣れたからだ。
これはこれでいいのだが、見たいのは彼女の自然な反応と表情だ。今のままではダメならば、今度はもっとエグいお願いをして、相応の承認欲求を満たしてやらなければ。
幸い、彼女はずっと一緒にいたいとカミングアウトしてくれている。幾らでも、試す機会はあるだろう。
「な、なんか、今日は冷たいね。う……。わ、私、なんか変なことした?」
ならば、以前刺しておいた楔を使う必要がある。彼は、口元を拭って心配そうにチラチラと彼を見ている彼女にアクションを起こそうとした。
その時だった。
「ね、ねぇ」
……この時、実はまた一人ぼっちに戻ってしまうのではないかという嫌な予感が走るくらい、彼女の心は既に彼へ傾いていた。
「ん?」
欲求を察することに優れる反面、相手のためを思う気持ちに気が付かない。それが、彼女の暴走の始まりをコントロール出来なかった彼の失敗なのだろう。
――チラリ。
「……へぇ、際どいの履いてるんだな」
「う、うぇ。か、か、薫君、エッチな方が喜ぶかなって。この前、私の体見たいって、い、言ってたし。えへ」
彼女は、目線を配られた一瞬で大胆にスカートを捲り、太腿と、柔らかく食い込むショーツの紐を見せつけた。
その表情は、一体どんな風に褒めてくれるのかという期待と不安の入り混じった下品な笑みだった。
「やっぱり、真面目な奴ほど裏で何考えてるか分からんじゃねぇか」
「いひ。真面目じゃないけど。ど、どう? かわいい?」
「かわいいよ、マジで好きになりそう」
「へ、へへ、変態が好きなんだね。と、というか、わ、私まだ惚れられてなかったんだ。ひぁ……」
こんなにも欲求スレスレを往く満足感を与えられる言葉を、彼女は他に知らない。
喜びと悲しみと、少し冷静になった羞恥心が一挙に押し寄せて、体をクネクネと捩らせてしまう。
「好きになったら、酷いこと言えねぇじゃん」
「おふ! う、うひひ。た、確かに。えへえへ……」
デレデレである。彼女は、もう少しくらい普通の男と話をする練習をしておくべきだっただろう。
もちろん、時既に遅しであるのだが。
× × ×
彼が下校しようと下駄箱で靴を履き替えていると、突如として彼女がニヤニヤしながら現れた。
「えへ、一緒に帰ってあげる。薫君、友達いないし」
「そりゃどうも」
「嬉しい?」
「あぁ、いなかったら泣いちゃうところだ」
並んで歩いていると顔を見なくて済むからか、彼女は自分の趣味の話をペラペラと楽しそうにしていた。
下手に質問したり自分の意見を述べない事が、返って認めてもらえているような気がして気持ちいいようだ。
「お、面白いんだよ。薫君も一緒に見ようよ」
「それを見てる柚子の顔が見たい、どーせニヤニヤしてんだろ」
「へ、変態さん。うひ」
少しだけ間が空いて、ふと冷静になると彼女は今の自分の状況を確認した。男子と二人で下校して、おまけにちゃんと喋れている事に喜びを覚えてしまう。
「わ、私ってもしかしてリア充? うひ、コミュ力も、少しくらい上がったかな」
「ラジオにコミュ力があるっていうなら、お前も相当のコミュ強なんじゃねぇかな」
「おぅふ……。う、うふふ。いいなぁ、薫君。私も、そういう洋画みたいな皮肉、い、言ってみたい」
全然へこたれないし、むしろ喜んでいるのである。
「なら、エロ本ばっか読んでねぇで知識蓄えなよ。その主人公だって、物語の外で勉強してるから色んな言葉が出るんだ」
「で、でも、エッチな知識は薫君よりあるから。セーフだよね、ひゅう……」
エロ本を読んでいる自分を認めてくれる、という感覚から、彼女は自分の好みを否定する事を止めていた。予想は着くだろうが、むしろ彼女は下ネタが大好きなのである。
「いや、柚子って処女だろ。それって、ヒョロいFPSゲーマーが戦場で役に立つってイキってんのと似てるぞ」
「な、なんで処女って決めつけるの!?」
「違うのか?」
「……ち、違いません。わ、私はイジメられて性癖拗らせたメンヘル処女です。一生、誰も貰ってくれません。いひ、あへへ……」
何故か、ニヤニヤが止まらない彼女である。どんどん、ドMとしての性癖が拡張されて広く深く気持ち良くなれるようになっている。
止めなきゃいけないのに止められない。
