とある雨の町にて
かえさん小説堂
とある雨の町にて
ドアベルの音が小さく空気を揺らして、私は扉の方をちらと見やる。
帽子を被った、茶色いコートを着こなす背の高い男性が、重たそうな鞄を床に置いて、袖に丸く浮かんだ露をはらっていた。帽子のつばからは、ぽたぽたと、雫が散らばっては転がっている。
「雨が降っていましたかね」
グラスを磨く手を止めて、背後に飾った酒瓶のなかから、ひとつ、丸々と、ひときわ大きな瓶を取り出した。
私は、あの茶色いコートの男性を、「ガクさん」と呼んでいる。
ずいぶん前から頻繁に訪れてくれている、いわゆる常連さんだった。彼は初めて来た頃から、暇さえあればこの店に足を運んでくれる、私の唯一の、長い付き合いの知り合いだった。
ガクさんはコートを大きくはためかせた後、鞄と脱いだコートを手に、いつもの、カウンター席の真ん中に深く腰掛ける。
「来る途中で降られちまった。ったく、災難なもんだ」
「暖房、もう少し上げましょうか」
「ありがたい」
そう会話をしながら、私は手を進めていく。
もう目をつむってでも、この酒は造れてしまうだろう。何度も繰り返しやって来たこの手順で、坦々と完成へ進めていく。そしてその様子を、ガクさんは飽きもせず、じっと見る。
毎日のように繰り返されてきた光景だった。
透明に磨かれた、逆三角形型のグラスに、そっとカクテルを注ぐ。グラスにうっすらと濁った色が満たされていく様は、何度見ても良いものだった。
私がグラスをコースターに乗せて差し出すと、男性は何も言わずに、控えめに口をつけ、煽った。
「うん、やっぱり俺はこのギムレットが一番好きだ。なんというかこう、ぐっとくる味なんだよな」
「それはうれしいことを言ってくれますね」
「んや、ただの本心だよ」
「それは、ますます嬉しいですね」
ガクさんはしばらく黙って酒を口にして、はあ、と重くため息をついてから、ゆっくりと話し始めた。
これも、いつもの出来事だった。
「なあマスター、俺よ……持ち主のところへ帰れるかもしれねえ」
少し気まずそうに言うガクさんに、私は笑顔を見せる。
この町は誰にでも出られるわけじゃない。しかし、この町の誰もがここを出たいと願っている。
突然の特権に、ガクさんは私に気を使ったのだろう。彼は、そういう気遣いが多い男だった。
「それはよかったじゃないですか。お祝いですね」
私は本心を言った。しかし、彼はまだ顔を明るくしようとしない。
「そりゃそうなんだが……ここに来れなくなると思うと、ほんの少し未練があってよ」
本心を素直に話そうとしないのも、変わらない。
「もしそれで気持ちを害しているのだとしたら、ここのことなんか、きっぱり忘れるべきですよ」
私がそう言うと、ガクさんはまた黙って、グラスの肌をなでた。薄く濁った水面が円を描く。
私は再びグラスを磨きはじめた。
「ここは私たちのような、人間に捨てられた夢が住む町なんです。言ってしまえば、ゴミ箱なんですから」
「そう言うことはないだろう。持ち主だって、捨てたくて捨てたわけじゃあるまい」
「……それもそうですね」
それは、私も痛いほどわかっている。
しばらく、キイン、という静寂が流れた。その音を嫌うように、ガクさんはグラスを傾けつつ、話をし始める。
「俺の持ち主はさ、絵画コンクールで全国まで行って、でも結局、他の連中に盗作されて、夢を……俺を捨てたんだ。あれ以来、筆を執ることなんてなかったんだがよ。最近になって、またやる気を出したらしいんだ」
そう話すガクさんは、照れたようにはにかんで、顔を手で覆う。
「素直に喜べばいいんですよ」
「俺だって嬉しいさ。ようやく俺の存在が意味のあるものになるんだからよ」
「では、今夜のお代は結構です。お祝いということで」
「そりゃいけない。あんただって仕事でやってんだろう」
「ええ。でもいいんですよ」
「……あんたがそう言うなら、お言葉に甘えさせてもらうがよ」
ガクさんとは長い付き合いだ。私が本当は頑固な性格であることを重々知っている。
私はグラスを磨く手を止めて、静かにガクさんに向き直った。
「今日が最後になりそうですね。ガクさんにはお世話になりっぱなしで」
「いやなに、ただの常連客さね」
「それがありがたいというものですよ」
はは、と、軽く笑いあう。
こんなことも最後となると、なんだかいつもの時間がとても速く過ぎて行ってしまうようで。
いつもより少し早く進む時計の針に追われるように、私は眼前の思い出を頭にしまい込んだ。
そんな私とは違い、ガクさんは落ち着いた様子で話していた。
「……なあ、もしまた俺がこの町に戻ってきたら、ここにまた飲みに来てもいいか」
ガクさんの視線は薄く濁った水面を指している。
「冗談でもそういうことを言うものではないでしょう」
「可能性として考えられなくはないだろ」
「ここに戻ってきてはいけませんよ」