しかし、本当にヤバいのは助けを求める相手も彼しかいない事であると、彼女自身も気が付いているからまだ理性的なのだ。
「でも、ちゃんと自分の知識を把握してるのは偉いな。顔がかわいくてエロい陰キャって、結構マニア受け狙えると思うぞ」
「も、もしかしてクラスのアイドルとかになれるかな」
「今は配信とかの方がいいんじゃねぇの。柚子、普段前髪で顔隠してっから顔出ししてもバレにくいだろ」
「……ね、ネットアイドルかぁ」
もちろん、バズって大人気配信者になる妄想も彼女のお気に入りである。
「手伝ってやろうか?」
「え、薫君って配信のやり方知ってるの?」
「今は知らねぇけど、調べりゃ誰でも出来るようになんだろ。ニートとか主婦だってやってんだから」
「へ、へぇ。なんか、頼りになるね。私も、薫君のこと好きになっちゃうかも。うひひ」
「キモいからやめろよ」
「ふ、ふぁい。ごめんなさい。う、ぇへへ、す、好きになったらダメですか。辛い、ひう……」
この時、彼女は彼が「自分のカノジョがモテていたら気持ちいい」と言ったことを思い出した。
彼に認められたいという気持ちが
「わ、私、配信やろっかな。薫君、アキバデートしよ。ノーパソはあるけど、マイクとかカメラとか無いし」
「スマホにしとけ、いきなりモノ揃えても飽きたら金がもったいない」
「い、意外と倹約家なんだ。えへへ。楽しみ……」
そんなワケで、早速彼女の家に行ってアプリケーションのインストールと設定の調整、配信するサイトを決めて準備を完了した。
しかし、そもそろ夜になるが未だに両親は帰ってこない。どうやらいつも遅いらしい。会社に泊まって、帰らないことも多いようだ。
「柚子が陰キャなのって、それが理由なの?」
作業を終えて、茶を飲みながら彼が言う。
調べてわかったが、顔をよく見せる為のフィルライトだけは買っておくべきだと知ったため、配信は明日からにするとのこと。
「わかんないけど。でも、お父さんもお母さんも、悪い人じゃないよ」
「まぁ、金はありそうだし、部屋も綺麗だもんな。写真を見るに、普通にワーカーホリックってだけか」
「ちょ、ちょっと寂しいけどね。えへへ……」
すると、彼女は彼の広げた膝の間に座って肩にあざとく後頭部を乗せた。顔はニヤニヤ、体はプニプニしている。寂しいというのは、この上ない彼女の本心なのだろう。
「……ひう」
背中から包む行為は、支配するという一点に置いて抜群に優秀だ。首を掻っ切られても文句の言えない状況に自らの降りてきた彼女を見て、彼は思わず手を回し強く抱きしめていた。
「柚子の好きな小説のシチュエーションか?」
「う、うん。あの、なんでもすぐに言い当てるのやめてくれませんかね。いひひ」
「ずっと見てりゃ分かるに決まってる、かわい過ぎるんだよ」
……思わず、生唾を飲み込んでしまう。
好きとか、カノジョとか。そんなモノは後回しにしてしまいたいという欲望が、彼女の心の中に恐ろしいスピードで満ちていく。
「み、見たい?」
「何を?」
「わ、私の体。この前、見たいって言ってたから」
「なんだよ、そんなに脱ぎたいのか」
脱ぎたくない、といえば嘘になる。結局、彼を喜ばせたいのではなく、彼に認められることが幸せに繋がるのだから。
「……ひぅ。うぇひひ。えへ、あ、あうあう」
僅かに勝る羞恥心が答えを先延ばしにする間、彼の力は次第に強くなっていった。すぐに肺が苦しくなり、やがて息が出来ないくらいに強く締め付けられて。
彼は、こんなにも強く私を求めているのだと思うと、気が狂いそうなくらいに嬉しかった。
× × ×
「……何人くらいと寝たの?」
「3人」
「わ、私は4人目ですか。えへ、まぁいいけど」
行為を終えて、裸のままベッドに横たわっている自分を横目にとっとと制服を着る彼を見て、「嘘つき」と小さく呟く。彼は、聞こえなかったことにした。
「帰るよ、そいつが新しい趣味になるといいな」
「ね、ネットアイドルはカレシとか、だ、ダメだから。バレないようにしないと」
「一回寝たくらいでカノジョ面すんなよ、お前は女か」
「ひぃ。ご、ごめんなさい。ちょっと言ってみただけじゃないですか。そ、そんな悲しいこと言わなくても……」
……ん?
「え? いや、女だけど。どういう意味?」
「……何でもない、忘れてくれ」
「む、無理だよ。そんなセリフが出るくらい色々あった事はさて置き、薫君って男の子ともしたことあるの?」
「あるよ、なんで?」
「ふぁ!? ちょ、えぇ!?」
シリアルキラーばりの性癖に、彼女は面食らってたまげてしまった。普通ではないと思っていたが、まさか自分の初めてを本当になんでも食べてしまう男に捧げるとは。
「わ、私、可哀想過ぎる。うひひ、ひぃ……」
「なにピクピクしてんだよ、変態」
「うぇへへ。もう、あれだよ。薫君、絶対に普通の女の子じゃ無理だよ」
ニヤニヤしながら立ち上がると、彼女は彼の首筋に吸い付いてから再び下品に笑った。
「えへ、えへ。わ、私みたいな何でも言う事聞いてくれる子じゃないと、何にも上手くいかないからカノジョいないんでしょ」
「さあな」
「か、可哀想だね。でも、私は何でも言う事聞いてあげるからね。どんな事言われても、ちゃんとやってあげるからね」
何がそんなに可哀想なのか、彼にはイマイチ分からなかった。
しかし、こうなってしまっては羞恥心も薄れて、彼女の世界一かわいい表情もきっと見られなくなったということは何となく分かった。
ならば、暇潰しはおしまいだ。
これから先、二度とここに来る事はないだろう。そう思って、彼はブレザーを羽織ると最後にもう一度だけ彼女のかわいい顔が見られるようにキスをした。
「うぇへへ。んぅ……」
しかし、彼は再びここへ来ることになる。それも、彼の望まない形で。
何故なら、もしもこれが一本の小説だとすれば、ここまでの話は『柚子』という人格が形成されたプロローグに過ぎないからだ。
× × ×
【薫君、私がオススメしたアニメ見てくれた?】
【あれ、どうしたの?】
【具合悪いの?】
【なんで返事くれいないの?】
【おーい】
【私の体、どうだった?】
【なんで?】
【幸せなキスだったよね?】
【無視しないで】
【ねぇ、無視しないで】
【柚子さんから着信がありました】
【薫君、お願い。無視しないで】
【いやだ】
【いや】
朝起きてスマホをチェックすると、何通もの連絡が届いていたが、彼は面倒だと思う暇もなくチャット履歴ごと削除してブロックした。
なんてことはない、いつもの事だ。男だろうが女だろうが、離れようとすると多少メンヘラ化して細い糸を手繰り寄せようとするなんて。
しかし、彼は知っていた。どうせ、円満に関係を解消しようとしても必ずどこかで面倒なやり取りが生まれるのだから、ならばそれすら取っ払って相手の気持ちが沈静化するのを待つことこそ、結果的に最も平和で労力がかからないという事を。
それにしても、好きになるなともカノジョ面するなとも伝えているのに、どうして人はこうも依存してしまうのだろう。自分の欲望を満たすことにしか興味のない彼には、それがよく分からなかった。
「……か、薫君」
登校中、柚子がいつも彼を待っていた場所で声をかけてきた。
「おはよう、なに?」
その仕草は、自然というよりもスマートだ。自分が異質である事を理解している彼は、その性癖を世間に晒さないように一般人を装っている。
しかし、歌舞伎において女形を務める男のように、宝塚において男役を務める女のように。普通ではない彼が務める普通はあまりにも普通過ぎて。そんな余裕が、更に彼の欲望を解消することに一役買っているのだ。
「なんで、ライン無視するの?」
「逆に聞くけど、俺は送ってくれって頼んだか?」
「いぅ……」
それは、マゾヒズムに悦を与える言葉ではない。ただ冷たく突き放すような物言いに、柚子は形容しがたい不安を覚えた。
しかし、彼は他に何も言わない。沈黙こそが真理だ。他にどんな雄弁を語ったとしても、与える事そのものに隙が生じる。得にならないのなら、喋らないのが一番の有効策である。
……問題は、柚子がどんな脳内フィルターを通して彼を見ているのか。その予測が甘かった事なのだ。
「きょ、今日も、お父さんたち帰ってこないんだって」
「そうか、鍵閉めとけよ」
この、普通を装った少しの気遣いが、彼が自らを隠す嘘こそが。皮肉にも、彼女の危ういバランスで成り立つ心の行く末を決定付けたのだ。
「……えへへ、えへ。えへえへ。えへへえへえへへへ」
「なに?」
「えへ」
× × ×
気が付くと、カーテンが閉まった薄暗い部屋にいた。手足が縛られていて、椅子から動く事が出来ない。