自嘲気味に、少しの不安を隠して言う彼に、少し言い方が強くなってしまった。
ため息一つついて、また訪れる、キインという音を振り払う。
「今日はどちらにせよ、お代をいただくつもりはなかったんです。もうじき、私もこの店も、なくなってしまいますから」
「何だってそんなことを言うんだ。あんた、これまで数十年間、この町で生き続けただろう。」
「ええ。……しかし、私の持ち主は、すっかり老いてしまった。いつ記憶がなくなるのか分かりません。こうやって店を開けるのも奇跡なくらいです」
「そうかい」
ガクさんは、何とでもないように言ったつもりだろう。明日の天気でも聞いたときのように。
けれど、たった四文字の言葉に、こんなにも感情が込められたことはあっただろうか。
「聞いてもいいかい、あんたのことを」
耐えかねたように、ガクさんは言った。
私自身も、忘れてしまいたいことだった。
「……私はね、ある男の夢だったのですよ」
私の持ち主が、私という夢を持ったときは、まだ年若い少年だった。
色褪せた服を嫌がることもなく何度も着て、ぼろになった本も、持てなくなるほどまで短くなった鉛筆も無理して使うような子だ。
その子の家は裕福とは言えなくて、いや、むしろ貧しいともいえるほどの苦しい毎日を送っていた。
父は早くにどこかへ旅立ってしまい、夜な夜な泣き崩れる母親と、疎開先の親子と暮らす、幸運とはかけ離れた子だった。
けれど、私には、その子が不幸を嘆いているようには見えなかった。
それは私がいたからだと、すぐに気が付いた。私……夢の存在があったからだと。
少年はまだ幼いながらも、白湯のような米を飲んで、たったそれだけの飯で、よく働いた。
泣いている母親を横目に見ながら、「おれは泣いちゃだめだ」と、骨みたいな腕をぶんぶんふるって、しっかり地に足をつけて歩いていた。
屋根から落ちてくる冷たい露も、大きな音で怖がらせる雷にも、小さなこぶしをぎゅっと握って耐えていた。
私はもう一つ気づいた。その少年の隣には、いつも、かわいらしい女の子がいたことを。
疎開先の子供らしかった。少年とは同じ年ごろで、ぼさぼさになった前髪をおでこの上で結んだ、はっきりとした物言いをする女の子だった。
「お母さんはね、あなたたちのことがきらいみたいなの。しんせきって言っているけど、とおい、とおい縁で、あかのたにんみたいなものなんだって」
「ぼくのお母さんは、そんなこと言ってなかったよ。仲のいい人たちだから、きっと助けてくれるって」
「ううん、それはうそなんだって。血もつながってないって言ってたもん」
ああ、子供に何てことを教えているんだ。私は勝手ながらも、そう思った。
「でも、大丈夫よ。あたしがお母さんのかわりに、あなたたちのこと助けてあげるわ。お母さんに知られたら、たぶん、あたしも怒られてしまうかもしれないけど、そんなのいいの」
「じゃあ、ぼくは君のことを助けるよ。これでお互いに助けあっているから、きっと安全だ」
何という純恋だろう。いや、それは恋というにはまだ綺麗すぎるだろうが、とにかくも、私はこの少年の夢として存在することを誇りに思った。
やがて時は立つ。少年は今や青年と呼ばれるほどの男になり、持ち前の働きぶりをして、厳しいながらも仕事をして働いていた。
無論のことながら、あの少女も一緒だ。短かった髪も伸び、しかし幼さのまだ残る、初々しい乙女になっていたのである。
私はまだ、あのころの少年の夢として、彼のそばにいた。このころは、捨てられるなんて、予想もしなかったのだ。
なぜなら青年と乙女は、もう婚約まで交わしていたから。
このままなら、私はもうすぐ叶えられる。彼の夢としての存在意義を、果たすことが出来る。
そう思っていた。
そのときは、青年は少し遠くの場所まで仕事に行っていた。まだ朝早くの時間だが、小さいころからの働き者で無理しがちな性分故に、早く出発してしまったのだ。
乙女を起こさないようにそっと家をぬけだして、歩くこと、しばらく。
誰もが油断していた。
そして、八時十五分がきた。
突然の爆音と、目の前が真っ白になってしまうほどの光が届く。火薬のにおい。
急いで振り返って走った。私も、何が何だか分からなくなり、ただ、彼女の無事だけを祈っていた。
家に近づくにつれ、木や草が燃えるにおいがする。走っていると、風のなかに呻き声やら、ものが崩れ落ちる音やらが流れてきた。足を止めたいけれども、今は彼女の安全を確認するのが先だ。そう思って、息をきらしながらも、全力で走った。
そこはまさに、地獄絵図だった。
もともと何もなかったかのように平たくなった土地に、影もない。
その瞬間、私は、一瞬の浮遊感を覚えた。
足元の地面が消えていく。
「待って!まだ、助かっているかもしれません!」
私の声と比例するかのように、だんだんと崩れていく地面。
「彼女はまだ……」
本当は私にもわかっていた。彼女がもう、この世にいないことを。