徐々に意識が覚醒してくると、突如として後頭部を激しい痛みが襲った。床には、少しの血溜まりが出来ている。テーブルには、血の付いたトンカチ。
どうやら、殴られ気絶して運び込まれたらしい。改めて冷静に見てみると、そこは柚子の部屋だった。
「おはよう。い、意外とすぐに起きたね」
「おはよう、痛み止めをくれ」
「私ね、考えたんだ。いひ。ど、どうしたら、私が薫君を好きになっても許してくれるかなって」
言いながら、水と薬を優しく彼の口へ運び飲ませてあげる。聞いていないようで聞いているということは、彼女の精神が崩壊したワケではないのだろう。
冷静にこの状況を作り出した事実こそ、彼にとっては最も問題なのだが。
「それでね、配信してオタクにモテまくったら、ひょっとして好きになっても許してくれるんじゃないかなって。いひひ。そ、そんなふうに思ったの」
『カノジョにしてもらう事』ではなく、『好きになる事』を認めてもらいたいとは、本当に卑屈さと性癖を拗らせ過ぎて何が何やら分からない様子だ。
「……そうか、そいつは愉快だな」
「でしょ? だから、ずっとここで、んふふ。ずっと、ずっと、見ててね」
「何をだ?」
「わ、私が、人気になっていくところ。私、頑張るから。薫君の事、好きになってもいいって言ってもらえるように」
……プライドとは、非常に厄介な代物だ。こんな緊急事態に陥っても、少しだって捨てる気にならないのだから。
まして、これまでの人生ですべてを思い通りにしてきた彼が、「解放しろ」だなんて安直な願いを口に出すワケにはいかない。出せるワケがない。
何としてでも、柚子の方から「開放させてください」と言わせなければ気が済まない。この非常事態に考えていたのは、そんな事だった。
「じゃあ、着替えるね」
すると、柚子は彼の眼の前で着替えを初めた。どうやら、彼女の趣味を反映したコスチュームであるらしい。ウィッグまで被って、すっかり別人のようだ。
「初めまして、スーパーやみ子ちゃんだよ〜。ちゃんまでが名前だから、ちゃんちゃんって呼んでね。よろしく〜」
意外なほど、柚子の喋りはハッキリとしていた。どうやら、人を前にしなければ思い通りに言葉を形取れるらしい。
「それじゃ、またね〜」
柚子のディープなオタ話は、視聴者からそれなりの評価を得たようだ。コメントには、「かわいい」や「こいつ歳幾つだ?」などの感想が散見された。
「み、見て。一日で500人もフォローしてくれたよ。500人からモテてたら、一つくらいご褒美貰ってもいいよね」
「仕方ない、何が欲しいんだ」
「ひ、ひう。あの、キスしたいです。えへ、えへへ」
すると、彼は小さく顎を動かして近くに寄るよう指示を出し、コスチュームを着たままの柚子の目の前でジッと目を見た。
本当に、吐息のあたる一センチの距離。そこで、彼は「そこまで」だと呟く。
「……えぇ? ちょっと、な、なんで?」
「このまま、たくさん我慢したらやってあげる。手も足も触れちゃダメ」
「は、はひ」
それは、異様な光景だった。
腰を丸めて唇を焦れったく窄める柚子と、縛られながらも命令し彼女の動きを言葉巧みに操る彼。
キスを我慢させ、どんどん顔を赤くしていく彼女を観察する彼は、今までよりも強い支配欲の充足を感じている。
なるほど。足りないのは、自分への枷だったようだ。
「つ、辛いよぉ……」
歪な笑顔には、今すぐにでも決壊して流れ出しそうな愛と性の欲が現れている。胸の奥が締め付けられる感覚で、柚子は耳まで熱くなっていった。
そして、もう我慢の限界だと思ったその時。
「……っ」
彼は、ほんの僅かに唇を窄め、コンマ1秒の瞬間だけ彼女にキスをした。本当に、触れたか触れていないかも疑ってしまうような、淡い感触しか得られないような弱いキスだ。
「あ、あぁぁぁっ!」
柚子を狂わせるにはそれで充分だった。
彼女は、彼の膝の上に跨って腕を背中に回すと、めっぱいに抱き着いて目を閉じ、喘ぎ声をあげながら舌を絡ませた。
しかし、早くも『なんでも言うことを聞く』という約束を破った事に気が付いて、彼女は彼の肩に顎を置くと埋めるようにうごめく。
「誰がしていいって言ったんだよ」
「ご、ごめんなさい。ひ、ひう……」
もちろん、彼はそうさせようとして思い通りの結果が訪れたことに満足している。言葉は意味のないフェイクであり、支配とは正しくこれだと心の中で呟いた。
どちらが不自由なのか分からない。