「待って、」
完全に地面が崩れ、青年の背中が消えていく。
「捨てないでください……」
その言葉を言ったときには、私は見慣れない町の真ん中で、一人で立っていた。
「あんたはその婚約者と幸せに暮らすっていう夢だったんだな」
ガクさんの声に、意識が現実へと戻される。
私は、暗くなっているであろう顔を引き締めて、口角をあげて見せた。
「決して叶うことはありません。でも、私はずっと忘れられることはなかった。夢は忘れられたら死にますからね。……けれど、結局は数十年と永らえることになってしまった」
「捨てたとはいえ、忘れることはできなかったってわけか」
青年は、今でも私のことを覚えている。
私が見た青年の絶望した背中は、どうなっているのだろうか。
「あの青年が気の毒です。私のことなどさっさと忘れて、他の幸せを見つけるべきだった。そのせいで今、彼は孤独に死を遂げることになっているのですから」
「……あんた、死後の世界ってやつを信じるかい」
ガクさんが、グラスを一気に煽って言う。
グラスの薄い濁りはなくなっていた。
「まあ、この町があるくらいですし、あるのではないですかね」
「じゃ、あんたは叶うよ。持ち主が死にゃ、あの世で待ってるお嬢さんが迎えてくれるだろうからね」
「忘れられていなければいいのですが」
「は、何、心配することはないさ」
そう笑うと、ガクさんは、空になったグラスを私の目の前に突きつけて、こう言った。
「その恋にギムレットは早すぎるだろう?」
有名な言葉だった。
少し昔の、外国のハードボイルド小説の名セリフだったと思う。「ギムレットには早すぎる」というやつだ。
ギムレットは「別れ」を意味する酒であり、そのセリフは、「別れるにはまだ早い」という意味だっただろう。
私はそうやって記憶をたどっていると、なんだか少し面白く、つい吹き出してしまった。
「ガクさんが言うと、本当にフィクションのワンシーンみたいですね」
「俺はこの台詞に憧れてこいつを飲み始めたようなものだからな」
「そうだったのですか?」
「そうさ。今日だから言うけどな」
格好つけた後に、茶化したように笑うのも、ガクさんの特徴の一つだった。
懐かしむように目を細めていると、ガクさんはカウンターにグラスを置いて、何ともなく言った。
「な、今日はもう一杯頼んでもいいかい」
「はい、なんなりと。何をお造り致しましょうか」
「ジントニックを頼む」
「かしこまりました」
ガクさんがギムレット以外を頼むのは珍しいことだった。
最後の日だからと、洒落こんでいるのだろうか。私はそう思いながらも、手際よく酒を造っていく。
いつもギムレットばかりつくっているからか、少しだけ緊張した。ガクさんは、ギムレットを作るときと同じように、こちらをまじまじと見つめていた。
最後の一滴まで注ぎ終えると、同じようにコースターに乗せて差し出す。
しかしガクさんは、差し出されたグラスを取らずに、私の方に返してきた。
「これはあんたのために注文したんだよ」
「え?」
予想もしなかった言葉に、一瞬固まる。
ふと、私の脳裏に、こんな記憶がよぎった。
ジントニックの意味は、「いつも希望を捨てないあなたへ」であり、友人を励ます際に頼まれることがある。
ガクさんを見ると、穏やかな表情で、私を真っすぐに見ていた。
「腕のいいバーテンダーだ。味は保証するぜ、親友」
軽くウインクするガクさんに、私は唇が引き締まるのを感じた。
「……ガクさんが言うのなら、間違いないでしょうね」
「ああ、俺の舌はよく肥えているからな」
自信あり気に言う姿は、やはりいつものガクさんだ。
「……さて、俺はもう行くとするかな」
カウンター席の真ん中。ガクさんの特等席が、とうとう外された瞬間だった。
私はカウンターの中から出て、扉の目の前までガクさんを見送る。
「ようやくこいつの出番がきそうだよ」
扉の前で、振り向きざまに、重たそうな鞄を持ち上げて見せる。
以前、持ち主に捨てられる前によく使っていた画材だそうだった。どれも古くて年期が入っており、鞄のふちについている絵具たちが、その歴史を語っていた。
私は、ガクさんに向き合って言う。
「きっと、世界一の絵描きになってみせてくださいね」
「傑作の嵐になるだろうよ。ピカソも墓の中から嫉妬するさ」
最後まで、ガクさんは自信ありげに笑っている。
「あんたも、叶うことを祈っているよ」
ドアベルの音が小さく空気を揺らした。
ガクさんは雨の中を、軽々と走っていく。
その背中を見送って、私は静かになった店の中に戻った。
カウンター席の真ん中に座って、置いてあるジントニックを手に取る。
美しい水面が、私のくしゃくしゃになった顔を揺らしていた。
とある雨の町にて かえさん小説堂 @kaesan-kamosirenai
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