「……一緒にお風呂入りたい」
「手錠でもするのか」
「うん、する」
こうして、歪な同棲生活は始まった。両親のいない彼と両親の帰らない彼女が関係を続けるのに、そう苦労はないらしい。
× × ×
「と、とうとう100万人だよ。薫君の言う通りにしてたら、こ、こんなに人が集まるように、な、なったんだよ。えへへ」
三ヶ月後、事態は思わぬ方向へ進んでいた。
彼が柚子へ興味深い話を教え、或いは垢BANギリギリのラインを攻める命令を繰り返すうち、いつの間にか人気配信者となっていたのだ。
盲目が聴覚を覚醒させるように、体を縛られた彼は脳を驚異的に覚醒させていたのである。
「わ、私、こんなにいっぱいモテる女になったんだよ。褒めて?」
もはや、柚子は自分は最初から彼の自分の一部であって、何かの間違いで別々の体に生まれてきてしまったのだという錯覚に陥っている。
「よくやったな、偉いよ」
一方で、彼もまた彼女を操り世間の無能なバカどもを思いのままに操る感覚に酔い痴れていた。
決して出会う事のない、たった一人の女に振り回される惨めな人生を歩く人間たちは、一体どんなアホ面を下げて生きているのだろうかと。
最早、外へ出られない彼は、そうやって他者を見下すことでしか意識を保てなかった。
「も、もう、好きになってもいいですか? ひひ……」
泣きそうな顔。
登録者が増えたご褒美を貰うたび、柚子の表情はどんどん歪になっていった。
いつまでたっても、恋は始まらない。それなのに、既に彼の体に触れていない場所はなくて。自分だって、捧げられるモノが無くなるくらい全てを捧げたのに。
柚子は、少しだって心の距離が近付かない事に折れそうで、けれど抱いて貰えるから狂いきれなくて。彼が見たがった笑顔はとうに失われ、毎秒を悲痛で泣きそうな顔のまま生きていた。
「ダメだ」
過呼吸になりながら、柚子は服を脱いで彼の上に跨った。痩せ細って、女の自分でも押し倒せてしまうような筋肉も肌艶もない体。
抱き締めて、貪るようにキスをしたって、彼はコケた頬と薄い唇を歪めるだけだ。
「み、見て? こんなにいっぱい、本気で結婚を申し込んでくる男がいるんだよ?」
「ダメだ」
「会社だって、私に商品を紹介してくださいって頼むんだよ?」
「ダメだ」
「わ、わ、私、私ね。いひ、いひひ……。ひぅ……」
涙が流れて、彼はそれを犬のように優しく舐めた時、彼女の心は「なんでも言うことを聞く」という最後の一線だった約束を凌駕して壊れた。
「……好き、好き好き好き。死ぬ」
もう、何をやっても好きになってはいけないと、彼女は諦めてしまった。故に、彼女は恋をして、彼の首筋を思い切り噛み千切った。
「一緒に死ぬ、一緒に死ぬ。薫君と一緒に死ぬ。死んで、ちゃんと一つになる」
胸にナイフを突き刺され、溢れ出た液体を含んだ柚子は口移しで彼の中へ唾液とともに流し込んでいく。うねり求める舌を絡め、音を鳴らして落ちていく。
ドロドロと中を流れ、ドクドクと外へ流れて。体が重なるくらいに強く抱いて。そうやって、朦朧とする意識の中で彼の陰茎はこれまでにない程膨張していく。
「いひ。いひひ。えへ、えへへ」
ザシュと切り裂き、臓物が腹から飛び出す。しかし、そんなものには目もくれずに下着を下げると、柚子はゆっくりと腰を下ろして淡く奥に擦らせた。
「あへ、あへへ。と、止まんない。ひぃ……っ」
そして、朦朧とする意識と、殺させないアドレナリンを分泌する快楽の狭間で彼は気が付いた。いつも、彼女を写していたカメラが自分たちを捉えている。
「柚子、世界一かわいいよ」
果たして、それは誰に呟いた言葉だろう。彼女に恋い焦がれた視聴者たちに、こんなにも狂うほど愛する男がいるという自己主張にしか聞こえない。
何がここまで
「好き。大好き」
この一部始終は、配信を通して全世界へ届けられている。視聴者を表示するカウンターは、あり得ないほどのスピードで数字を伸ばしていった。
世界中が、釘付けになっている。柚子は、彼と世界を手に入れた快感で踊り狂い、やがて目を閉じた彼を追うように自らの喉をナイフで突き刺した。
死体には、手錠がかけられている。
事切れても、彼の願った支配は叶わなかった。
【短編】メメモリ 夏目くちびる @kuchiviru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます